智弘の帰り道
「もう終わってんけど」智弘が口を開いた。「友達でも待ってんの?」
「あなたには私が見えるの?」
「何言うとんねん。見えてるに決まってるやろ。むしろ徳川の時代くらいから見えてるわ」
「ごめんなさい」彼女は頭を下げた。その表情は暗い。
「ちょっとした冗談やから」
「そう」
「それで、どっから来たん?」
「えっ」
「自分、関東弁やん」
「そうだった」
「うん。つうかさ、日本人なん?」
「どうしてそう思うの?」
「顔の造形が洋風やから、出汁派っていうよりデミグラス派っつうか、なんか自分、暖炉をファイヤープレイスって言いそうな顔立ちしてるし」
「そう」
「なんか反応悪いな。もしかして警戒しとん?俺の事」
彼女は夢見るような眼差しで首を傾げた。
「俺は別にナンパしようと思っとおわけじゃないねん。週に4日はここで弾き語りやっとおから、たまに俺を待ち合わせ場所の目印にしとる人がおんねん。もしそうやったら困るかなーと思って声かけただけやから。心配せんといて」
「そう」
「反応悪っ」
「ごめんなさい」
「だから謝らんでいいって」
智弘は彼女に習って俯いた。彼女を置き去りにして帰ろうかとも考えたが、俯く少女一人を残してその場を立ち去る事は出来なかった。
「俺はこの町に住んでる。名前は春野智弘。ただのフリーアルバイター。26歳。特に夢とかないただのアホなアラサー。自分は?」
「私は愛地から来た」
「そうなんや」
彼女はこっくりと頷いた。
「私、歩いて来たの」
「嘘やな。直線距離でも300キロくらいはあるやろ。無理やわ」
「嘘じゃない」
「飛脚か!」
「飛脚って何?」
「ざっくり言うと、江戸時代のクロネコヤマト」
「だったら、私は飛脚じゃない」
「知ってるって。冗談やから」
「そう」
「とにかく俺帰るから」
「うん」
「はよ帰りや。自分まだ高校生とかそこらやろ?こんな繁華街でうろうろしてたら補導されるで」
「ありえない」
「あり得るから」
「有り得ないわ」
「なんでなん?」
「見えないもの。あなた以外の人間には」
「不思議ちゃんか!」
「本当よ」
「俺はどこぞのスピリチュアルカウンセラーか!」
「何それ?」
「ええねん、そんなことはどうでも」
彼はそう言いながらラップトップを畳み、ギターケースに捻じ込んだ。
「じゃあな。気いつけて帰りや」
智弘は終始苦い顔をしていた。
いつもなら小銭をポーチに移してからギターケースを担ぎ上げるのだが、今日は小銭の敷き詰められたケースにギターをそのまま収めることにした。
嫌な感じがする。
彼は自分の感覚を信じて、足早にその場を立ち去る事にしたのだ。
そして彼は彼女を背にして歩き出した。
足を踏み出す度に不快な金属音が聞こえてくる。
ギターケースの中で小銭が振動しているのだ。
やがて正方形のタイルが敷き詰められた路面が、アスファルトに取って変わる。
彼の家は神戸、元町間の高架下にある。
モトコー8番街。
彼の家はシャッター街のその中心にある。
知人の仲介された部屋だ。
家賃3万円。
玄関の扉から壁に至るまで、そのすべてはくすんだ色をしている。
人間の住居というよりも鼠のねぐらのような家だ。
彼は何かに見つめられている気がして、無意識のうちに振り返る。
そしてその場に固まった。
「おいおいマジかい」彼はそう呟いた。