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福岡之職業野球選手列伝   作者: 滝 城太郎


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第6話 八幡の虎  大岡 虎雄(1912-1975) 豊国商業

 昭和24年春、ノンプロ球界伝説の男が長年の沈黙を破ってついにプロデビューを果たした。大岡虎雄37歳、あまりに遅すぎる船出ではあったが、彼の実力を知る者ほどプロでの活躍を信じて疑わなかった。

 それもそのはず、大岡と言えば東京六大学と都市対抗野球がプロを凌ぐ人気を博していた時代から「八幡の虎」「八幡のベーブ」と呼ばれ、怪力ホームランにまつわる数々のエピソードやグラウンドでの派手な武勇伝には事欠かないノンプロきっての豪傑選手だったからだ。

 新人にして、助監督兼一塁手という破格の待遇は、その期待度と彼に対する敬意の表れであるといってよいだろう。


 昭和4年4月、八幡製鉄に入社したて頃の大岡は、後の名声からは想像がつかないほど自他共に認める凡庸な選手であった。

 不器用でおまけに小学校時代から徒競走ではビリにしかなったことがないほどの鈍足ときては、恐るべき馬鹿力を除けば、仮にもプロ野球選手として大成する要素などどこにも見当たらなかった。

 それでも野球で一旗揚げたいという強い信念のもと、毎日球拾いに明け暮れながらも地道な努力を重ね、唯一の長所とも言える長打力と鉄砲肩に磨きをかけた結果、昭和6年の都市対抗に製鉄のエースとして登場するまでになった。

 大会屈指の強打者山下実と歴戦のエース浜崎真二(両名とも後に阪急)を擁し優勝候補の筆頭とまで謳われた満鉄クラブを3安打に封じた大岡の快投は、大会審判員の天知俊一(後に中日監督)から東京日日新聞紙上で絶賛され、「九州に大岡あり」とその存在を中央のファンにも強く印象づけた。

 一方、大岡の打者としての評価を決定的にしたのが、同年11月に読売新聞社の招聘で来日した大リーグ選抜軍との試合である。

 八幡製鉄は11月24日、下関市長府球場において選抜軍と対戦し17対8で大敗しているが、投手としてはKOされながらも2本塁打を放った弱冠19歳の大岡のバッティングはひときわ強烈な印象を残している。

 なにしろ打たれた方のラリー・フレンチはパイレーツの若き主戦投手で生涯に197勝もしている一流メジャーリーガーである(来日年度の成績は15勝13敗)。しかもそのうちの一発は左翼場外へと消え、早鞆の砂浜で網を繕っていた漁師の頭上をかすめて海中に没したというほどの大当たりだった。

 後年(昭和45年)、フレンチが再来日した時には当時の事を懐かしんで大岡家に電話をかけてきたくらいだから、この時の2発は彼にとっても相当な衝撃であったと察せられる。しかも大会中、日本選手の本塁打はこの2本だけであるうえ、選抜軍の誰より飛距離が出たことから当時のアメリカの雑誌にまで大岡の写真とプロフィールが紹介されたほどだ。

 また、この年の都市対抗予選で春日原球場(福岡)のスコアボードの左をかすめて場外に飛び出した本塁打は、打球が通過した位置に長らく記念のプレートが立てられていたほど雄大な一発で、九州での大岡の知名度を一気に高めるきっかけとなったし、その後も六大学の覇者立教大学との交流戦における場外本塁打、翌昭和7年に来日したニグロリーグの強豪ブラックジャイアンツとの一戦で香椎球場(福岡)場外の海中に叩き込んだ超特大の一発といい、大岡の怪力ぶりを称えるエピソードには枚挙に暇がないほどだ。

 これほどの力量を持っている大岡のこと、当然プロからも誘いがあった。結成当時の巨人軍も交流試合で不世出のエース沢村から二塁打を打っている大岡には早くから強い関心を示していたが、彼が再三の勧誘を蹴ってノンプロに固執したのは八幡製鉄と郷土を愛する義侠心に他ならない。

 「八幡の恩を忘れるな。野球を職業とするいやしい心だけは持つな」が父の厳命だったという。

 そんな大岡も一度だけプロに心が傾いたことがある。巨人の藤本監督が九州まで出向いて熱心に口説いたからだ。

 人情家の大岡は大監督である藤本の熱意にほだされ、巨人入団を一度は了承したのだが、この情報をキャッチした製鉄側が慌てて大岡を説得にかかり、サラリーを上乗せすることで何とか流出阻止に成功した。

 当時はプロの選手と言えども、景浦や川上級のスーパースターを除けばサラリーマンの3~5倍程度の給料が当たり前だったため、プロに飛び込むリスクよりノンプロで安定した給料を貰う方を選ぶ者も多かったのだ。


 そもそも八幡製鉄の名も地元九州でこそ野球の名門として知られていたものの、中央では所詮田舎チームとしか見られておらず、会社名ですら「ハチマン製鉄」と呼ばれていた。

 それが評論家の大和球士氏が「都市対抗の申し子」とまで絶賛した大岡の活躍によって、昭和9年の都市対抗で準優勝、12年には優勝という輝かしい実績を作ったことでようやく「ヤワタ」の名が正しく発音されるようになったのである。

 ちなみに大和氏の高い評価の裏づけとして、彼の都市対抗における代表的な記録を拾って見ると、第12回大会(13年)の打点王、球の飛ばなかった戦前における通算5本塁打などがある。たかが5本と言っても大岡が5本目を放った昭和14年までの大会通算本塁打数は37本に過ぎず、彼一人だけで13・5%を打っているとなると話は別。

 そのうち第7回大会(8年)、第11回大会(12年)で放った特大の一発は、正確な数字こそ残っていないものの400フィートを超える大会史上最長飛距離の本塁打と言われている。まさに大岡こそ八幡製鉄野球部の大功労者であり、地元北九州の野球ファンにとっては沢村や景浦以上の英雄であった。

 ところがそんな大岡が心ならずも九州を去る事件が起きた。昭和23年5月29日の西鉄戦で相手の4番深見(後に東急で本塁打王)とつかみ合いになった大岡は、深見を腰投げで地面に叩きつけて足蹴にしたことで連盟に提訴され謹慎処分となった。

 それも深見の方から守備妨害をしておきながら、それを咎めた製鉄の選手に因縁をつけていたため、大岡が割って入った結果の乱闘だったという経緯を見る限り、喧嘩両成敗ならまだしも大岡一人だけが処分されたことには本人もファンも納得がゆくはずはない。

 178㎝90㎏と当時としては大男の大岡は腕っ節も抜群で、ノンプロ時代は「門鉄の赤鬼」として名をはせた木塚(後に南海)ですら、乱闘中に大岡が近づいてくるのが見えるや一目散に逃げ出したというくらいだから、喧嘩早いことでは人後に落ちない北九州のノンプロ球界でも彼に刃向かうような命知らずはそれまで一人もいなかった。

 ところが173㎝85㎏という堂々たる体躯で柔道三段の腕前を持つ深見の方も荒っぽさにかけては定評のある猛者だっただけに、大岡から肩をつかまれた瞬間かっとして我を忘れてしまったようである。深見自身も後年「あの時は大岡さんに悪いことをした」と述懐していたが、すでに後の祭りであった。

 「野球はフェアでなければならない。その点、私の取った行為を後悔はしていない。しかし、暴力が青少年に与えた影響は大きく、私も責を逃れようとは思わない」大岡はそう言い残して製鉄のユニフォームを脱いだ。


 こうしてやるせない気持ちのまま八幡製鉄を退社したものの、20年近くもノンプロ随一の強打者として君臨し続けてきた大岡だけに、この機会に野球人生の集大成として自分がプロでどのくらいやれるか試してみたいという誘惑にかられたのもやむをえまい。

 早速、製鉄の後輩だった大映の主砲小鶴誠に相談してみたところ、かつてその凄さを目の当たりにし、三十路を過ぎてからも昭和21年12月の巨人とのオープン戦で当時のエース近藤貞雄から本塁打を打っている大岡だけに、一も二もなくプロ入りを勧めてくれた。

 かくして老兵大岡の大映スターズ入団が決定したのである。

 大岡のプロ入りに当たっては、戦前はタイガースの景浦と並び称されたほどの大砲だけに、そこそこはやるだろうという意見と、年齢的にプロのレベルでは厳しいだろうという意見が半々だった。実際、肥満気味で腰の回転も鈍くなっていた大岡にとってプロの剛速球を打つのは難儀だったが、ほとんど手打ちに近いスイングながら後楽園より広い八幡の大谷球場のスタンドにいとも簡単に放り込んでいた規格外のパワーは健在で、スローカーブや狙い球にタイミングが合った時の飛距離はプロでもトップクラスであった。


 昭和24年4月3日の阪神戦、4回に別当が後楽園開闢以来と言われた特大の一撃をスコアボード左に叩きつけると、6回にはお返しとばかりにほぼ同じ場所を大岡の打球が直撃し、空前の特大本塁打合戦に観客席は興奮の坩堝と化した。

 開幕二戦目にして派手なプロ入り第1号を披露した大岡は、5月7日の阪神戦でもプロ野球史上初の三打席連続本塁打を放つなど、随所でファンの度肝を抜く豪打を披露し、その実力がいささかも衰えていないことを証明した。

 ネクストバッターズボックスでバット5,6本をわしづかみにしてブルンブルンと素振りをくれる姿は貫禄十分。対戦相手が巨人だろうが阪神だろうが「こんげそ、なめんなよ!」と大声を張り上げる大岡の迫力の前では、すでにプロで一家を成す川上や藤村もまるで子供扱いである。

 とある日の阪神戦では遊撃手の西江があまりにきたない野次を飛ばすので、頭に来た大岡が二塁ベース付近までやってきて大声で一喝すると、恐怖で縮み上がった西江が急にぺこぺこ頭を下げ始めたのでナインも溜飲を下げたという。

 また、当時は「さわらぬ神に祟りなし」と恐れられた進駐軍の野次に対しても、観客席まで近づいて文句を言えたのは彼だけである。

 最終的には3位どまりだったとは言え、頼りになる兄貴分の加入で士気も高まり、前年まで弱小チームだった大映スターズは、一時は首位争いに加わるほどの健闘を見せた。

 大岡自身はいずれも新人記録となる26本塁打(8位)、111打点(5位)でシーズンを締めくくっている。本塁打記録は後年、豊田(西鉄)、長嶋(巨人)、桑田(大洋)、清原(西武)に、塁打数234も佐々木(高橋)、長嶋(巨人)に塗り替えられていったが、打点の方は約70年後の今日まで破られていない。

 大映時代の大岡は日本人には珍しい背番号4を付けており(松竹時代は11)、背番号3の小鶴と並んだ「KO砲」はニューヨーク・ヤンキース「殺人打線」のベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグと打順、背番号ばかりか守備位置までかぶっている(ただしルースは中堅より右翼守備の方が多かった)。


 昭和25年には小鶴らとともに移籍した松竹で「水爆打線」と恐れられた空前のクリーンナップトリオの一角を担い、34本塁打(5位)109打点(9位)と大活躍。悲願のリーグ優勝に貢献した。

 なお、この年の5月6日の中日戦で放ったルーキーシーズンからの2年連続1試合3本塁打、2年連続100打点ともに史上唯一の記録であり、デビュー2年間の通算60本塁打も清原(西武)と並ぶプロ野球最速となっている。しかも大岡の年齢が38歳であるということを考えれば、けた外れのパワーとしか言いようがない。

 残念なのは彼の活躍した時代は審判員の目測によってしか本塁打の飛距離の記録がないため、中西や王といった後年の長距離打者たちとの正確な数字による比較が出来ないことである。あえて挙げるなら昭和9年の都市対抗のアトラクションで行われたファンゴー競技(本塁後方からノック打球の飛距離を競うもの)で出した123m40という快記録は大岡の伝説的なパワーを証明する意味での大きな参考となろう。

 この競技の場合、投手が投げたものと違ってボールの反発力は期待できないため、あくまでもパワーだけがたよりである。それも現在と違って飛ばないボールでこれほどの飛距離を出すことなど神業に近い。 

 結局、打球が広い神宮のスタンドまで届いたのは大岡だけで、宮武、山下といった並みいる強打者連中を抑えて堂々の1位であった。

 ボールの瞬発力が低いゆえにレベルスイングが一般的だった戦前から1・2㎏もの重いバットをぶんぶん振り回してホームラン狙いに徹していた彼ならではの怪力記録と言えよう。

 大リーグでもこの競技が行われていた時期があり、意外にも投手のエド・ウォルシュ(通算195勝、通算防御率1・82の大リーグ記録保持者)による128mが最高記録となっている。

 

 昭和26年のシーズン初旬、チームの内紛に嫌気が差した大岡はわずか19試合に出場しただけであっさりとユニフォームを脱いだ。後年「豪気華麗で一生を終わりたい」と述べていた彼らしい潔い幕引きであった。

 最後までタイトルには手が届かなかったが、小西監督が松竹優勝の立役者として岩本と大岡の名を第一に挙げているのを見ても、数字的な成績のみならず彼らのリーダーシップがチームの士気にいかに影響していたかが伺える。

 引退後は弱気を助け強気をくじく正義感の強い性格そのままに、地元北九州で暴力団の追放運動に尽力した。晩年、癌に侵され立っているのがやっとという状態になっても、地元の祭りにその筋の者が紛れ込まないよう目を光らせていたという。

 また豪快なイメージのわりには意外に筆まめで、昭和27年には報知新聞と西日本新聞に「私の野球」を連載した他、「野球話・野球の実際」などの随筆集も遺している。

私の父は中学、高校と大岡のようにエースで四番、社会人になっても職場の草野球チームに所属するほど野球好きだったが、子供の頃一番印象に残っているプロ野球選手は、川上や大下ではなく小鶴と大岡だと言っていた。九州人にとってはスケールのデカいこの二人の強打者の方が身近なヒーローという感じで愛着があったのだろう。

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