第9話 不屈のスクリューボーラー 権藤 正利(1934~) 柳川商業
権藤は佐賀県鳥栖市出身であり福岡県民ではないのだが、福岡県内の高校に通っていたので、地元出身選手
として紹介していただくことにした。ちなみに同じ佐賀県鳥栖市出身で中日のエースとした活躍し、指導者としても横浜を日本一に導いた権藤博とは血縁的つながりはない。
福岡県柳川商業時代から九州屈指の左腕快速球投手と知られていた権藤は、甲子園出場こそ叶わなかったものの、27年春の九州大会における四試合計67奪三振(一試合平均17奪三振)の快投が認められ、洋松ロビンス(大洋の前身)期待の新人としてプロ入りした。
175cm62kgという痩身ながら、「三振を取れる本格派投手」として将来を嘱望されていただけあって、速球とインサイドドロップは並み居るプロの強打者連中をも大いにてこずらせた。特に左打者の肩口から大きな弧を描きながらキリキリとスピンして落ちるボールの軌道は、今で言うスクリューボールそのもので、全盛期には平成の代表的スクリューボーラー山本昌(中日)を球速、落差ともに凌いでいた。
これは子供の頃、誤ってナイフで左手人差し指を切った後遺症で指が「くの字」に曲がってしまい、そのまま投げているうちにナチュラルスピンするようになったものらしい。まさに不幸中の幸いだったと言えよう。
28年5月3日、難波球場での巨人戦に先発した権藤は15回を一人で投げ抜き、11三振を奪う力投で3対2の完投勝利を収めると、同月30日の国鉄戦でも奪三振14の快投を演じ、早くも新人王の最有力候補と目されるようになった。
弱小チームのため思うように勝ち星は伸びなかったものの、15勝12敗、防御率2・73(10位)という好成績でセ・リーグ新人王を手中にしたのはさすがであった。
19歳の若さで洋松のエースとなった権藤の2年目は、11勝20敗で大きく負け越したとはいえ、防御率は7位(2・83)、三振奪取も杉下、金田に次ぐリーグ3位の222個を記録するなど、内容的には1年目を上回っていた。
しかも一試合平均の三振奪取率は7・6個と金田(7・0)、杉下(6・2)を超えており、洋松の弱体投手陣の中で彼のスクリューボールだけは一際輝いていた。
ところが3年目にとんでもない落とし穴が待っていた。その序章が30年6月18日の巨人戦であった。
打者広田のスクイズを見破った権藤のウエストボールを捕手の目時がキャッチャーズボックスから両足を出して捕球したため、ボークを取られ三塁ランナーの生還が認められたのである。ボークというのは普通、投手に責任があるのだが、これは投手に責任がないにもかかわらず記録としては投手のボークになるという極めて珍しいもので、プロ野球史上唯一の珍記録である。
これでケチが付いたか、権藤は7月9日を最後にまる2年間全く勝ち星に恵まれないままズルズルと28連敗を喫してしまった。それもようやく11連敗のトンネルを抜けた直後だったからたまらない。前後の成績を含めると、この間1勝39敗というとてつもない黒星地獄である。
これだけ負け続けたにもかかわらず投げさせてもらったのは、年度成績(3勝21敗)の割には防御率が3・73(13位)とそれほど悪いわけではなく、むしろ貧打と拙守に足を引っ張られたことが多かったからである。
とはいえ、余りに不運な負けが続いたおかげで、元来ナイーブな権藤はますます精神的な深みにはまってゆき、31年度は一度も勝てずに開幕から13連敗のままシーズンを終えている。
この連敗が終わるのは32年7月7日の巨人戦まで待たなくてはならなかった。そしてこの試合、最後の打者内藤のライトフライを青田がキャッチした瞬間、一万八千の観客の拍手喝采の中、権藤の身体は駆け寄ったナインの手で宙に舞い、まるでチームが優勝したかのような興奮と感動に球場全体が包まれたのである。
この日首位巨人相手に4安打完封勝利を収めた権藤は、まるで憑き物が取れたように勝ち続け、シーズンの後半だけで12勝(5完封)の荒稼ぎで見事に復活を果たした。ところが年明け早々、地元の佐賀県鳥栖市で結婚式挙げ、故郷に錦を飾ったのもつかの間、元々体力に乏しかったせいか再び低迷。藁にもすがる思いで宗教にも走ったが、何をやっても効果が無く、34年度はまたしても勝ち星がないままシーズンを終えた。もはやこれまでと引退すら覚悟した権藤に救いの手を差し伸べたのが、新監督に就任した三原脩である。
三原は弱小大洋を再生するに当たって、青田や児玉といった看板選手を放出するなど大胆な選手の入れ替えを行ったが、こと投手陣に関してはその潜在能力を高くかっており、用兵次第では十分に勝算があると踏んでいた。そこで三原が採り入れたのが投手分業制である。
信頼のおける先発完投型投手が秋山一人しかいない大洋は、慢性的な先発不足に悩んでいたが、三原はあえて当時の主流だった先発完投にこだわらず、小刻みな継投で弱小先発陣を支えてゆこうと考えていた。そのためには、肘痛の影響もあって長いイニングは無理としても、左打者用のワンポイントかショートリリーフとしてであればまだ十分に通用する権藤の存在は必要不可欠であった。
当時の野球雑誌の対談の中でも、権藤を苦手とする巨人の広岡、宮本、岩本、藤尾らが口を揃えて「三回くらい投げるのなら権藤が日本一」と評しているうえ、同じチームの青田も「もし対戦するとしても、あのカーブはそうそう打てない」というだけあって、権藤の生命線である三種類のカーブ、すなわち内角の打たせるカーブ、縦に割れるカーブ、スクリュー回転で膝元に切れ込むカーブは体力不足で球が上ずってくるまではなかなか的を絞らせないやっかいな代物であり、三原はこの点を高く評価していた。
もっとも、先発からリリーフ中心になれば勝ち星が減る可能性は高いわけだが、三原が「投手の価値は勝ち星の数ではなく防御率である」という新しい評価基準を設けたことで、投手陣の杞憂も一蹴された。
三原用兵で自信を回復した権藤の35年度の活躍は目覚ましかった。リリーフ中心で12勝というのは勝敗を左右する大事な場面での起用が多かったことによるものだが、特にペナントレースでの直接のライバルである巨人に3勝0敗、阪神に4勝2敗と大きく勝ち越しているのは大きかった。
絶対的エースの秋山ですら巨人に3勝2敗、阪神に4勝3敗であることを考えると、上位球団に強い権藤の貢献度は数字以上に高かった。登板過多によってシーズン終盤には肘痛が悪化し、日本シリーズではほとんど出番がなかったが、生涯最高のレギュラーシーズンと言ってもいいかもしれない。
ところで、このシーズンの権藤は初の投手タイトル獲得の可能性は十分にあった。防御率1・42は規定投球回数にわずかに足りないだけで、トップの秋山の1・75を遥かに凌いでいるのだ。実際、1点台半ばのハイレベルな争いとなると、投球回数の多い秋山は3試合連続完封しても権藤には及ばず、自力でタイトル獲得は難しい。
かといって投手分業制を貫いている大洋では、先発、リリーフともに大量失点に至る前に交代させられるため、ショートリリーフに抜群の安定感を示す権藤の防御率が大崩れするとは考えにくい。
真実は定かではないが、三原は権藤を諭して規定投球回数不足のままシーズンを終わらせ、秋山にタイトルを獲らせたと言われている。これは、入団以来常識破りの酷使に耐えながらもいまだ無冠の秋山にタイトルという勲章を与えることで労をねぎらいたいという気持ちの表れであったと思われる。三原にはこれと同じようなケースが、西鉄時代にもあった。
昭和31年、中西と豊田の首位打者争いが最終戦にまでもつれ込んだ時のことである。三原はあえて両者を最終戦に出場させず、前日まで中西を毛差で上回っていた豊田がそのまま首位打者、中西は本塁打と打点の二冠というふうにタイトルを分かちあわせているが、結果として、首位打者という箔が付いた豊田はさらに自信を深め、中西が第一線から退いた後も西鉄の主力打者として活躍していることを考えれば、三原の処置は、ファンからすればアンフェアであっても、選手の能力を最大限に活かすための操縦術という観点から見る限りは、正しい判断だったと言うべきであろう。
秋山にタイトルを譲った形となった権藤はいといえば、再生への道を切り開いてくれた三原監督に並々ならぬ恩義を感じていたうえ、無冠でも相応の評価を受けていたこともあって、躊躇なく三原の提案を受け入れたという。
大洋が奇跡の日本一に輝いた35年の12月26日、折からの小児麻痺撲滅週間にちなんで企画された日本テレビの特別番組「この子たちにもお正月を」に出演した権藤は、スタジオに集まった神奈川県下の小児麻痺児童十数名を前に激励の言葉を述べた。
「皆さん、僕も小児麻痺だった。けれども今ではこんなに元気な身体にかえって野球の投手をしている。皆さんも努力してごらんなさい。人間は訓練さえすれば、不自由な身体もなんとか自由に使えるようになるものです」
これはボランティア特番にありがちな、普段は贅沢の限りを尽くしている芸能人たちが、社会的弱者を前に通り一辺倒の同情を示すようなものとはわけが違う。自らも小児麻痺に罹患し、それを克服した者しか伝えることが出来ない言葉の重みがあった。
高校1年の夏、疲労性小児麻痺に倒れた権藤は、久留米医大病院に緊急入院。自宅療養後も不自由な左半身を引きずりながら登校するのがやっとという有様で、医師からも運動選手は諦めるよう言い渡されていた。それでも好きな野球を捨てきれず、翌春には野球部にカムバックした。
プロ入り後の権藤が「柳川の練習の方がきつかった」と述懐しているほどの猛練習が名物の柳川商業野球部も、権藤だけは例外で、監督・部員一丸となって病魔と闘う権藤を支援してくれた。その後の権藤の活躍ぶりは先述のとおりである。
この辺のいきさつは三原も知っており、退団を決意していた権藤を思いとどまらせた理由の一つとして、マスコミ向けに「小児麻痺を克服した生命力と強運」を挙げていたが、勝負事に「運」を重んじる三原ならではの着眼点と言えるかもしれない。
権藤が東映経由で阪神に移籍してきたのは昭和40年のこと。すでに30歳になっていた。
いくら左投手が駒不足と言っても前年度1勝1敗のオールドタイマーが仮にも投手王国の阪神で活躍の場を見つけるのは難しいと思われたが、何と権藤はここでもう一花咲かせるのである。
全盛期のスピードこそ出ないものの、以前からの課題であった変化球の制球難を克服した権藤は、絶妙のスクリューボールをコーナーいっぱいにズバズバ決める小気味良いピッチングで三振の山を築いてゆき、移籍2年目からは村山、バッキーと並ぶ先発ローテーションの一角を占めるまでになった。
中でも圧巻だったのは42年のシーズンで、全盛期に勝るとも劣らぬ三振奪取率(1試合平均7・1個)をマークしたばかりか、防御率1・40という抜群の内容で初の投手タイトルまで手中にしたのである。
この頃の権藤の円熟味を増したピッチングの中でも特に評価すべき点が、被本塁打の少なさである。大洋時代から本塁打を打たれることが少なかった権藤は、29年(7本)、37年(5本)、41年(5本)、42年(6本)と規定投球回数に達した年度のほとんどで最少被本塁打投手になっているのだ。
この他、惜しくも規定投球回数に届かなかった35年も、最少被弾が193回3分の1投げた長谷川(広島)の8本であることを考えれば、148回で5本しか打たれていない権藤は実質的な1位といっていい。
セ・リーグでは過去50年遡ってみても、規定投球回数に達した投手で被本塁打が5本以内というのは、
37年・41年の権藤の他には41年の堀内(巨人)と平成8年の斎藤隆(横浜)、平成27年の前田健太、K・ジョンソン(ともに広島)、令和6年の高橋宏斗(中日)、令和7年の才木浩人しかいない。
そのうち一人で複数回というのは権藤だけである。
リリーフ中心の登板のため、阪神時代は実働9年で46勝しかしていない権藤だが、被本塁打率は16・5回で1本、すなわち2試合完投して1本しか打たれていない勘定になる。これは戦後の阪神投手陣の中でも本塁打を打たれないことにかけては双璧と言われるバッキー(20・5回)、渡辺省三(19・4回)に次ぐ立派な数字である。しかも、権藤は二人のような打たせて取るタイプの技巧派ではなく、1試合平均の三振奪取率7・0個が示すとおり正真正銘の本格派投手である。
この数字だけでも同時代の代表的本格派投手の中では、金田の7・3個に次ぐ素晴らしいもので、以下、村山(6・7個)、梶本(6・3個)、米田(5・9個)とそうそうたるメンバーが後に続く。不用意な一発が試合の勝敗を大きく左右する場面での登板が多いリリーフ投手で、三振が取れるうえ、本塁打を打たれにくいというのはまさに当たり役であった。
息の長い投手生活を送った権藤だが、ベンチで金田正泰監督から「サルでも煙草を吸うのか」とからかわれ、監督を殴打したのを機に干されてしまい、48年のシーズン終了後に解雇された。
金田は口が悪く、鎌田や江夏からも忌み嫌われ、最終的には監督の座を追われるはめになったが、まだ余力を残していた権藤にとっては不本意な引退だった。
引退後は故郷で家業の酒造業を営んでいた。
生涯成績 117勝154敗 防御率2・78
権藤の出身校は現在は柳川高校と校名を変えている福岡県南を代表するスポーツ校である。OBの中で今日の知名度で言えば松岡修造がダントツだが、アスリートとしての実績で見れば、タイガースの核弾頭、真弓明信、その次が権藤正利だろう。プロで新人王、個人タイトルを獲るのは高校時代にエースとして甲子園連覇するよりも難易度が高いからだ。




