朝と夜 秋と冬
煌々と光る配達店の明かりに吸い寄せられるようにして、その店内に足を踏み入れる。
「ちょっとここにおってな」
智弘はそう言って足早に店の奥へと消えた。
口々に挨拶が交わされる中で、従業員達はその目を丸くして口を閉じる。そして彼らは何も見なかったと言わんばかりに、各自の作業に戻っていく。
懐かしい疎外感をその肌に感じながらも彼女の瞳は凛としていた。
紙の摩擦音、石油ストーブの燃焼音だけが室内に響いている。
やがて智弘は、その顔に朗らかな笑みを浮かべる店主を連れて彼女の前に現れた。
「初めまして」とソフィー。
「どうも中村です」
店主の中村はそう言って、赤々と燃えるストーブから一番近い丸椅子を彼女に勧めた。
「まっ、ゆっくりしていって」
中村の顔に浮かぶ笑みがより濃厚になる。そして彼の目尻が隆起し、そこに新たな皺が生まれた。
その店の中で異質な光を放っていたのはソフィーだけではなかった。彼女は智弘もまた異質な存在であると気づく。
その空間の中で彼女はより自然な呼吸を許されたような気がして、幾分体が軽くなる。
智弘は店主の中村から春野君と呼ばれていた。
最初の自己紹介の時に彼は苗字を名乗ったのだろうかとソフィーは考える。今となってはそんなにも昔のことは覚えていなかった。彼女は智弘が春野君と呼ばれることに首を傾げながらも、置いていかれないように彼らの会話を目で追いかける。
やがて智弘は積み上げた新聞の中に、広告の束を滑り込ませはじめる。
それはトランプマジックのように手早く簡潔な動作だった。
彼が手を動かす度に、機械のように規則的な摩擦音が室内に響く。
智弘は作業台の上で新聞紙の束を整え、それをゴムのシートで包み、手早くバイクの荷台まで持って行き、バイクに結わえていく。
智弘がキックペダルを蹴り下ろす。ほどなくして、軽いエンジン音が店内まで響く。そして彼は唇をきゅっと結んだままソフィーの元へと戻ってくる。
近づいてくる智弘が彼女には遠く離れてように感じられた。
「ソフィー、寒くないか?」
智弘が微笑む。彼の言葉にソフィーは首を振って答える。彼女の笑顔に彼は微笑みを深めた。
「じゃあ行ってくるわ」
智弘がバイクに跨る。その体は光と影の狭間にあった。そして彼は彼女に短く手を振る。
ソフィーがその手を彼の為に揺らすのを待たずに、智弘は彼女の視界から消えた。
遠退いていく排気音が店内の語らいにかき消され、聞こえなくなるまで、彼女はその音に耳を澄ませていた。
店内で交わされる会話。そのほとんどを、彼女は聞きとることができなかった。
「あなた達は中国から来たの?」
ソフィーがゆっくりとした日本語でそう尋ねると、彼らは手を休めることなく、俯きながら頷いた。
彼らとの交流を期待した、ソフィーの瞳は目的を果たせずに、しばらくのあいだ宙を漂う。
彼女は気を取り直して彼らの作業を眺めることにした。
新聞と向き合うその手は覚束ない手さばきだった。
不器用で荒い作業。
彼女はその手に親しみを覚えた。私だったら、智弘が束ねた新聞よりも彼らの手によって束ねられた新聞を受け取りたい。そう思った。
やがてその誰もが白い煙を巻き上げて彼女の元を去っていく。
彼女はしばらくの間、店先に垂れこめる暗がりを見つめるでもなく眺めていた。
「こんな物しかないけれど」
店主の中村はささやかなテーブルをストーブに寄せて、そこに湯呑と茶菓子を置いた。
「ありがとう」
ソフィーは差し出された湯呑を受け取り、頭を下げる。
「ソフィーさんだったかな?」
「はい」
店主の中村は薄くなった後頭部をさすりながらそう尋ね、彼女の隣にどっかりと腰を下ろした。
不思議な人だとソフィーは思った。
店主の中村はいかにも頑丈そうな体をしている。発する言葉は低く響き、その生命力を象徴するように髭の剃り跡は青々として無骨な彼の顔に張り付いている。
にも関わらず、彼女が見つめるとその目は泳ぎ、ことあるごとに薄くなった後頭部をさすろうとする。つまり、彼はいかにも自信なさげな仕草をする。
店主の中村は仕草と見た目が一致しないのだ。
「今日はまたどうして、ここにやってきたんだい?」
「私、まともに働いた事がないから、智弘がどうやって生活しているのかを知りたかったの」
「なるほど」
店主の中村は微笑みの中で何度か頷く。
「しかしそれは難しいように思う」
「どうして?」
「説明すると長くなるよ」
と店主の中村は言い、ソフィーは静かに頷く。
「元はと言えばね、春野くんは私の取り立て屋だったんだ」
「そうなの?」
彼女の問いに店主は満面の笑みを浮かべたまま大きく頷いた。
「新聞配達そのものが斜陽だって言うのもあるし」
「斜陽?」遮るように彼女はそう言った。
「この商売はもう駄目だって事だよ」
「どうして?」
「新聞を必要としていない人間が配る紙束に未来があるとは思えない」
と店主の中村は言った。彼は淀みなくそう言い切るのを見て、彼女にはそれが、中村の言いなれた言い回しのように思えた。
「それどころか今となっては日本語さえあやしい人間が配っているんだ。そうも思いたくなるさ」
「ふうん」
ソフィーは曖昧に頷く。
「町の新陳代謝に販売店が取り残されていったという側面もある。なんにせよ、高利貸しからお金を借りて首が回らなくなったんだ」
店主はソフィーの様子を窺うように言葉を止めて、彼女の目に促されるように続く言葉を口にする。
「取り立て屋にも松竹梅があってね、だんだん粗暴な人間が押し掛けてくるようになるんだ。最初は気の弱そうな営業マンみたいな男がやってくる、次にやってきたのが春野君で、その次にやってきたのは木刀を握りしめた小悪党だった。修羅場だったよ」
店主はそう言い、べっこりと陥没した壁を指差す。
「その時にね、なぜだか知らないが、春野君が現れたんだ。そして彼がその小悪党と話をつけてくれた。つまり彼が借金を全額肩代わりしてくれたんだ。そのお金がどこから出てきて、そもそも、どうして彼がその様な行動を取ったのかは今でも分からない。とにかく私は首をくくらなくて済んだ。とても感謝しているけれど、君は春野君と一緒にいてはいけないように思える」
「どうして?」
「春野君だけじゃない、私たちは汚れすぎている」
「どういう意味?」
ソフィーがそう尋ねるよりも早く配達のバイクが店先に止まる音が聞こえ、二人はそちらに顔を向ける。
帰ってきたのは智弘だった。
「ソフィーおまたせ」
彼はそう言って、新聞を数十部前かごに挿し、続いて後ろの荷台にタンデムシートを取りつけると、そこに座るように彼女を促す。
「どこ行くの?」
「配達や。せっかくやしな」
夜と朝。
秋とも冬ともつかぬ曖昧で潤いのない冷気が町を藍色に染めている。
遠く東の空に太陽の兆しが見える。
二人は鉄とコンクリートの渓谷を抜けて、やがてこじんまりとした住宅街に辿りつく。
鉄とブレーキパッドが擦れる音がする。
バイクが停止する直前にサイドスタンドの立ちあがる音がした。
智弘が前かごから新聞紙を一部取り、それを彼女に手渡す。
ソフィーは言われるままに階段を駆け上がり、黄色いポストにそれを投函する。
前かごから新聞が無くなるまで、その作業が繰り返された。
全てが終わると彼らは店に戻り、やってきたバイクに跨って、店を後にする。
帰る途中、智弘はキサラギの店に立ち寄りった。
智弘はその入口から店の前に張り出したウッドデッキに新聞を投げ入れる。
新聞は庭を飛翔し、やがて板張りの床をずるずると滑走する。そして新聞は店の扉の前まで辿りつき、やがてその運動を止める。
「そんなことして、大丈夫なの?」
とソフィーが尋ねる。
「いっぺんやってみたかってん」
と智弘が答えになってない言葉を返す。
「なんかアメリカっぽいやろ?」
「わかんないよ」
「帰ろか」
「うん」
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