第8話 任侠投手 野口 正明(1925-2004) 飯塚商業
野口正明は西鉄ライオンズ草創期のエースである。“野武士軍団”の異名を取っただけあって、西鉄ライオンズというお荒っぽい九州男児の集団のような印象を受けるが、これはチームの草創期を担った野口、武末、川崎、永利といった連中が残した数々の武勇伝が独り歩きし、チームカラーとして定着してしまったことによるものだと思われる。実際主役がガラリと入れ替わった29~33年の黄金時代の主力で本当に喧嘩早かった九州人は仰木くらいのもので、稲尾、和田、高倉はそういうガラではなかったし、九州人ではないが典型的野武士キャラの豊田も気性は激しくとも、乱闘沙汰とは無縁の男だった。
飯塚商業では小鶴誠より2学年下にあたり、昭和17年に二人揃って名古屋軍に入団した。これは小鶴が八幡製鉄経由で入団したことによるものだが、1年目から先輩の小鶴が4番を打ったのに対し、本来は投手である野口は登板の機会がなく野手(主に一塁手)として出場している。
勝気な性格同様、バッティングも荒っぽかったが、飛ばない球の時代に控えの野手で小鶴と同じ2本の本塁打を記録しているように、投手にしては長打力があり、25年には3本もかっ飛ばしている。
ようやく投手としてマウンドを踏んだ2年目の昭和18年は、エースの石丸進一(佐賀商業出身)を中心とした投手陣の奮闘で名古屋は球団創設以来の2位に大躍進した。
野口は石丸と同様、投手としては軟投派の変化球投手で球威には乏しかったが、使用球の品質が落ちていたことにも助けられて、12勝4敗、防御率1・45(第5位)という18歳の少年にしては上出来の成績を収めている。
応召された石丸と小鶴が不在の19年度も産業軍(名古屋から改称)の主戦投手としてマウンドを守った野口は、6勝6敗、防御率3・06(第10位)の成績を残し、職業野球の解散とともに戦前のキャリアを終えた。
昭和23年、野口は急映フライヤーズの選手として再びマウンドに戻ってきた。この時のチームの主力打者が先輩の小鶴と後に西鉄でも同僚となる大下弘である。この年はまだ投手としては本調子ではなく、自慢の打力を生かして野手としても出場しており、首位打者の青田(巨人)が3割6厘という投高打低の時代に2割9分4厘という好成績を残している。
翌24年、急映から球団を共同経営していた大映が離脱して新球団大映スターズを設立すると、野口は小鶴とともに大映に移籍し、東急に残留した大下とは一旦袂を分かった。
急映時代の野口は、監督の皆川定之から「あれはもうだめだよ。峠を過ぎた」と酷評されており(同年の成績は6勝5敗)、皆川との確執も移籍の要因の一つになったと思われる。
その一方で月刊野球誌『野球少年』の中では「まだ伸びる余地のある選手」と紹介されていたように、まだ23歳と若く人一倍負けん気の強い野口には可能性があった。小鶴の師匠でもあった新田恭一のアドバイスにより、オーバースローからサイドスローにフォームを変えたことで、持ち球のシュートに加えて鋭く落ちるカーブにも磨きがかかり、大映ではスタルヒンに次ぐ主力投手として重用された。
ただいかんせん球質が軽いため、ラビットボールの使用が始まった23年9月以降は被本塁打が急増し、長距離打者の少ない下位球団には通用しても、強力クリーンナップを揃えた上位球団相手となると苦しいピッチングが続いていた。そんな彼にとって忘れられない一発が、24年8月18日、札幌円山球場で行われた東急-大映戦の九回裏に大下から打たれた超特大の本塁打である。
この試合は大映のワンサイドだったにもかかわらず、三万五千の大観衆は九回裏の東急の攻撃まで一人も席を立つ者はいなかった。札幌の野球ファンは九回裏に回ってくる大下の打席だけは何とか見届けたかったのだ。
ここで期待に応えるのが大下のスーパースターたるゆえんだが、前年までの同僚野口から放った一撃は、大きな弧を描いて右翼場外に消え、場外で練習中だった巨人と中日ナインの頭上も跳び越して向かいの道路まで飛んでいった。
スコアカードに飛距離が記載されていないため非公式記録ではあるが、後日、落下点を目撃していた巨人と中日のナインの証言に基づいて計測してみると、打たれた野口が「170メートルはいってた」というとおり、その飛距離は170メートルを越えていた(公式記録は28年に中西太が平和台の場外まで飛ばした162メートル)。
公式戦を滅多に見る機会のない地方のファンにとって、非公式とはいえプロ野球史上最大の本塁打を生で目撃出来たのは一生の思い出になったことだろう。
大映時代の野口はリーグワーストの35本塁打を浴びながら、味方もガンガン打ってくれたおかげで12勝13敗と久々の二桁勝利を挙げ、先発の面目を施した。
このチーム、福岡県出身者が多く、レギュラーだけでも三塁手の三村、中堅手の小鶴、一塁手の大岡の三人、たまたまこの年は怪我で控えに回っていた19年度の本塁打王金山も入れると、主力だけで四人
もいた。親会社は大映でも、まるで郷土球団のような赴きだった。中でも三村、小鶴、野口の出身校である飯塚商業はOB間の結びつきが強いことで有名で、卒業後もプロ、ノンプロ問わず野球部OBが集って地方のアマチュアチームと親善試合を行うのが恒例行事だったから、野口が登板する日は先輩の三村と小鶴は余計に張り切ったことだろう。
ちなみに守備は良くても打力に難があった三村が3割近く打てるようになったのも、新田恭一の指導によるものである。
郷土福岡に球団が誕生したのを機に野口は福岡に戻り、西鉄クリッパーズに入団する。
クリッパーズは弱かったが、26年度から三原脩を監督に迎え、西鉄ライオンズが誕生すると、ラビットボールが禁止されたことも相まって、野口のピッチングも安定感が増し、チームもAクラス入りを果たした。途中からの入団ながら、大下弘の加入は、打者としての貢献だけではなくチームのまとめ役として欠かせない存在となった。
一方の野口も「マサやん」と呼ばれる投手陣のリーダー格であったが、筑豊育ちのせいか気性が激しく喧嘩慣れしており、若手にとっては恐ろしい存在だった。草創期のライオンズは戦前派の荒っぽい連中が多く、酒の席ともなると博打に喧嘩は日常茶飯事だったが、その中でも野口の存在感は際立っていた。
相撲を取らせればチーム一強く、本職の十両あたりにも引けを取らないといわれた中西太ですら、野口や川崎徳次(久留米商業出身)、永利勇吉(嘉穂中学出身)といったベテラン連中が飲み始めると、人気のない所に隠れて震えていたというほどだから、その酒乱ぶりは推して知るべしである。
さすがに球界のスーパースター大下は遊びに関しては通人で、酒に酔って暴れることもなければ、ベテラン連中から絡まれることもなかったが、野口とだけは一度大立ち回りを演じたことがある。
野口も元同僚で年長の大下に対しては「大下さん」とさんづけで呼んでいたが、些細な事で口論になり、激高した大下がバットをつかむや、野口が台所から出刃包丁を持ち出してきたため、普段は喧嘩などどこ吹く風の西鉄ナインも慌ててみんなで二人を引き離し、事無きを得ている。
こんな事があったと思えば、27年7月16日の平和台事件(毎日の遅延行為に対し、西鉄のファンが暴動を起こした)の際には大下と二人でファンから取り囲まれて暴行を受けていた毎日の選手を守るために
身体を張り、全治三週間の怪我を負ったこともある。この時の英雄的な行為は連盟から表彰された(金一封三千円であった)。
かっとなったら何をしでかすかわからないほど短気な反面、男気があり責任感も強い野口は、平和台事件の直後までの7勝6敗という成績から一転、怪我が癒えた後半戦になると、オールスター以降調子を崩したエース川崎に代わって獅子奮迅の活躍を見せた。
野口の肩はすでにボロボロだったが、登板の度に夫人が用意してくれた生姜湯に肩を浸すようになってから次第に痛みが引き始め、カーブとシュートが思い切り投げられるようになったことで、尻上がりに調子を上げていった。
だましだましの小手先のピッチングから全力投球に切り替えたのを機に面白いように勝ち星を伸ばした結果、シーズン終了時には過去最多の23個の勝ち星を積み重ね、ついに初タイトルとなる最多勝を勝ち取った(23勝12敗)。これは前身のパイレーツ、クリッパーズ時代も含めて、福岡をフランチャイズとする球団にとっても記念すべき初の公式タイトルとなった。
この年にデビューした天才少女歌手、江利チエミの大ファンだった野口は、平和台だけでなく遠征先の球場でも場内放送で江利チエミの曲を流させるほどの入れ込みようで、チエミの曲が流れた日は不思議と調子が良かった。
両者は27年9月6日、チエミの福岡公演の際に楽屋で対面しているが、これで気を良くした野口は翌日の毎日戦でも勝ち星を挙げており、チエミさまさまの一年だったと言えるかもしれない。気迫で投げるタイプだけに好きな音楽を聴いて気分を高揚させたことが好結果に繋がったのだろう。
当時、野口は27歳、チエミは15歳だったが、野口は苦みばしったイイ男で高倉健に通ずる男気もあっただけに、もし独身だったら、ロマンスが生まれていたかもしれない。この頃、高倉健は明大商学部の学生で、江利チエミと知り合うのは4年後のことである。
ようやくリーグを代表するエースと呼ばれるようになったのも束の間、パ・リーグトップの先発30試合を含む45試合に登板した野口の肩は、この年の多投で完全にイカれてしまい28年度は2勝3敗という惨めな結果に終わった。
29年度は待望のリーグ優勝も経験したが、ペナントレースで1勝も出来なかった野口には大舞台での登板の機会はなかった。
オフには先輩小鶴のいる広島からの誘いがかかり、一時は野口が広島と正式契約に至ったという報道までされたが、最終的には福岡に骨を埋める決意をし、潔く引退に踏み切った。まだ29歳という若さだった。
引退後は社会人野球の監督、地元放送局の野球解説をしていた。
生涯成績 83勝65敗 防御率3・15
三原監督は”野武士軍団”という呼称はその宣伝効果はともかく、個人的にはあまり気に入ってはいなかったのではないだろうか。その証拠に親分肌で「飲む、打つ、買う」タイプの野口、武末、永利といった古参連中を次々と処分しているし、大津、河村を見切るのも早かった。大洋の監督を打診された時も、球団にうるさ型のベテラン青田、児玉の整理を進言し、聞き分けの良さそうな秋山、土井、稲川、権藤正を重用したのは、意外性や爆発力はあっても気分屋の選手を御すより、真面目で堅実な選手の方が確実性が高いという思いからだったのかもしれない。ところが三原の思惑は外れ、大洋ではかつて自身が率いた規格外集団が築き上げたほどの黄金期は訪れなかった。




