第7話 優男の死球王 坂井 勝二(1938~) 田川中央高校
コントロールは抜群なのに死球が多いところは、東尾修に似ているが、力投型で風貌も一癖も二癖もある東尾に比べると、坂井は見るからに真面目で朴念仁っぽいぶん、ジキルとハイドのようでかえって打者はみんな腰が引けたのではないだろうか。
田川中央高校出身の坂井の本来の出生地は朝鮮である。父の鉄二は朝鮮で三十年間建築業を営んでいたが、戦火が厳しくなたのを機に本籍地である岐阜県因幡郡に引き揚げてきた。ところが実家は空襲で焼失していたため、一家は苦しい生活を強いられることになった。
炭鉱華やかなりし頃の田川市に越してきたのは、坂井が小学生の時で、もちろん貧困からの脱却を期してのことだ。
坂井が野球を始めたのは田川の中学に入ってからで、本格的にのめりこんだのは高校時代である。
両親は六人兄弟の中で一番おとなしい五男坊がまさかプロになれるような素質を持っているとは露知らず、野球は学問の妨げにならない程度の体力作りとして渋々認めていたに過ぎない。実際、成績が下がるのを恐れた両親が何度も担任に野球を辞めさせてほしいと頼み込んでいるほどだ。
専修大学に進学してからは東都六大学屈指の好投手と謳われるようになり、34年春のシーズンは専大優勝の立役者として最高殊勲選手に輝いている。
ところが、専大のエースとしての坂井はこれが見納めだった。当時、パ・リーグで優勝争いの最中にあった大毎オリオンズが、即戦力として大学を中退させてまで坂井をプロに引っ張り込んだからである。
入団した7月には早くもマウンドに立ち、8月の近鉄戦ではプロ初勝利を挙げたものの、以後は球質の軽さとスタミナ不足がたたって「優勝請負人」と騒がれた東都のエースも看板倒れの結果に終わった。
翌35年は大毎が念願のリーグ優勝を果たしたが、同年1勝2敗の坂井には日本シリーズ登板の機会は巡ってこなかった。
180cmと上背はあってもなで肩でひょろりとしている坂井は、一見するとスポーツなどとは無縁そうな優男で、プロでやってゆくには明らかに体力不足だった。食が細く夏場は西瓜が食事代わりだったというから、これではプロで通用するはずがない。実家の両親もこのままでは解雇されるだろうと薄々覚悟はしていたらしい。
ところが、息子の身を案じた母親が時折上京しては食事、洗濯の世話をするようになった37年からは見違えるようにピッチングが逞しくなり、コントロール抜群のストレートとシュートを武器に二年連続二桁勝利をマークするまでになった。
食生活が良くなったとたんにこうまで変わる選手も珍しい。何とも現金なお坊ちゃんである。
下宿先の大家の娘さんとの結婚が決まった39年はさらなる張り切りようで、オールスターに初めて選ばれたほか、自己最高の25勝をマークしている。この年は大型トレードで阪神から移籍してきた小山正明が30勝で最多勝を獲得したが、永田雅一オーナーが「月給以上の働きをしたのは、まず坂井だ」と激賞したほど素晴らしいシーズンだった。
オフにホテル・ニュージャパンで行われた結婚式も豪華絢爛で、坂井の母校専修大学の名誉総長にして東京五輪担当相を務めた川島正次郎自民党副総裁が仲人だった。
その後も坂井は四年連続二桁勝利を挙げるなど、大黒柱の小山とともにチームを支えたが、攻撃型のチームから守り中心へと変革してゆく中で、かつてはパ・リーグ最強を誇ったミサイル打線が完全に解体された影響でチームは下位に低迷し、勝ち星も伸び悩んだ。
その象徴的な出来事が2度にわたるノーヒットノーラン未遂である。
昭和42年4月10日の西鉄戦で9回無死から初ヒットを打たれて大魚を逃した坂井は、25日の東映戦では9回までノーヒットピッチングを披露し、今度こそはと意気込んだが、延長10回に種茂から三塁打を打たれてまたしても失敗。味方が1点でも取っていてくれればノーヒットノーランを達成していただけに、ショックは大きく、その後もヒットを浴びて勝ち星さえ逃してしまった。
わずか15日間で2度の失敗というのも痛いが、そのうち一試合は敗戦投手になっているのだからその落胆振りや想像を絶するものがあったに違いない。同じようにノーヒットノーラン未遂を2度経験した仁科時成にせよ、3度経験した西口文也(西武)にせよいずれの試合も勝ち投手になっているぶん、まだ救いがあった。
打線が振るわず、ツキにも見放された坂井は、昭和45年についに古巣を離れ大洋にトレードされてしまった。
新天地でも暴力団との交際疑惑で46年1月から無期限出場停止処分を受けるなど運気は低迷していたが、処分が解けてからは8連勝と波に乗り、9勝4敗で最優秀勝率のタイトルを獲得し、防御率も自己ベストの1・87(リーグ2位)と復活を遂げた。15勝を挙げた47年には久々のオールスターにも選ばれている。
昭和51年には日本ハムに移籍し、その年に引退しているが、投手寿命が短いと言われるアンダースローで38歳までやれたのはポーカーフェイスでえげつない内角球をびしびし決めるインシュート主体の強気なピッチングを全うしたからだ。その結果、引退時には143与死球の日本記録保持者になっていた。
また、アンダースローにしてはモーションも速く、短いインターバルでポンポン放り込むので、野手も守りやすかった。死球の多さはノーコンだからではなく、インコース攻めが生命線だったことの副産物であって、コントロールは抜群だった。このあたりは東尾修に通ずるところがある。
若い頃はひ弱なお坊ちゃんタイプで、酒も飲まず一人で新宿を徘徊しているような男だったのが、エース級になってからは酒は底なしに強くなり、後輩を引き連れて飲み歩く親分肌になっていたというから、人間変われば変わるものだ。
ただし、チームのボス猿的な存在になってしまったことが監督の大沢啓二に疎まれ、余力を残したまま引退に追いやられた原因とも言われている。
ちなみに坂井が大洋から日本ハムにトレードされた時の交換選手が後に与死球144の日本記録を作る渡辺秀武であったことは何かの因縁だったのかもしれない。
専修大学時代はワンマンエースで、「坂井がいなければとても優勝どころではなかった」とまで評されたことで”スーパールーキー”扱いされ、鳴り物入りでオリオンズに入団しながら最初の2~3年は鳴かず飛ばずだったが、温厚なのんびり屋だったおかげで、さほどプレッシャーも感じていなかったようだ。入団から結婚まで6年もアパートで下宿生活を送るというのも、プロ野球選手にしては何ともつつましやかである。ところが当時高校生だった八歳年下の下宿の大家の娘と3年間の交際の末にゴールインしたのだから、この男なかなかスミに置けない。




