「蛇の瞳」
「あのさ、あんたが蛇の足と自分を思うのは勝手だけど、あたしは一つ分かんねー事があるんだよ」
死神はそう言いながら僕の隣に腰かけた。
足元は芝生だが、彼女にはなんだっていい事かもしれない。
何となく見つめているのもどうかと思って、僕は沈む夕日に目を向けた。
「完璧ってのが何なのか、あたしには分かんねぇ」
……確かに。
完璧とは何だろう? キレイな事? 理論整然としていること? 欠落がないということ? あるいは不完全であることこそが完璧なのか?
僕が返事に窮している間にも死神は話を続ける。
「例えばさ、この河原の光景は完璧なのか?」
河原にはまず河がある。次に堤防がある。そしてそこに人がいる。虫もいる。河にも魚がいる。
そしてここから見える光景。ビルなどの背の高い建物が見える。空が見える。雲と夕陽が、送電線が、電柱が、空を飛ぶ鳥が、人が見える。
「あたしが今見ているのは、完璧なのか? そこにあんたを足したところで、それは無駄になるのか?」
……。
ならない、だろう。おそらくは。
これだけたくさんのもの、人がいるのだから、僕が増えたところで気にする人はあまりいないだろう。
「例えばさ、あたしたちみたいな死神はどうなんだ? 動物や虫や植物の命をあたしたちは奪わない。でも、奴らは時間がたてば死ぬ。命の無い物体だって放って置けば壊れて無くなる」
死神の声が少し震えていた。彼女の表情を窺うけど、ここからは見えない。
ただ冷たい白骨の仮面と、鋼鉄のような瞳が見えるだけだった。
「大体の奴は死神に会わなくても死ぬときは死ぬ。そんな奴らにとって死神はいてもいなくてもおんなじ、じゃないか?」
彼女は少し顔を上げて、太陽を眺めた。
夕陽にも染まらない黒い服が、周りから浮いているように思えた。
「あたしは多くの人間にとっては無価値な存在だよ。蛇の足どころじゃなねぇ。そもそも絵に描かれてない。もしかしたらこれから描かれるかもしれないけど」
僕は彼女の話に吸い込まれるように聞き入っていた。
「でもさ、もしこれから描かれるとしてさ、今の状態の絵は完璧って言えるのか? 完成してないものは完璧と言えるのか?
もしあんたが今いる世界が完璧に見えたところで、それは他の人にとって完璧じゃないかもしれない。あんたを蛇の足じゃなくて、蛇の瞳に思う人がいるかもしれない。あんたがいないと絵の価値が下がる人が、いるかもしれないじゃん」
彼女は僕の顔を見上げた。
真摯な瞳だったけど、僕は酷く萎えてしまった。
結局、死神は僕に説教しているのだと思ってしまったのだ。
「でも、やっぱり僕は蛇の足だよ。今いる世界にとっては邪魔なんだ」
「それはあんたが描いた絵の中の価値観だろ?」
「だったら何が悪いの? 僕は僕の入った絵が気に入らない。だから僕を消したいだけなんだよ?」
死神は大きく溜息を吐いた。
「だったら、やっぱあんた人の想いってのを考えられてないわ。あんた、自分の価値観を人の価値観と同じと思ってる」
「結局、何が言いたいんだ?」
とっとイライラして僕は投げやりにそう聞いた。
「あんた、もっかい周りの人を良く見た方がいいよ」
死神はさっさと立ち上がり、そのまま僕に背を向けた。
そして、歩き出した。
死神は振り返らなかった。僕は彼女を呼び止めなかった。
その夜、僕は両親と話した。
どうでもいいような日常会話だった。明日になれば内容を思い出すこともないだろう。
やっぱり僕は居心地の悪さを感じた。
でも、両親の様子を見ていると少し楽しそうだった。
つまり、僕は自分の思い込みを、被害妄想を人に押し付けている。
と言うことなのだろうか。
まぁ両親だけで判断するのは良くない。
僕は布団に寝転がりながら、言い訳するようにそう思った。