幕間
遠く離れた、無関係の場所にて――
「ここで降ろしてくれ。迎えはいい。足も使わないと腐ってしまう」
閑静な住宅街の一角にある邸宅前で、少年は車から降り立った。
「左様でございますか。では、お気をつけくださいませ」「耳にタコだよ」
まるで変声期前のボーイソプラノ。声だけに限らず、まだ若干の幼さを顔にまで含ませる。これから精悍になっていくのだろうと予想される体つき。しかし驚くなかれ、これでも十代半ばを越してはいるのだ。少年の名を、光輝といった。
(アイツみたいに男らしくなれればなあ。容姿だけならおれの理想だから性質悪いよ)
今頃、慌ただしくバタバタしているであろう友人へ想いを馳せる。
本来なら外の人間を歓迎するために設けられているはずの正門は塗装が剥げ、錆びの茶色が所々に浮き出ている。昔は空のような青色だった。門を触ると茶色が指を染める。もうあのころのように綺麗な姿に戻ることはないだろう。修繕してくれる暇と金のある者はいない。光輝が援助をしてもいいのだが、あの人は他人の施しを受け取らない。自分が苦しむだけならば、甘んじてその地位に留まろうとする。
呼び鈴を鳴らすと、髪をボサボサにした痩躯の下男が出てきた。
「加稲奥さまは御在宅でしょうか」「奥さんはガーデニングのお時間のはずです」
無愛想な下男は淡々と告げる。……「はずです」。把握していないのか。
この下男を、光輝はどうも好きになれなかった。そこいらの使用人と比べても十分な恩給はあるはずなのに、「俺が金を貰うのは当然のことで、なんで働かないといけない」といった態度を隠しもしない。当然の権利のように思っている。給金相応の働きをしようという気概すらも感じられない。
館の最低限の管理をするのに、こんな奴しか雇えないほど落ちぶれてしまっている。裕福な光輝には、ただ同情をする他ない。そして、同情していいのかすら定かではなかった。
こいつを解雇させて、能力の確かな使用人でも当ててやろうか。光輝はそんな風に思うが、思うだけに留めておいた。それはこれから向かう待ち人の望むところではない。
「そうですか。では、勝手に上がらせてもらいます」
返事など知ったものか。あの人は光輝の来客を拒まない。どれだけ忙しかろうが、笑って持て成してくれる。こちらが気を使わないといけないほどだ。
今日はよく晴れている。太陽は南中から少し西へ傾き、白かった光も少しずつ黄色の具合が混じってくる。これならきっと、本当に庭にいるだろう。
玄関から少し道を外し、館の側面へと回り込む。曲がり角を左に曲がると、門の錆びれからは想像できないほど、整然した庭園が光輝を迎える。色とりどりの花々が、光輝を使用人よりも真摯に受け入れてくれた。ふわっと香る花の芳香は、光輝の心を洗ってしまう。
「こんにちは、加稲さん」「あら。こんにちは。光輝くん」
薔薇の花弁のように、幾重にもレースを重ねたドレスを、汚すことを臆さず土と戯れている様は、まるで着飾っただけの童女のようである。けれど撫子のような笑みは、子供になど出せるものか。澄んだ瞳は、光輝の心の三千世界を見透かしている。
これでもう三十代半ばだというのだから、世界の女性全てにとって罪な人だ。老いを忘れたかのように、只管綺麗に鳴り続ける。季節は移ろい、花は散るからこそ美しいものだが、そんな常識を、そこに在るだけで打ち壊す。
「学校帰り? 学生は寄り道をしないと駄目なのよ?」「それも魅力的ですけどね。でも、アイツと約束しちゃいましたから」「森羅も困ったものね。あれでかなり猪突猛進だから」
息子の顔を思い浮かべ、フフと笑う『母親』がそこには居た。
「こうしてるとまるで、イケない逢瀬です」「私はそれでもいいけどね?」
口角をにいっと持ち上げて妖艶に笑うその表情は、たかが少年には刺激的であった。
「加稲さんはとても魅力的ですけど、マザコンなアイツの琴線に触れる相手に手を出せるほどの度胸はないですよ。そうでなくともおれの趣味は、」
光輝はそこで言葉を完全に止める。余韻を加稲も感じ取ってくれたのか。「ふふ、そうね」と小さく同意した。
「まあそこに座って。森羅がいないから退屈でしょうけど」「なんの。加稲さんのガーデニングは手際がよくて、見ているだけでも飽きないですよ」「そう言ってくれると助かるわ。若い男が満足できるようなもの、うちにはないから。案外、森羅もそれで呑んだのかもしれないわね。普通の男子学生は、『一生に一度でいいからハーレムしてみてえなあ』、で終わってしまうわよ」「おれも男です。男子禁制の園には行ってみたいですね。あちらさんが手を差し伸ばしてきたら簡単に握ってしまうかもしれませんから、あまりアイツを笑えません。あー、なんでおれにも声が掛からなかったかなあ」
光輝は友人が居るであろう方角の空へ、拳を振るった。もしも目の前に居たら、羨ましさのあまり、殴り飛ばしてしまいそうだ。今頃、なにをやっているだろう。光輝が彼のためを想ってできることは、ただ、ここにある美しい花を、精一杯守り通すことだけである。
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