フランスの街角にある回転木馬
やがて二人はスタジオから家に戻る。
開いた冷蔵庫からは空洞の音がする。
不意に眠りを妨げられた鈍色の箱は呪詛をささやくように遅滞なく唸りを上げていた。
彼の家は住宅街から隔絶された場所にある為に、最寄りのスーパーマーケットは存在しない。 ここからスーパーまで出かけるには、それなりの決意が必要なのだ。
智弘はその蓋を静かに閉じた。
そして思考の網を広げるために天井を仰ぎ見た。
彼の目に視点はない。
見えないものを見ようとするような曖昧な目をしていた。
扉の閉まる音がする。
彼女が服を着替えるために、再び浴室に消えたのだ。
天井を走る電車の音。
出窓の向こうには往来する車の波が見えた。
浴室の向こうからも音は聞こえた。
ト、タン、タン。片足飛びをするような乾いた音が響き、
「うわっ」
彼女の悲鳴が聞こえた。
そのすぐ後には慌てて壁に手を突く音も聞こえた。
着替えを終えた彼女は、昨日と同じ服に袖を通していた。
ブラウスに通されたその腕は冬空から舞い降りる白い雪のようにどこまでも透き通っていた。
彼女のブラウスは黒地に赤、黄、白の細やかな花片が散りばめられている。
それは東欧の民族衣装のようでもあり、和服の柄のようにも見える。
「めっちゃ似合ってるな」
彼がそう言うと、彼女は目を細めて微笑む。
智弘は彼女に親しみを覚えていた。
親しみ。
それが彼女のどこから湧いて、どういう経路を辿って彼の元にやってくるのかは分からなかった。
テレビの向こう側から聞こえる言葉や、彼の脳内に転がっている言葉ではそれを上手く説明出来そうになかった。
テレビ。
黒い縁取りの内側には夕方のニュースが映しだされていた。
この時期にありがちなクリスマス特集だ。
智弘が住む反対側の世界にあるその営みは、彼女にとって親しみを覚えるものだったらしい。
ソフィーは目を輝かせながら、食い入る様にきらきらと輝く画面を見つめていた。
彼女の髪は根元から綺麗な金色をしている。
その虹彩は限りなくグレーに近い、深みのある青色だった。
異世界の煌めき。
その瞳を見た智弘は一瞬そのように考えたが、やがてその思考を打ち消す。
彼女は確かに目鼻立ちがはっきりしているが、いわゆる西洋のそれに比べれば、どちらかというと起伏の少ない顔立ちをしている。
彼女はそのブラウスの上にひざ丈のタイトなトレンチコートを羽織り、その先から買ったばかりのスキニーのコットンパンツが顔を覗かせていた。
靴は淡い青のバレーシューズだった。
もちろんそれはファッションの文脈で使われる方のバレエシューズだ。
昼に立ち寄った服屋で智弘が聞いたところによると、踵のある靴は歩きにくいから履かないらしい。
「ソフィーは酒飲めんの?」
突然、智弘の目がソフィーを捉える。
彼女は滑らかに首を傾げながら彼の瞳を覗き込む。
彼女はよく首をかしげる。
その挙動は天体望遠鏡を彼に想起させた。
それは宇宙の始まりまで視認できる未来の望遠鏡のようだった。
レンズはどこまでも透き通り潤いに満ちている。
「飲めるけれど、今はいい」
「老夫婦が経営してる、ハラハラするお好み焼き屋」
彼が人差し指を立てる。
「スペインとイタリアの位置関係さえ知らないお姉さんがやってるイタリアン」
続いて彼は中指を立てた。人差し指。中指。
「朝行った喫茶店」
最後に薬指を立てる。
「その中やったらどれがいい?」
「選択の余地ないじゃん」
「どっちかって言うと、その中から一つしか選べへんっていうほうが正しいわ」
「どういうこと?」
「選択肢は確かに無限にあるかもしれへんけど、大体において、選べるのは結局一つだけやったりするやん。選択肢とか可能性なんて結局その程度のもんなんやろうなーって俺は思うねん。しかも俺がやったように殆どの選択肢は作為的に歪められてる事が多いし」
「どういうこと?」
「億万長者の息子と、貧乏人の息子が同じだけの努力をしたところで、全く同じ結果が与えられる訳じゃないってこと。それはソフィーの方がよくわかってるはずやで」
「そうかな?」
「間違いない」
疑問符を浮かべながら天井を見上げるソフィーの手を取って、智弘は屋外へと歩き出す。
東西に走るアーケード。
通りはいつだって灰色をしていた。
室外機と自転車の佇ぬ路地を一つ曲がり、大通りに出る。
街路に張り出したカフェテリアのひさし。
店の裏手、排気口から流れてくるデミグラスソースの香りが彼女の胃袋をしくしくと締めあげる。
突然立ち止まった智弘につまづきそうになり、彼女ははっとして素早く顔を上げる。
二人は花屋の店先に立っていた。
「えっ智くん?」
「おいっす」
「誰かと思ったわ。何の用?」
「おいミキ、花屋に来とうねんから花を買いに来たに決まっとうやろ」
と彼は言う。
「団子でも買いに来たと思ってんのか?」
「確かにそうやな」
ミキはそう言ってからソフィーの目をさっと捉え、悪辣な笑みを浮かべる。
「彼女?自慢しに来たん?」
「俺の家に居候してるねん。話せば長いからまた今度話すわ」
智弘はいかにもめんどくさそうに襟足をねじりながらそう言った。
「それよりも鉢植えを売ってくれ」
智弘はミキを急かすようにそう言う。
「鉢植えなんてどうするの?」
ソフィーは彼を見つめる。
「さっき話してたやん、家の目印にするねん。なんか希望ある?」
智弘はソフィーを見つめ返す。
「花が咲いてるほうがいいかな」
ミキは同意するように小さく二度頷き、店の奥へと消える。
しばらくすると、待っている二人のもとにミキは鉢植えを手にして現れた。
「右から椿、サザンカ、クリスマスローズ」ミキはそれぞれの花を指差しながらそう言った。
「クリスマスローズ?」
ソフィーが夢見るような眼差しでミキを見つめる。
「そうやで。クリスマスの時期に咲くからそう呼ばれてるねん。聖書にも出てくるぐらい西洋では有名な花なんよ」
「そうなんだ」
ソフィーは大きく頷く。
値引きをしても三千円。
鉢代だけでもそれ以上するらしい。
ソフィーにとってそれは手が届くか届かないかの絶妙な値段設定だった。
彼女は鉢植えに近付くように屈む。
そしてフランスの街角にある回転木馬が回転するくらいのゆっくりとした速度で鉢植えを回し、様々な角度からそれを覗きこみ続ける。
智弘はくるくるさせるのに執心するソフィーを見下ろしながら、一段低い声でミキに話しかける。
「今日は何時に仕事終わるん?」
「8時」
ミキはそう答える。
「もし暇やったら南口に来てや。今日も歌っとうから」
「わかった」
「今日はな、いつもとは違うねん」
智弘は子供のように微笑する。
「違うって、どんな風に?」
「俺が歌ってソフィーが踊るねん」
彼はそう呟き、その目の前でしゃがみ込んでいる彼女の背中を目だけでちらりと見る。
「ソフィー」
ミキはその名前を確かめるように、声にならない声でそう囁く。
そして名前を呼ばれたような気がしたソフィーは、間の抜けた顔で二人を見上げる。
「ソフィーはダンサーなんや」
ミキが納得したようにそう言うと、ソフィーは脈絡を欠いた瞳のまま首を傾げ、やがて静かに頷いた。
「うん。なんかすごくダンサーぽい」
ミキがソフィーに微笑みかける。
それは虚飾のない、眩しい笑みだった。
暮れなずむ街角で智弘はもう一つの太陽を見つけたと思った。
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