=ΦωΦ= 脂ぎった被害者は水に浮かぶ Uo・ェ・oU
シリアスさんがインしました
「あ、被害者っす」
「そうだな、被害者だな」
阿鼻叫喚の祭りの終わりに、それは現れた。
いつかの再現のように入室してきたそれを指差し断言するマーシャに、ハインは当然の流れに従って同意を示した。
それはとても豚に似ていた。いや、むしろ人間に似た豚と言ってもいい。
値の張りそうな衣服に包まれた豚。
不快気に眉を跳ね上げながらも口を開かないのは、ハインもマーシャも揃って目を赤く泣き腫らしていたからだろう。マーシャはともかくとして、いい歳のハインが目を真っ赤にしている様は異常に映ったことだろう。しかもハインの頬にはざっくりと姐さんに引っかかれた痕が残っている。
怒りよりも何よりも、そちらにまず疑問が行ってしまってもおかしくない。
「いったい何があったのだ?」
豚が鳴いた。低くしゃがれた声で。実に耳触りである。幻想を織り混んだかのような姐さんの声と比べようもない。
恐らくはこれが領主なのだろう。それっぽい。
「マーシャ、ワンコになるための努力をしてきたつもりだったっすけど、ワンコの気持ちを全然理解してなかったんすよ」
しょぼんと効果音が付きそうな勢いでマーシャがうなだれる。触発されたようにハインもうなだれた。
「姐さんに嫌われた世界に意味なんてねぇ。壊れてしまえばいい。壊れろ」
呪詛を垂れ流すハインに、姐さんはいちべつも向けてくれない。誘惑するように尻尾を揺らすこともなかった。
世界の終わりだ。
「わしは発現者が訪ねてきたと聞いたんだが」
「あ、はーい。マーシャそうっすよ」
元気よく手を上げるマーシャの後ろ頭を思いっきり叩く。
「バカかお前は! 簡単にバラすなって前から言ってんだろうが!」
「でもマーシャ、ウソはいけないと思うんすよ」
「ウソじゃねぇよ。自己防衛だ」
口を尖らせるマーシャの額を小突く。
前々から何度も言い聞かせていたにもかかわらず、このバカ犬にはまったく響いていなかったのかと思うと頭が痛い。本当に学習しないなこのバカ犬は。
他人に発現者であることを知られることは危険が伴う。
誰かに利用されるリスクを一般的には言われがちだが、実は世間で言われるほどたいしたリスクではない。能力の根幹をなすのは発現者自身の正義だから、意に沿わぬことにはうまく能力を使うことはできないのだ。能力が発動しないことさえありうる。
危険なのはそこではない。
発現者にとって一番危険なのは、揺らぎを与えられることだ。
発現者の能力を形成するものは発現者の持つ正義だ。能力の根幹たる正義に疑問を抱くようになれば、発現者は発現者であることができなくなる。最悪、正義の崩壊と共に命を断つ発現者だっているのだ。そうして発現者ではなくなった人間をハインは知っていた。
発現者の多くがなんらかの組織に所属している理由がそこにある。
先輩発現者としてそれを何度も教え諭したはずなのに、どうしてこのバカ犬は学習しないのか。待てもまともにできないバカ犬に求めすぎてはいけないということだろうか。頭が痛い。
とは言え、バラしてしまったものは仕方がない。嘆いたところで今さら発言を取り消すことはできないのだから。
豚のくせに獲物を吟味する目になった豚領主をいちべつし、ハインは面倒くさそうに嘆息した。
「つーことで、こいつが発現者だ」
あえて自分がそうだとは言わない。
元々ハインだけがそうだと名乗り出て、マーシャが発現者であることを隠すつもりだったが、こうなってしまっては仕方がない。狙われるのがマーシャだけになる危険はあるものの、ふたり揃って馬鹿正直に名乗り出ても得はない。むしろ危険ばかりが増えることになるので得策ではない。
もっとも、この豚領主がハインもそうではないかと勘繰る可能性はあるわけだが。
ハインはどうにかわざとらしくならないように咳払いをして空気を変えた。
「名前はバカ犬」
「マーシャっすよ!」
口を挟んでくるマーシャは無視。
「んで、俺がハイン。一応嫌々ながら仕方なく、本当に仕方なく、ほんとマジで仕方なーく、面倒くさいながらもこいつの面倒を見てやってる」
仕方なくを連発したことが気に食わなかったのか、べしべしとマーシャが腕を叩いてくる。噛まれたところに響いたが、無視を貫き通す。
「マーシャとお兄さんは敵同士なんすよ」
「そうだな。一生わかりあえないと思う」
今度は無視しなかった。こればかりは全面的に同意である。
何が気に食わないのか足を蹴られたが。
「被害者のお兄さんは領主さんっすか?」
この豚にもお兄さんと呼べるマーシャに少し感心した。ハインなら普通に豚呼びしそうだ。
が。
どうやらハインは豚を甘く見ていた。豚領主は豚であるがゆえに豚であることを失念していたのである。
「要件を聞こうか」
まさかのスルー。
ハインはあんぐりと口を開けた。
百歩譲ってお兄さん呼びは流してもいい。今すぐ屠殺されろと言いたくなる醜悪な豚面を晒しておきながら、お兄さん呼びを受け入れる厚顔無恥さを恥じろとは思うが、そこは本人の自由だ。指差して笑うのを我慢するのもやぶさかではない。
だが、豚領主からすれば謎ワードである『被害者』までスルーするのはどうなのだろうか。
ノリが悪いとかいう問題ではない。人語が理解できなかったのか疑うレベルである。
やはり豚は豚ということだろうか。
「お兄さん?」
一向に話し始めないハインを訝しんで、マーシャが顔を覗き込んでくる。泣き腫らしているせいか、年齢以上に幼く見えた。
かくんと首を倒す。
ちょうどマーシャに頭突きを食らわせる形になった。
うずくまって唸っているマーシャはうるさいが、それはともかくとして。
「なんで発現者の犯罪者を野放しにしてんだ?」
単刀直入に訊く。
言葉に余計な飾りをつけずにストレートな物言いをすることがハインの美点である。ただし本人が主張しているのみ。
不遜とも言える物言いに、しかし豚領主は眉をひそめることもしなかった。
怒らせようと思っていたわけではないが、それは意外な反応だった。やはりこの豚領主は人間ではなく家畜豚なのだろうか。だったら人語ではなく豚語で話してもらいたいものだ。話されたら理解できないが。
「放置しておるわけではない」
「そりゃおかしいな。現に俺らはそいつに襲われてんだ」
あのホラー兵器が犯罪者かどうかは知らないが、そんなことはどうでもいい。何者かに襲われたという事実がある以上、賠償を求める権利がハインにはある。
豚領主からむしり取った金で奉仕すれば、きっと姐さんも怒りを鎮めてくれるに違いない。いや、鎮める。絶対だ。
機嫌を直してくれなかったら首をくくろう。そうしよう。
「この街がなんと呼ばれておるか知っておるか?」
「あ?」
謝罪の言葉以外を期待していなかったハインは、話が突然明後日の方向へ逃走したことで意表を突かれた。
怪訝も露わに顔をしかめるハインを気にするそぶりもなく、豚領主――というか紹介がなかったがこいつは本当に領主なのだろうか――は淡々と話を続けた。
「慾望の街と呼ばれておる」
デジャヴ。
いつだったろうか、そんなことを言っていた変人がいたようないなかったような。あのときはろくに話を聞かなかったが、もしかしてまた同じような内容を垂れ流す気ではあるまいか。
なんの呪いだ。ハインはただ姐さんのために資金を潤沢にしたいだけなのに。
白目を剥くハインの手首を、まるで雑巾を絞るように捻ってくるマーシャにやり返す気力さえ湧かなかった。何やってくれてるんだこのバカ犬。
「“慾望”を満たすことがこの街では正義となる」
「うあ、土着正義かよ」
顔を押さえて唸る。できれば聞きたくない事実だった。
正義は本来、人間しか持ち得ない思想だ。いや、広義の意味でならどの生き物も――生き物以外でも――持っているのかもしれないが、正義を形ある“現象”にまで昇華することができるのは人間だけだ。
例外なのが土着正義と呼ばれる――正式名があるらしいが一般的にはこう呼ばれる――ある一定範囲内でのみ有効となる、その土地特有の正義だ。どういう原理が働いているのかは知らないが、これが実に厄介な代物だった。
効果は様々なれど、土着正義の厄介なところは、発現者以外の人間にも恩恵を与えてしまうところだ。
害のない土着正義であれば問題はない。植物がよく育つとか、いいことをするとちょっと幸せな気分になれるとか。
いや、植物を増やす正義はそんなにいい土着正義でもなかったか。雑草まですごい勢いで育たせ、カビすら大量発生させるせいでその土地に住めなくなったと聞いたことがある。今では原生林もかくやという有様らしい。
(“慾望”を満たす正義、ねぇ)
聞くだにろくでもない土着正義である。誰だ、そんな正義をこの土地に用意したのは。
「腹を満たすことも、惰眠を貪ることも、欲望のままに行動することがこの街では正しいことだ」
「奪うことも、犯すことも、か?」
「しかり」
予想に違うところはない。
そして同時に思い知る。ここまで知ってしまったら、もはやハインが関わらないという選択をすることができないということを。
視線が無意識に姐さんを探す。
姐さんはすぐに見つかった。マーシャを挟んだ向こう側に。
まだお許しがいただけていないのだと悟る。ハインはうなだれた。
豚領主がそれをどう判断したのかは知らないし興味もないし、この際だから姐さん以外のすべて――もちろんハインを含む――が滅べばいいとすら思い始めていたハインだったが、
「わしは発現者が憎くて憎くて仕方がなくてのう」
マーシャの腕をつかんで腰を引き寄せる。
ざぞっ、と鈍い音が耳に届いた。
「発現者をいたぶることが、わしの一番の“慾望”らしい」
状況の判断ができていないマーシャを壁際に突き飛ばすと同時、左肩に鋭い痛みが走った。
「やはり、貴様が発現者か」
左肩に刺さった矢は、ハインが引き抜く前に泡と消えた。
土着正義による“慾望”の具現化か。豚領主の言葉をそのまま信用するのならば、発現者に対して効果を発揮するものと推測することができる。
豚領主が笑う顔は醜悪に過ぎた。まるで腐った人間のようではないか。
「後悔するぞ、豚」
それは悔し紛れの言葉と豚領主は受け取ったらしい。醜悪な笑みがさらに醜く歪んだ。
矢が突き刺さったはずの肩に傷はない。だが、心臓が何やら拒絶反応を示している。
――毒か。
脳裏に浮かんだ可能性に、だが口元に浮かんだのは笑みだった。
「お兄さん?」
不安そうに瞳を揺らすマーシャは、まだ状況を理解しきれていないのだろう。幸いにして能力を使う様子がない。それだけが救いだった。
豚領主の標的がハインだけに絞られるのならば、それに越したことはない。
姐さんもマーシャの傍にいる。非常に腹立たしくはあるが、きっとマーシャは姐さんに守られるだろう。羨まし腹立たしい。
「じっくりと楽しませてもらうぞ、発現者」
「豚を楽しませる趣味はねぇ。俺がご奉仕するのは姐さんだけなんだよ。豚臭い息で空気を汚すな。大気に謝れ豚」
口の減らないハインに豚領主はただ醜い笑みを深く歪めるだけだった。
その余裕ぶった顔を屈辱に歪ませてやる。今じゃないいつか。近いうちに。必ず。
膝から力が抜けていく。ハインは抵抗せずに体を重力に任せた。
それを見届けるでもなく豚領主が、テーブルの上に備えられているベルを鳴らす。時間を置かずにドアは蹴破られるようにして開いた。
乱暴に開けられたドアから、男どもがわらわらとなだれ込んでくる。豚領主が飼っている護衛かなにかだろうか、とてもではないが使用人とは思えない強面ばかりだった。
こちとら体が言うことを聞かないというのに、丁寧さの欠片もない粗雑さで床に押さえつけてくる。
「へう!? や、やーだー!」
マーシャも同じ目に遭っているのか、喚く声が聞こえてくる。とっさに能力を使うことに頭が回らなかったことは褒めてやってもいい。
姐さんに踏まれた塵芥以下の存在よりもなお価値のない腐れ男どもに取り押さえられながら豚領主を仰ぎ見る。
豚領主は笑っていた。つぶれたヒキガエルよりも醜く。
だからハインも笑ってやった。姐さんの麗しさには遠く及ばないながらも、姐さんの従僕としての品格を持って。
「後悔しろ」
その一言にありったけの呪詛を込めて。