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第一章 佐和子 智弘 多佳子

出来上がっているものを分割して掲載していくので、確実に完結します。

騙されたと思って読んでみてください。

よろしくお願いします。

 12月初旬の午後7時。

私はタイムカードを切った。

くたびれた踵が艶やかな大理石をとらえるたびに甲高い音が聞こえる。

足音は私の前方から、後方からも聞こえてくる。

そして自動扉の向こう側へと、その足を踏み出した瞬間、足元から伝わる振動に変化が生じる。

安物の柔らかな石が私に寄り添う。

そして道は私を支え、帰るべき場所へと導き始める。


 私は今、歩道橋に立っている。

神戸の南にあるコンクリートで固められた人工島。

そこにかかるささやかな歩道橋。

この橋は私の会社と駅を繋ぐ役割を果たしている。

会社で働く人間なら誰でも、地上に降り立つことなく三宮駅を目指す事が出来る。

その為に架けられた歩道橋だ。

このまま最寄りの駅から三宮駅を目指す事も出来たが、私は島の北岸まで歩く事にした。

そうしないと私が誰であるのかが分からなくなる気がするから。

歩道と車道を隔てる並木に寄り添い、その下草の上を歩く。

そうしているうちに視界がひらけていく。

島の南端を飛び立つ旅客機の甲高い回転音が聞こえる。

早朝の路肩に並ぶ、荷積み待ちのトレーラー車の果てしない車列とディーゼルエンジンの喧騒は彼方に消えて、真っ直ぐに伸びるアスファルトは体を休めていた。

静まり返った車道を眺める度に、私は不思議に思うし、なんだかやりきれない思いが込み上げてくる。


「そんなに嫌なんやったらな、仕事やめたらええやん。」


彼の声がした気がして私は周囲を見渡した。

おるわけないか。

そんなに簡単じゃないねんて。

私がそう言ったところで智弘は首をかしげるだけだろう。

考えてたらお腹すいてきたわ。

私は心の中でそう呟きながら肩から下がる鞄を握り直した。

朝の喧騒とは打って変わって、辺りには穏やかな風が吹いていた。

その風は冷たい。

冬がこの町を、私の体を、その透明な手で抱きしめている。

人工島の北壁にある公園からその街を眺めれば、色彩に満ちた光の川が、こちらに手を伸ばしているのが見える。夜を祝福する光。 

私は時間を忘れる為にしばしばこの公園に立ち寄っては、何を考えるでもなくその光景を眺める。

私はこの公園に心を残したままポートライナーに乗り、島を離れた。

車内は学生とサラリーマンで混雑している。

夜なのに狭い車内は明るかった。


 私は何かを期待して周囲を見渡した。

誰とも目は合わなかった。

人と人、人知の及ばない領域で私達は手を取り合っている。

これだって一つの奇跡なのに。

だからどうしたっていうのだろう。

疲弊した体と乾燥した意識。

私は目的を失った瞳に役割を与える為だけに、車窓の風景を見た。

車内の明かりと車外の暗がり。

都合のいい偶然だけが奇跡と呼ばれる。

私を含むすべての乗客はそれぞれに即した匿名性の繭にこもり、大切なものを置き去りにしたまま、すぐそこにある未来を見つめていた。

天井川は山と海を分断し東西に流れている。

光の川だ。

迫りくるヘッドライトの連弾。

離れていくテールランプの赤。

動脈と静脈。

時速百キロメートルの営みをくぐり、私は空を見上げた。


 私は今、天空に手を伸ばす高層ビルの並木道を歩いている。

高層ビルによって直線的に切り取られた空には星一つなかった。

オフィスビルの照明は凍える月のように青白く、商業ビルは暖かな橙色の光で包まれている。

街灯のオレンジ。その光を受けて枝葉の緑が艶やかに煌めいている。

前方の青信号が点滅の黄色に変化し、やがて停止を求める赤となり、私は立ち止まった。

私の真横に引かれた白線。

白線に鼻先を掠めるようにして一台の白いセダンが停車した。

その後も車はどこからともなく流れてきた。

そしてテールランプの赤が整列していく。

振動する燃焼機関から後方に伸びる鉄の管。

マフラーは白い水蒸気をアスファルトに吹き付け続けていた。

それはやがて黒い染みとなり、路上に取り留めのない水墨画を描いていく。   

信号の青に誘引されるように車のヘッドライトが発光した。

純白の光。

再び流れ始めたテールランプの赤。

夜の国道もまた心ひかれる色彩で満たされている。

私は私を見つめた。

私はこちらにいて、私は対岸にいる。二人の私は相反している。この町の光と音を愛し、そして、もてあましてもいる。

町を彩る灯火は多岐にわたる。

用途ごとに求められる色彩が違う為に彩りが生まれる。

それぞれの明かりが、町に散りばめられた多様な装置を鮮やかに染めあげるのだ。

そこに月明の余地は残されていない。

町の上空を流れる雲さえも、その色どりの中にある。


 ようやく私の足がなだらかな坂道を捉えた。

三宮駅前のペデストリアンデッキに差し掛かったのだ。

そして私は橋を行く人々のざわめきに寄り添うように耳を開いた。

やがて私の耳を潤すその歌を捉えるために。

三宮駅南口にあるささやかな広場で、彼が弾き語りをしているのだ。

彼が弾くギターにはそこの注意を向けさせる何かがあると私は思う。

しかし重要なのはギターではない。

彼の歌声には特殊な響きが含まれているのだ。

柔らかさと硬さ。

彼のファルセットには相反する二つの音色が共存しているのだ。

粗野に掻き鳴らされる六弦のギター。

彼のギターはヘッドからそのエンドピンまで傷だらけだった。

特にひどいのはピックガードで、同心円だったはずのサウンドホールは度重なる摩耗の末に、もはや楕円形となっている。

彼がその目で私を捉えた。

その目尻がひととき弛緩し、再び歌の波間に消えた。

味のある顔だ。

刺すような切れ長の目。

整った鼻筋。

あごのラインがもう少し鋭角だったら二枚目俳優として通用しそうな顔だ。

その真顔は冷やかで、人を寄せ付けない類の鋭さがある。

しかし、その白い歯がこぼれる度に、彼の人懐っこい一面がその表情に現れる。

その表情を見る度に私は思う。

人慣れした人間の方が、自身と他者の間に設ける壁が厚いのはなぜなのだろう、と。

彼の音楽に耳を傾けている人の数を知るために、私は辺りを見回した。


40代のサラリーマン。

芹那、彼女は彼氏連れだった。

OL風の三人組、彼女達も常連だ。

彼のすぐそばに集まる人のほとんどは良く見る顔だった。

もちろん例外もある。

歩道橋の柵にもたれる女の子。

誰だろう?初めて見る顔だった。

彼女は二十歳前後だろうか、街灯は彼女の髪を金色に染めている。

本来の色は栗色だろうか。

その色は毛根から始まっている。

地毛なのかもしれない。

彼女は日本人に見えない。

その足はすらりと長く、モデルのように小さな頭の中心で、つぶらな瞳が時折明滅している。

目頭に蒙古襞はない。

アイラインの必要が無いほどはっきりとした目だ。

深遠な藍色。

その潤いある輝きはアレキサンドライトのベースカラーを思わせた。

それは絶妙な間合いで立体的なTラインの両脇に抱かれている。

その時だった。

私の視線を彼女が捕まえたのだ。

彼女にその意思があったかどうかは分からない。

しかしその瞳は今宵の月のように真空にある氷原で震えていた。

少なくとも私にはそう見えた。

祈る様な目だ。

私は心の動揺を御しながら、なんでもない風を装いながら自らの視線を風景の中に溶かした。

心の動揺を鎮めるのに、それほど時間はかからなかった。

年の功だろうか。

対処のしようのない複雑な思いを抱えながら、私はカウントを再開した。

全部で27人前後の人間が、彼の音楽に耳を澄ませていた。

私達はそれぞれの帰路で立ち止まり、その歌に耳を傾けるのだ。


私は歌が終わるのを待ち、財布を取り出した。

そこにある全ての小銭を彼のギターケースに落とした。


「まいどありー。」


彼が景気のいい声とともにギターを掲げ、それを掻き鳴らした。


「さっちゃん何歌う?」


彼はそう言い、口角に薄い笑みを浮かべたまま私を見つめた。


「今宵の月のように。」


私がそう言うと、彼は傍らのノートパソコンを引き寄せて、その液晶に譜面を映した。

一時の沈黙の後、私にだけ暖かな夜風が吹き込んできた。

彼のレパートリーはそれほど多くない。しかし彼は、それがどのような音楽であっても彼なりにアレンジを加えて演奏する。

年の瀬にベートーベンの第九、喜びの歌をリクエストされた時も、乱脈にその調べを歌いあげていた。


「なあ、智弘、私の為にperfume歌ってえや。」


多佳子の声だ。

私は振り向き彼女を探した。


「多佳子の無茶ぶりきたー。」


彼は私の隣を見つめた。

そして私はその目線を手掛かりに彼女を探した。


「ええやん別に、何でも歌うんが、あんたのすごいとこやん。だからレーザービーム歌ってえや。」


私が彼女を見つけるよりも早く、多佳子の手が私の肩を捉えた。

そして私と多佳子の目が交差した時だった、


「佐和、お疲れ。」


彼女はため息交じりにそう言った。

そして私達は円形のベンチに沈みこんだ。

先に口を開いたのは私だった。


「「遅かったやん。」


「そうやねん、人使い荒いねん、あの会社。まあもうすぐ師走やから、しゃーないけど。」


彼女はぷりぷりしていた。

多佳子は小柄だから、今日の彼女もスカートが良く似合っていた。


「どこも一緒やね。」


「ほんまやで。」


私達はお互いにため息を交えながらそう言った。

いつのまにやら私達はため息の似合う年齢になってしまった。

私の心を置き去りにして体だけが暴力的な歩みを進めていくのだ。


「はいそこ黙って。吟じるから。」


智弘が冗談交じりに私達に指をさす。

私と多佳子は苦い顔で彼に会釈し、口を結んだ。


「perdumeでレーザービーム。」

彼は想像していたよりも上手に歌いきった。


「なんか面白くないわ。もっととっちらかったの期待してたのに。必死こいてる智君見るのが私の貴重なタンパク源やのに。」


彼女はそう言い、ギターボックスに小銭を播いた。


「タンパクってなんやねん。人をプロテインみたいに言うなや。」


「そこまで言うてないわ。」


多佳子がそう言い終えるタイミングで


「ほらね」


とでも言いたげに二人は両方の手のひらを返してみせた。


「よおっ!」


三島さんが歌舞伎のような合いの手を入れた。

意味が分からない。

そして智弘と多佳子は猿が毛づくろいをするように、もじもじと小突きあった。


「まあ動画投稿サイトで研究済みやし。多佳子強化月間やから、今月は。」


智弘はそう言って多佳子の肩に腕を伸ばしたがすぐさま彼女がその手を払いのける。


「何やねんそれ。」


多佳子はそう言い、ふくれっ面をした。


「私もリクエストいい?」


芹那が今日初めて口を開いた。


「ええよ、芹那何歌う?」


「キリンジのエイリアン。」


「了解。」


智弘はその見た目とは裏腹にメロウな歌が得意だ。

彼の歌うエレファントカシマシも絶品なのだが、サイモンとガーファンクル、キリンジやスガシカオ、秦基弘の曲を智弘が歌うと、彼の為に作られたのかと錯覚させるくらい、その歌声に説得力が生じるのだ。


やがて芹那が帰っていった。それを合図に、一人、また一人と帰路に着きはじめる。


「佐和、明日早いし、帰るで。」


「分かった。」


「じゃあね智君。」


私達は彼に手を振った。


「おつかれ。」


彼はそう言ってほほ笑み、ささやかに頭を下げた。

私の目が僅かに揺れた事に彼は気付いただろうか。


私と多佳子は北野にある2LDKのマンションをシェアしている。

小高い丘に立つそのマンションからは神戸の町と海を眺める事が出来る。

私は仕事に行くために海を目指し、家に帰るために丘を登るのだ。

私は出来るだけ不自然にならないように気をつけながら後ろを振り返る。

南口の広場には智弘と金髪の女の子が立っていた。


「なんか意味深やったなあの子。もしかして智弘のこれかな?」


多佳子がそう言い、小指を立てた。


「どうなんやろ、わからへんわ。」


わかるわけないやん。

本当はそう言いたかった。

けれど多佳子に悪気はない。

もちろん理解していた。

それくらいの思いやりと忍耐力を私は身に着けていた。

ぐるぐる回っているだけのような日常だけど、私もちゃんと成長してるやな。

となりを歩く多佳子の軽快な足音に耳を澄ませながら、私はただなんとなく、そんなことを考えていた。


感想頂けるとすごく嬉しいです

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