=ΦωΦ= 肉は結構もっさりしている Uo・ェ・oU
「鳴けや、養豚野郎」
「あひぃいぃぃぃ!」
自重しない男ハインはとてもいい顔をしていた。マーシャが危惧した通りに。
足元には、いや、足下には汚い豚領主。
何がどうなってそうなったのかは、誰も語るまい。姐さんがいなくて他のニャンコもいない状況で、ハインが己を抑止する理由などないのだ。今の状態は当然の帰結と言えよう。
「この街では? 発現者よりも? “慾望”の強い自分のほうが? 強い? んじゃないですくぁ?」
嘲笑うハインに返すだけの余裕を豚領主は持っていなかった。ボンレスハムよろしく紐で――縄ではないところはハインのこだわりだ――縛られている豚領主に、抵抗してみろと言うほうが無茶なのかもしれない。
ハインはケタケタと愉しげに笑った。
縛られ足蹴にされてはいるが、豚領主に目立つ怪我はない。腹に多少の痣は残っているかもしれないが、それも時間と共に綺麗に消えるだろう。
ハインは他人の顔を絶望に染めて泣くのを眺めるのが好きだ。それ以上に、他人を物理的に虐げるのも好きだった。そう、まるで瀕死状態の獲物を弄ぶ無邪気なニャンコのように。
ニャンコと違うところは、実に愉しそうに嗜虐的に笑うところと、血を一滴も流させないところだ。鼻血はノーカン。
「土着正義ってのはよ、パンピーでも恩恵は与えられっけど、扱いに一番長けてんのは、やぁっぱ発現者なわけだ」
最初の威勢がまるでなくなった豚領主の脇腹を爪先で小突く。弱く鳴いた。
「しかもだ。土着正義と発現者自身の正義が似た性質を持ってると、威力は格段に跳ね上がるんだ。知ってたか?」
無駄な広さを誇る地下室には、ハインと豚領主以外にももちろん人はいた。多くが豚領主の護衛だか警備だかの人間だ。今はそのほとんどが床に突っ伏してピクピクと痙攣している。
その様をぐるりと見渡して、ハインは深く吐息した。
地下室にはそれ以外の人間もいた。ハインと同じく、ここへと連れて来られたと思われる発現者たちだ。ボロボロになっているところを見るに、どうやら豚領主にいたぶられていたらしい。
その様も見渡してもう一度深く吐息する。
こういう前例があったからこそ、豚領主はハインも彼らと同様と侮ったのだろう。動きさえ封じてしまえば、発現者恐るるに足らず、と。
彼らの縋るような視線を受けて顔が歪む。
発現者なら自分の力でどうにかしろと言いたい。
仮にマーシャがここへ連れてこられていたとしても、あのバカ犬は最後まで噛み付くことをやめないだろうと思った。たとえ能力を使えない状況に追い込まれても。何事も諦めないことがマーシャの美点である。
それを思うと本当に情けない。
「この養豚野郎が」
やるせない感情は、とりあえず豚領主を虐げることで晴らしておく。
「……土着正義、壊しとくか」
「なっ――!?」
何気なくつぶやいた言葉に豚領主が顔面を白くさせる。見事な白豚だと笑う気になれないほど、その表情には鬼気迫るものを感じた。
当然だろう。これまで豚領主の横暴が許されていた根源が潰されるかもしれないのだから。
「お前が好き勝手にやってるってことは、国には知らせてないんだろ? まさか国が“慾望”なんてある意味扱いやすい土着正義を豚に下げ渡すとは思えないし」
「それは……」
「協会にも届けてないんだろ?」
カタカタと震えだした豚領主の脇腹を再度小突く。強く蹴ったつもりはなかったのに、豚領主は転がった。
なんだ、同情でも引くつもりか。ニャンコならともかく、豚がそんなことをしてもハインの感情は一ミリたりとも動いたりはしなかった。むしろ不快度指数が跳ね上がるだけだ。
だがハインが顔に浮かべた表情は笑顔だった。喜悦に歪んだ笑顔ではなく、本人の中では最上級の爽やかさを伴ったいい笑顔だ。
うずくまる豚領主の傍らに膝を突き、その肉に覆われた肩に手を置く。
「安心しろ。俺はちくったりしねぇよ」
震えながら顔を上げる豚領主に微笑みかける。慈悲たっぷりに。
「俺の要求に応えさえすれば、な?」
豚領主の顔色が土気色に変わった。
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豚領主がひとしきり醜くブヒブヒ泣いたところで、マーシャを伴った姐さんがそこへやってきた。一もなく二もなく、三もなく四もなく姐さんの元へハインが駆け付けたのは言うまでもない。
「姐さ~ん」
今の今まで豚領主を精神的にやつれさせたとは思えないほどのニャンコ撫で声。その変わり身の早さに、恐れおののくことすらできないでいる豚領主がそこにいた。
「あーあ、被害者のお兄さんが被害に遭う前に、お兄さん害に遭っちゃったっすね」
何やら言っているマーシャの声はハインの耳にまで届かない。
這いつくばるハインに対して、姐さんはどこまでもクールな態度を崩さなかった。幸せニャンコパンチをくれるでもなく、幸せ肉球合わせをしてくれるでもなく、もちろん爪でひっかくこともなく、恭しく平伏するハインを前にゆらりと尻尾を揺らめかせるだけ。だがハインにはそれすらご褒美になりえた。
――姐さんの奴隷で良かった。
ハインはその至福に打ち震えた。
「被害者のお兄さん、もう大丈夫っすよ。姐さんが来たからお兄さんの攻撃も口撃も、気持ちマイルドになるっす」
なんの慰めにもなっていない慰めに、それでも豚領主は希望を持ったようだった。顔を上げた豚領主ににっこりと笑いかけるマーシャの姿は、さぞ輝いて見えただろう。暗闇に射した光とばかりに。
姐さんを讃えるには万の言葉を並び立てても足りないながらも、稚拙な言葉を並び立てながらハインは口元にニヤリとした笑みを浮かべた。
愚かな豚領主。鞭を与えた後に用意された飴がただ甘いだけなわけがなかろうに。
無邪気なバカ犬マーシャに精々懐くがいい。そこからめくるめく飴と鞭生活が始まるのだ。
「お兄さんが悪い顔してるっす」
「なぜわかる」
互いに背中を向けているというのに、こういうことだけは無駄に鋭い。
姐さんの麗しさを存分に堪能した後に腰を上げる。ビクリと震える豚領主をつまらなそうにいちべつしてから、部屋の隅で身を寄せ合っている発現者らしき人間どもに顔を向けた。
どうしたもんか。
助けるのは別にいい。彼らに欠片の興味もなかったが、恩を売っておいて損になることなどないはずだ。もしかしたら彼らの中の誰かが姐さんに相応しい極上のお食事を用意するかもしれない。
もう一度姐さんに視線を落とす。
姐さんはその場で優雅に尻尾を揺らしているだけだった。
「おい豚」
「はひっ!」
「あいつらなんだ?」
今さらながら確認の問いを投げる。この場にいるボロボロの人間だから発現者だろうと思っていたが、実は違ったという可能性も否定できない。むしろそうであって欲しい。発現者が、土着正義の恩恵を受けただけのバカな豚に虐げられているとか、そんな腹立たしい事実はないほうがいい。
豚領主はハインの様子を怖々と伺いながら、どこか慎重に口を開いた。
「か、彼らは、ひ、し、使用人です」
「皮脂使用人って、皮脂専門の使用人っすか?」
「ああ、だろうな。選ばれた皮脂使用人だけが真の菱形の皮脂を極めるという」
「すごいっすなー」
こうしてマーシャは間違った知識を蓄えていく。すべてハインが悪い。だが反省はしない。
それはともかくとして、どうやら彼らは発現者ではなかった模様。虐げられていたことに変わりはないのだろうが、発現者でないのならば助けてやらなくもない気持ちが少しだけ湧いてくる。
良くも悪くも発現者というのは、自尊心が強い。助けたことで逆に因縁を付けられることもままあるのだと聞いたことがある。
他人の正義と相容れないことなんて普通だ。発現者同士だからこそ争いに発展することは至極当然のことだった。
「マーシャ」
「なんすか?」
「腹減ってないか?」
「ペコペコっすよ。今すぐお肉に噛り付きたいっす。熱々の肉汁どぱーのもっさり肉」
「もっさりってなんだよ」
あえて美味しそうな表現を避けているのかと疑いたくなる言いように軽く眉をしかめる。
だが文句を言うのは多少遅かった。
「ふお?!」
マーシャの目の前にそのもっさり肉なるものが出現したからだ。
一抱えほどある白い皿に、じゅうじゅうと音を立てて肉汁を弾けさせるやたらでかい肉の塊。切り分けてある、などという親切さはなくブロックで。普通なら絶対中まで火が通っていないだろうと思えた。
そして、もっさりしていた。
いや、肉に対する表現ではないとハインもわかっている。わかってはいるが、それをもっさり以外の表現で言い表すことは極めて困難だった。芸術的なまでの見事なもっさり感である。
「なんかおいしそうじゃないっすね。せっかくのお肉なのに」
「お前が言うな」
特に説明もしていないのに、“食慾”だけで土着正義の恩恵を受けたことに驚きを隠せない。具現化された肉がどうにも食欲をそそらないことを除いてではあるが。
もっさり肉が具現化されたことに驚いたのはハインだけではなかった。豚領主もまた、驚愕に眼を剥いていた。
さもありなん。
今まで豚領主の慾望を後押ししていた土着正義の恩恵を、なんの説明もなしに受けたのだ。普通なら土着正義の仕組みを十分に理解して、そして何度も試して初めて恩恵を受けられるものなのである。食欲だけで具現化まで実現させるなど普通ならありえない。
これはマーシャが発現者だから、という理由だけが関係しているわけではない。
ハイン自身も土着正義を利用してみてわかったことだが、心の底からの慾望に起因していなければ土着正義は恩恵を与えない。豚領主がボンレスハムになったら面白い超面白い見たいすっごい見たいと本気で欲して初めて実現したのだから、これは確実だ。ハインの“嗜虐慾”は絶好調で人の道から外れているのである。
嗜虐欲が強いハインとは違い、マーシャが持つ強い慾望はその本能だ。食欲も当然その本能に含まれる。
ただし、マーシャの場合はその慾望をうまいことコントロールができないので、こんなもっさりした肉が具現化したのだろう。非常に残念なバカ犬である。
「でもお腹空いてるからもっさりしててもダイジョブっす」
言うや肉の塊に噛り付く。熱くないのかと一瞬心配するが、ニャンコ舌のハインと違ってマーシャは熱いものも平気だ。
「もっさり!」
モゴモゴと口を動かしながらマーシャが叫ぶ。それが肉の感想だとしたら、ますます食欲は減退した。
羨ましそうに肉を見るな豚。
なんとなく豚領主の脇腹を小突いたら、また醜く鳴いた。
「おい養豚、そろそろ真面目な話でもするか」
「ひ――」
「中心激レア!」
「うっせぇバカ犬」
せっかく豚領主の悲鳴を聞こうと思ったのに、という文句は胸に留めたままマーシャを蹴り転がす。
マーシャは卑しくも肉を頬張りながら転がった。どれだけ食い意地が張ってるんだと呆れが湧いてくる。確かにハインも腹は減っているが。
激レアだとかいう中心部は食べるなよという忠告すらする気が失せてくる。
「お兄さん、気付いてないと思うから言うっすけど」
「あん?」
「ニャンコが警戒態勢っすよ」
モゴモゴと口を動かしながら、マーシャが姐さんを指差す。姐さんに対してなんて不遜な、との文句は姐さんの様子を見て喉の奥に引っ込んだ。
泰然自若と常に涼しい顔の姐さんが、耳をピンと立たせて腰を浮かせ、この地下室唯一の出入り口を凝視している。その姿さえ麗しいとは、なんと罪作りな姐さん。
確かに言われてみれば警戒中のようだった。
暴漢の前にも怯まずに踊り出る姐さんがここまで警戒を露わにしているのだ、何かがあるのだろう。
豚領主を縛る紐を限界まで締め付けようとしていた予定を繰り下げ、ハインは姐さんの半歩前へと進み出た。いつでも姐さんを守ることができる位置だ。
横倒しになっていたマーシャも、名残惜しそうに肉を見つつも立ち上がる。
地下室にやって来たときに鉄製のドアをマーシャは閉めなかったのか、開け放されたままのドアの向こうから音は聞こえてこない。
否。
ヒタ、ヒタ、と素足で石床を歩く音がかすかに聞こえてくる。
足音を消すために靴を脱いだのに素足でも消しきれなかったとかいう間抜けな誰かだろうか。
ヒタ、とドアの前で立ち止まる音。
「お兄さん、マーシャすっごいイヤな予感がするんすよ」
「偶然だな。俺もだ」
背中に隠れるようにして、マーシャがハインの服の端をつかんでくる。ひらりとした身軽な動作で、姐さんがハインの肩の上に乗った。
のそりと何者かが地下室へと入ってくる。
いや、顔だけを覗かせた。
無造作に伸ばされた髪の間から片目だけを覗かせて。
あのホラー兵器が。
ハインとマーシャは揃って悲鳴を上げた。