第5話 和製ディマジオ 小鶴 誠(1922-2003)飯塚商業
小鶴誠こそ福岡県出身のプロ野球選手の中では最高の実績を誇る名選手といってもいいのではないだろうか。日本人初の50本塁打もさることながら、いまだに打点、得点、塁打数の日本記録を保持しているのだ。得点、塁打数こそMLBで大谷翔平が更新したものの、試合数が違うため、日本球界における記録保持者は小鶴のままである。
「和製ディマジオ」と呼ばれ、一時代を築いたスター・プレーヤーである。
華麗なバッティングフォーム、優雅な守備、そして容貌までが大リーグのスーパースター、ジョー・ディマジオに酷似していることからそう呼ばれたが、185㎝87kgの本家より一回り以上小柄な小鶴(174㎝71㎏)はさしずめ「小型ディマジオ」と言った方がしっくりくるような気がする。昭和25年のディマジオ初来日の折には両者は直に顔を合わせており、その時のツーショット写真がベースボールマガジン誌26年1月号の表紙を飾った。
ちなみに小鶴は戦時中にフィリピンに送られていたことがあるのだが、現地人からも純粋な日本人と思われず西欧系のハーフと勘違いされることが多かったというから、戦後はともかく、戦前、戦中は色眼鏡で見られることも多かったのではないだろうか。
福岡県飯塚市出身の小鶴が故郷の地名にちなんだ「飯塚誠」の偽名で名古屋軍に入団したのは昭和17年のことである。
それまで国策企業の八幡製鉄でプレーしていた小鶴だけに、さすがにこの非常時に所詮は大衆娯楽的な見世物に過ぎないと言われていた職業野球チームに入るのは相当後ろめたいものがあったらしい。というのも3人の兄が応召され、小鶴の給料だけでは一家の生活を支えきれなくなったところにたまたま名古屋軍から声がかかったことによるもので、元々本人はプロを蔑視しており、家庭の事情さえなければまったくその気がなかったからである。
入団して間もなく4番に抜擢された小鶴は、年度の打撃ベストテン第10位という成績を残している。それでも極端な投高打低の時代だったせいか、打率自体は2割1分6厘に過ぎず、偽名がばれるほどの話題にならないまま翌年末には同僚の石丸進一(佐賀商業卒)とともに佐世保相之浦海兵団に入隊した。
仲良しだった二人はともに航空隊を志願したが、一発で適性試験に合格した石丸が希望どおり茨城県土浦航空隊に配属されたのに対し、三回連続落第の小鶴は千葉県の館山砲術学校に回された。これが運命の別れ道で、航空兵不適格者の小鶴は戦火を生き延び、念願のパイロットになった石丸が特攻死するという皮肉な運命をたどっている。
戦後、本名に戻った小鶴がようやくその名をファンの間で知られるようになったのは昭和23年の急映時代からである。
それまではほとんど無名だった小鶴が青田(巨人)、鶴岡(南海)といった実績十分の強打者相手に三つ巴の首位打者争いを演じ、毛差で第二位(3割5厘)と健闘したことで一躍その名は全国区となったが、その影には運命的な師との出会いがあった。
昭和23年、急映フライヤーズは技術顧問として、巨人軍初代監督三宅大輔と並ぶ近代打法の理論的指導者として知られる新田恭一を招聘した。
戦前までの日本野球は反発力の少ないボールに対応するためのダウンスイングが主流で、前方への体重移動によって野手の間を抜くライナーあるいは猛ゴロを打つことが理想とされてきた。それに対して、三宅や新田は腰の回転とリストターンで鋭く振り抜く新しい打法を提唱していた。特に新田はゴルフスイングの理論を用いていることから「ゴルフスイング打法」と呼ばれたりもしたが、いわゆる「すくい打ち」のアッパースイングではない。
打席ではスタンスを広くして構え、ボールを懐に呼び込んでからゴルフのドライバーショットのようにノーステップのまま腰の回転で打つのである。この打ち方だと前後への体重移動が少ないため、重心がぶれなくてすむ。したがってボールをバットのスイートスポットで確実にミートしやすいし、腰の回転でボールを運ぶため、ずば抜けた腕力がなくとも打球の飛距離が伸びるという理屈である。前述のジョー・ディマジオのバッティングなどはこの打法の究極の完成形と言えよう。
当時は飛ばない球の時代だったので本塁打数自体は少なかったものの、長打力はトップレベルにあり、荒削りなスイングの改善次第で本塁打王をも狙える素質を持った小鶴にしてみれば、新田理論はまさしく天啓であった。
新田理論に心酔し師弟関係を結んだ小鶴は、この年早速首位打者争いに加わったばかりか、同僚でもある戦後のホームランブームの立役者大下と同数の16本塁打(リーグ3位)をマークしたことで大いに自信をつけた。
「練習の虫」と呼ばれるほど研究熱心で真面目一徹の小鶴は、新田の献身的な指導と自身の日々の鍛錬によって「ゴルフスイング打法」をマスターし、小鶴本人が「ベストシーズンだった」と述懐している大映時代の24年には、3割6分1厘という過去の右打者の打撃記録を更新する高打率で念願の首位打者に輝いている。
だが、客観的に見た場合の小鶴のベストシーズンは松竹在籍時の昭和25年にとどめをさすだろう。この年の松竹の強さたるや伝説的で、今もって破られていないセ・リーグ最多勝記録の98勝、同リーグ最高勝率の7割3分7厘を誇る最強チームだった。
エース真田重蔵の39勝(最多勝)を筆頭に江田貢一21勝、大島信雄20勝(防御率・勝率1位)と並んだ豪華投手陣もさることながら、「水爆打線」と称された日本球界屈指の強力打線はまさに圧巻の一言だった。特に124本塁打397打点を叩き出した小鶴、岩本、大岡の重量クリーンナップは、近代最強と言われた昭和60年の阪神(バース、掛布、岡田で計129本塁打343打点)に勝るとも劣らない。
一試合平均6・63得点という不滅の日本記録を樹立した強力打線の牽引車となった小鶴は、打撃三部門の全てにおいてタイトル争いを演じ、3割5分5厘、51本塁打、161打点という完璧な成績で本塁打と打点の二冠王を獲得、シーズン終了後にはMVPにも選ばれた。
三冠王こそ逃したものの、打率が2年連続3割5分以上というのも彼の他には落合とバースしかおらず、3割5分、50本塁打、150打点の大台突破ともなると日本球界では小鶴ただ一人、長い大リーグの歴史の中でもベーブ・ルース、ハック・ウィルソン、ジミー・フォックスの3人しか達成者がいない三冠王以上に難易度の高い偉業である。
なお、51本塁打は昭和38年に野村(南海)に更新されたが、161打点、143得点、376塁打は名だたる強打者たちのチャレンジを阻み続け今日に至っている。平成13年のタフィ・ローズ(近鉄)が364塁打、同17年の今岡誠(阪神)が147打点と詰め寄ったが(ともに歴代2位の記録)まだまだ及ばず、今後もこれを越える打者は現れそうにもない。
それにしてもこれほどの実績をあげながら小鶴本人が昭和25年をベストシーズンと見なしていない理由は、日本シリーズでの不振にあった。
ペナントレースの終盤、持病のヘルニアが悪化していたにもかかわらず無理を押してゲーム出場し続けた小鶴は、肝心の日本シリーズでは腰痛の影響でとてもフルスイングどころではなく、1割台という惨めな成績に終わっているのだ。
したがって、数字上は最高の記録を残した25年のシーズン途中からすでに小鶴の凋落は始まっていたと見るべきかもしれない。
翌26年は短縮シーズンのため97試合の出場だったが、青田、岩本に次ぐ本塁打24本(リーグ3位)はまだしも、打率は1割近くも急降下し、2割6分1厘しか打てなかった。
この年を最後にホームランバッターとしての魅力は急速に薄れていったが、依然としてどこのチームでも中軸を打てるだけの力はあった。
昭和28年に移籍した広島では4番に座り、2年ぶりのオールスター出場も果たすなど、選手生活の晩年は弱小チームの主力打者として奮闘した。打撃成績も29年に久々にベストテン9位に喰い込むと、翌30年は6位、引退前年の31年も10位と底力を見せたが、全盛期の輝きがあまりにも強烈だったせいか、さすがに地味な印象は拭えなかった。
実際、小鶴の打撃成績が下降線を描き始めた昭和26年からは前年度まで使用していたラビットボールが禁止され、飛ばない球になったことから、「ラビットボールの時代だからこそあれだけの打撃成績が残せた」と酷評する人もいるようだが、同じ条件下でタイトル争いを繰り広げた川上や青田といった後世においても超一流の折り紙をつけられた打撃人ですら、ラビットボール全盛の昭和24~25年にかけてのトータル成績は打撃三部門のいずれにおいても小鶴に遠く及ばないことを考えれば偏見もはなはだしい。
それにラビットボールにいくら瞬発力があるといっても、それまでの使用球よりは飛んだかもしれないが、現在のボールとは比べ物にならないほど品質が悪く、たとえ球場が狭かったことを割り引いたにしても、バットの品質も飛躍的に向上した今日の50本塁打よりは価値が上と見るべきであろう。
そう考えれば、職業野球の草創期からON全盛のV9時代まで長年にわたってつぶさにプロ野球を観てきた評論家の大和球士が「小鶴、岩本、大岡と続く松竹のクリーンナップこそ史上最強」と評しているのもうなずける。
全盛期は以外に短かったが、全国津々浦々、実に48もの球場で本塁打を放っているのは小鶴一人である。まだ、テレビが普及していない時代だけに、新聞や雑誌、ラジオでしかスター選手の活躍ぶりを知るすべがなかった地方の野球ファンにとって、地元球場で行われる公式戦は憧れの選手のプレーをリアルタイムで実感できる唯一の機会だったはずである。
小鶴はそんな地方のファンの目の前で最も多くのホームランを打って見せたわけだから、ファンサービスの点においてもその印象度においても当時の球界きっての人気男である川上や大下に匹敵するものがあったに違いない。
このように打撃人として長らく名声を保ってきた小鶴はともすれば“打”のみに評価が集中しがちであるが、中堅手としても一流で、25年5月17日には外野手守備機会11のセ・リーグ記録を作ったほど守備範囲が広かった。
また28年の33盗塁を筆頭に例年コンスタントに20盗塁前後を記録しているほど脚も早く、プロ野球史上初めて200本塁打・200盗塁を達成した選手でもあるのだ。
ホームランバッターとしてもアベレージヒッターとしても一流で守備にも走塁にも秀でた全盛時代の小鶴のオールマイティーぶりはまさしく本家のディマジオばりで、さすがに「和製ディマジオ」の称号はだてではなかった。
実はこの両者、昭和25年11月3日に後楽園で行われたホームラン競争で対決しているが、この時は小鶴が4本対2本で長旅の疲れか調子の出ない「本家」に勝利している。
派手な活躍とは裏腹に、性格的には温厚で地味だった小鶴は引退後の生活のことも早くから考えており、現役中の26年10月には同僚の三村勲、金山次郎らと資金を出し合い「ロビンス交通」と称するタクシー会社を創立した。
プロ野球選手の副業といえば、「武士の商法」で失敗するケースが多い中、「ロビンス交通」は発足して間もなく融資金を完済し、20数台のタクシーを有する中堅の運輸会社として結構繁盛していた。引退後も国鉄や阪神でコーチを務めるかたわら、ビル管理会社を経営するなど堅実な人生を歩んだ。
通算成績 ’280 230本塁打 923打点 1717安打 241盗塁
小鶴がクリーンナップに座っていた昭和24年の大映スターズのメンバーは、クリーンナップの小鶴、大岡、レギュラー三塁手の三村、先発投手の野口と福岡県出身者がずらりと揃っていた。そのうち小鶴、三村、野口はいずれも飯塚商業の出身である。これはかなり稀有な例だと思う。




