表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
福岡之職業野球選手列伝   作者: 滝 城太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/7

第4話 門司の彗星  宅和 本司(1935-2024) 門司東高校

本稿のタイトルは、昭和三十年三月刊の某野球雑誌の中で新人王を獲った宅和を紹介した記事のタイトル「門司のコメット」を少しいじったものである。コメットという語を使ったのは、彗星のような現れて活躍したことを例えてのことだろう。ところが皮肉なことに夜空を駆け抜けていった彗星のようにあっという間にファンの前から姿を消した時、記事を書いたライターは何を思ったのか気になる。

 かつての南海ホークスには「チェーンエース」と言われるジンクスが存在した。昭和23年のオフに大投手別所が巨人に引き抜かれてからというもの、33年に杉浦が入団するまでチームには真のエースと呼べる大黒柱は不在のままであった。

 それでもこの間にリーグ三連覇を含む四度もの優勝を果たしているのは、この間南海には毎年のように新しいエースが登場しては1~2年で次のエースにその座をバトンタッチして消えて行くというまるで自転車操業的な短命エースの系譜が存在したからである。

 したがってこの時期は南海の投手が順次タイトルホルダーに名を連ねており、見た目は華やかな投手王国を築いてはいたが、いずれも活躍期間が短いため個々の印象が薄く、栄光の歴史を支えた彼らの実績のほとんどは風化しつつあると言っていい。

 興味深いのは、この中には武末悉昌(筑紫中出身・24年最多奪三振)、江藤正(八幡中出身・26年最多勝利)、大神武俊(博多工業出身・28年勝率1位)と福岡県勢がずらりと名を連ねていることだ。

 プロ入りと同時にリーグ新人記録をことごとく塗り替えた宅和本司もまた、福岡出身のチェーンエースの一人だった。


 新人の年に限って言えば、過去のパ・リーグ新人投手中随一とも言われる実績を残しながら、意外にも宅和の入団当初の注目度は低く、「期待の新人」と言うには程遠い存在であった。情報網が発達している現代ならともかく、テレビ放送がようやく始まったばかりの当時としては、甲子園出場経験のない高卒ルーキーなど中央球界では無名もいいところで、九州圏内では超高校級のエースとして知られる宅和でさえ例外ではなかった。

 宅和は北九州の門司東高校という地元では進学校として知られる高校の出身である。地元中等球界で華々しい名声を築きあげプロを視野に入れていた宅和がなぜスポーツとは無縁の進学校を選んだのか。実はそのことが宅和の後のプロ人生を大きく左右する原因となった。

 早くからプロを目指していた宅和は、学問よりも野球に専念するため、過去に金山次郎(19年度本塁打王、25・27・28年度盗塁王)、大岡虎雄(プロ野球新人打点記録保持者)らを輩出していた地元の名門豊国商業への進学を希望していた。

 ところが、宅和のピッチングに一目惚れした門司東高校の野球部主将自らがこれまた大の野球ファンである校長の書状まで添えて熱心に勧誘するものだから、その熱意にほだされた形でやむなく進路を変更したのだった。

 一見野球とは無縁の門司東高校がこれほどまでに宅和の勧誘にこだわったのは、学制が変わり校名も旧制の門司中学から改名したのを機に学校を売り出す一策として、校長の肝煎りでスポーツ活動の強化に取り組んでいたことによる。

 中でも野球は全国共通の人気スポーツで学校の知名度を上げるにはもってこいである。そのためコーチに元国鉄スワローズ内野手の岩瀬剛を迎え、甲子園出場という悲願達成に必要不可欠なエースとして宅和に白羽の矢を立てたわけである。

 さすが三顧の礼をもって迎えられただけあって宅和の待遇は別格で、遠征試合の列車移動に際しても彼だけは他の部員とは別に特二等が認められていたが、一部のエグゼクティブ以外には縁のない一等はともかく、プロ野球でも超一流の国鉄のエース金田クラスでさえ特二等というご時世である。高校入学当初からのスター扱いに気を良くしたのか、新入生エースの宅和は周囲の期待にそぐわぬ活躍を見せた。


 初めての他流試合で甲子園常連校の下関商業を3安打完封で一蹴すると、続く秋のリーグ戦でも全勝し、九州大会まで制してしまった。この中にはパ・リーグ初の新人3割打者となった渡辺清(阪急)の出身校でもある強豪戸畑高校をノーヒットノーラン(エラーがなければ完全試合)に下した試合も含まれる。

 九州地区優勝校となった新鋭門司東は、神宮球場における九地区大会にも出場したが、緒戦の松商学園に敗れ、ついに宅和の連勝は15でストップした。それでも九地区大会の出場イコール春の選抜出場枠であり、ここに宅和を擁する門司東高校の27年度春の選抜出場が無条件に決定したのである。

 門司東の甲子園初出場に地元が大いに沸きあがる中、抽選日の前日に予期せぬ問題が紛糾した。野球部全員が学年末考査を免除されたことが高野連に提訴されたのである。これは甲子園出場を控えた野球部の負担を少しでも軽減してやりたいという校長の親心によるものだったが、仮にも進学校を標榜する公立高校でこんな身贔屓が許されるわけもなく、校長の措置に反論する部内者から地元新聞社に詳報がもたらされたことで事態は大きくなった。

 結果は甲子園出場辞退と三ヶ月の出場停止処分であった。このことはスポーツ特待の良き戒めとなったが、月日は流れ名門進学校でさえ推薦入試を採りいれるようになった今日において、インターハイクラスの生徒で成績不振のため留年というケースを全くといっていいほど耳にしないのは、スポーツ特待生への優遇措置という悪しき伝統がいまだに続いている証であろう。

 この一件でケチがついた門司東高は再び甲子園の土を踏むことはなかったが、出場していれば間違いなく全国区となっていたであろう宅和のピッチングは、九州地区でのスカウト活動を強化していた南海の目に留まり、卒業と同時にプロ入りが決定した。

 幸い宅和は中央球界で無名であったため、ライバル球団との獲得合戦には発展しなかったうえ、裕福だった生家が父の事業失敗により経済的に苦境に陥っていたというやむにやまれぬ事情もあってか、比較的安い契約金と支度金で最初に声をかけた南海がすんなりと落札できたのだから、南海にとっては未来のエースを格安で手に入れたことになる。

 当の本人はといえば、新人選手中では無名であってもそれはあくまでも諸事情によるものであって、キャンプに入ってからも「自分はホークスに球拾いにやってきたんじゃない」という自負があった。

 そのため宅和は本来なら新人がやるべき球拾いや練習後のボール磨き、グラウンド整備といった下働きを一切やらず、お高くとまった生意気な新人として周囲から不評をかっていた。

 これまで常に特別待遇を受けていた宅和はスター気取りもいいところで、万事がこの調子だったため、一時は古参選手の間でヤキを入れようという話まで出たそうだが、一歳年長で同郷の森下正夫(八幡高校出身)が本人に懇々と諭したことで事無きを得た。

 これまで野球生活のことで説教をくらうことなど一度もなかった宅和は涙を流して反省したが、長年培われてきた自信過剰な性格はこんなことでは変わるはずもなかった。


 昭和29年のシーズン、リーグ四連覇を目指す南海は左のエースである柚木進と右のエース大神武俊の活躍で序盤をひた走った。ところがこの両輪がオールスター以降不調に陥るやチームはズルズルと後退し、首位の西鉄に完全に置き去りにされた形となった。このチームの危機に救世主として現れたのが宅和である。

 世間的には無名でも超高校級の資質を持った宅和のこと、高卒ルーキーながら開幕から一軍入りしたものの、元来少し気が弱く大舞台の経験がないせいもあってか、5月1日の初勝利以来勝ったり負けたりの繰り返しでその才能は埋もれたままであった。

 その頃最も注目を浴びていた新人は、宅和と同じく甲子園出場経験がなく中央では無名だった阪急の梶本隆夫(多治見高校出身)であった。

 サイドスロー左腕の梶本は185cmの長身から投げ込む威力満点のストレートと大きな落差のカーブで三振の山を築いており、オールスター出場時には新人王間違いなしの太鼓判を押されていた。同じパ・リーグで同い年の新人投手の活躍に触発されたのか、宅和は8月16日の西鉄戦から10月3日の東映戦まで11連勝を記録し、一気に梶本を抜き去った。

 この間8月19日の毎日戦で10回2死までノーヒットピッチングを披露した他(勝敗はつかず)、9月には神田武夫が持つ球団記録に並ぶ月間8勝を記録している。


 頭上に高く上げた腕を水車のように真下に一気に振り下ろす宅和のピッチングは腰の回転を効かせたダイナミックなもので、ナチュラルシュートして右打者の手元で内角に食い込んでくる150km超えの快速球とスライダーのように鋭くアウトコースに切れ落ちるカーブがコースに決まりさえすれば磐石だった。

 ましてやワンマンで自信家だけに、勝ち続ければ勝ち続けるほど本人もその気になって、ピッチングにはさらに磨きがかかり、ピンチにも動じることのない自信に裏づけされた冷静さも加わってきた。

 色男の宅和には女性ファンが急増し、本人もそれを十分意識していた。実際、鶴岡監督から「タク、ゲーム中にお前何度帽子をかぶり直すんや。一塁スタンドにウィンクしたり、あまりみっともない真似すなよ」と窘められたこともあった。

 鶴岡監督はすでにこの頃から宅和の自信過剰からくるショーマンシップを危惧していたのだが、目立ちたがり屋ゆえに、ハードな連投を強いても本人は喜んでマウンドに上がるのだから痛し痒しといったところだった。

 緊張感漂うマウンドの上ですらスタンドの女性ファンを意識しているくらいだから、この強心臓ぶりはここ一番のリリーフにはもってこいで、投手としての信頼度は抜群であった。もっとも、ベテラン投手あたりからは「こいつにリリーフしてもらわにゃならんなんて、情けのうなってきたわ」というボヤきも聞かれたそうだが。


 投手不足の折、来る日も来る日も宅和を投入し続けた結果、南海は8月22日から9月21日までプロ野球タイ記録の18連勝という脅威の追い上げを見せる。

 この間の18試合中、宅和の登板は実に13度にも及び、先発とリリーフの両方で6勝をマークしているが、連勝が止まった後もチームは再び8連勝(うち宅和が4勝)し、首位に返り咲いていることを考えれば、宅和の貢献度は計り知れない。

 前述の11連勝もこの間に達成されたもので、昭和17年の藤本英雄(巨人)、25年の大島信雄(松竹)と並ぶ当時のプロ野球新人タイ記録にして、パ・リーグでは初の快挙であった。この記録は昭和40年に堀内恒夫(巨人)が13に更新した後、平成11年に上原浩治(巨人)が14にまで伸ばすが、パ・リーグでは未だに破る者が現れていない(新入団の外国人選手は除く)。

 南海の奇跡の快進撃によって優勝の行方が最終戦まで持ち込まれたこの年のペナントレースも、最終戦を制した西鉄が0・5ゲーム差で南海をうっちゃり、初優勝を遂げた。

 後半戦フル回転の宅和は近鉄の田中文雄と並ぶ26勝で最多勝に輝くとともに、防御率も1・58で第1位を獲得。最優秀投手賞は優勝した西鉄の西村貞朗(22勝5敗・防御率第2位)に譲ったものの、仮に南海が優勝していればライバル西鉄を7勝0敗と完全に封じ込めた宅和がMVPの最有力候補であった。

 10代の新人で最多勝、最優秀防御率、奪三振王というのはプロ野球史上宅和だた一人で、後に同じ記録を達成した権藤博(中日)、木田勇(日本ハム)、野茂英雄(近鉄)、上原浩治(巨人)の四人はいずれも大卒か社会人経験者である。

 また26勝も10代の投手の勝ち星としてはプロ野球史上最多であり、今後もまず破られることはないだろう。

 ペナントレースもさることながらこの年は新人王レースも稀に見るハイレベルな争いであった。最終的には夏場から尻上がりに調子を上げた宅和が、後半伸び悩んだ梶本を振り切って激戦に終止符を打ったが、梶本も高卒ルーキーにして20勝12敗、防御率2・73、228奪三振というケチのつけようもない成績である。

 それでも投手タイトル二冠のほか、野茂英雄に破られるまで30年以上にわたってパ・リーグ新人記録であった275奪三振をマークし、奪三振王まで獲得した宅和にはかなわない。

 新人投手が二人揃って20勝以上を挙げたのはこれがプロ野球史上唯一のケースだが、20勝以上挙げながら新人王を逸した選手も梶本しかいない。おまけにこの梶本、生涯254勝もしながら投手タイトルとは全く無縁だったのだから、とことんツイていなかった。

 翌昭和30年はシーズン序盤から西鉄と南海がロケットスタートを決め他チームを圧倒した。なんと四月終了時で西鉄が17勝4敗(勝率’810)、南海が19勝5敗(勝率’792)というハイレベルの争いである。

 西鉄は前年度同様、西村と河村の二本柱が健在だったが、対する南海はワンマンエースの宅和が孤軍奮闘。チームが首位に立った六月中盤には13勝1敗というぶっちぎりの成績で、念願のオールスターにもファン投票第1位で選ばれた。

 まだ20歳になったばかりでパ・リーグNo1投手の称号を手に入れた宅和はもう怖いものなしであった。生意気な彼のことを快く思っていなかった古参選手の中からも、機嫌を取ろうとする者さえ現れ始めた。

 宅和の行くところ常に女性ファンが群がり、宅和と一緒にいるだけで周囲がちやほやしてくれるものだから取り巻きは後を絶たなかった。しかも、難波球場の近くは歓楽街である。これはある意味、若きエースにとっては劣悪な環境と言ってもよかった。夜な夜な粋なポロシャツ姿でミナミの繁華街から心斎橋筋を闊歩する宅和の姿が目撃されるようになったのもこの頃からである。

 晴れのオールスター戦で4回無失点と好投後は、これまで無尽蔵のスタミナを誇ってきた常勝将軍宅和にも次第に疲労の影が忍び寄ってきた。

 連投による過労と腰に負担がかかるフォームに起因する腰痛により、ストレートの威力は目に見えて落ちてきた。もっとも、監督の鶴岡に言わせると、エースの不調は昨年から危惧していたとおりの「慢心による不摂生」以外の何物でもなかった。

 七月末には一旦西鉄に首位を譲った南海だったが、宅和に次ぐ第二のエースとして台頭した中村大成が2ヶ月で10勝という荒稼ぎで再び首位を奪回した。

 誕生日が3日違いの同い年で日頃から仲のよい中村の活躍で宅和の負担は軽減され、八月下旬に早々と20勝ラインを突破した後は、もはやストレートだけで押し切るだけの球威はなく、コントロール重視の小

手先だけのピッチングに終始し、あとは宅和という顔で投げていたようなもの。

 結局、南海は日本プロ野球最多勝利記録である99勝でペナントを奪回し、宅和も24勝で二年連続最多勝に輝くなどエースの意地を見せたが、被本塁打数はリーグ1位の23本、昨年トップだった防御率も11位にまで下降するなど内容的には前年度とは雲泥の差があった。

特に大事な終盤になって8月末から1ヶ月間も勝ち星を挙げられなかった。そのせいもあってか、勝ち星が宅和に1つ及ばないことを除いては勝率第1位、防御率第3位という抜群の安定感を誇り、終盤の宅和の連敗中にも4勝0敗と奮闘した中村大成(23勝4敗)が最優秀投手に選出されている。


 デビュー2年で50勝という驚異的な数字を残しながらも、すでにエースとしての信頼感を失いつつあった宅和は、巨人との日本シリーズでも王手をかけた第5戦に1回でKOされるなど7回投げて被安打14、6失点という無残な成績であっという間に栄光の座から滑り落ちていった。

昭和31年は6勝5敗と急降下。過労と腰痛の悪化もあって登板数自体も大幅に減っていたため、2・28という防御率に往年の片鱗が伺えなくもなかったが、それから2年間というもの1勝も出来ずまだ20代前半の若さにして、全く過去の人になってしまった。

 腰の負担を軽くするためにフォームを改造したことも宅和凋落の要因の一つではあったが、何と言っ

ても彼の場合は自信喪失が大きかった。「こうなったのも自業自得」と吐き捨てる鶴岡監督をはじめ周囲の態度は冷やかで、高校時代から特別扱いされることに慣れ下積み経験の苦労がない宅和は、この試練を乗り切れるだけの精神的な強さは持ち合わせていなかった。

 ミナミの街を肩で風を切っていた頃がまるで嘘だったかのように、萎縮しスケールの小さくなった彼のピッチングはもはやプロでは通用しなくなっていたのである。


 宅和が面白いように勝ち続けたのは昭和29年の8月から30年の6月までの約1年間である。この間の成績は29勝4敗とまさに無敵で、3連投3連勝という今日では考えられないような記録も残している。

 1999年の『別冊宝島』の「驚異の新人トップ10」という企画で、権藤博に次いで宅和が第2位にランクされているのは、デビュー時の輝きがあまりにも鮮烈だったからであろう。

 ちなみに高卒新人でありながら未だにパ・リーグ記録である防御率1.06を記録し、その年の日本

シリーズでも3勝0敗と好投した稲尾がランキング3位、トルネード旋風の野茂が6位で、上原や松坂に至ってはトップ10にすら入っていない。

 生涯成績 56勝26敗 2・29 

  

かつての県立進学校門司東高校も2009年に閉校となってしまった。北九州市の人口減少が顕著なことも起因しているのかもしれない。私は仕事の関係で一年間だけ博多から新幹線通勤で門司に通ったことがあるが、門司駅の周辺は海に面した閑静な住宅地で利便性もよく、住み心地は良さそうだった。ところが冬場になると、高層建築が少なく主線道路の幅が広いぶん海風が強烈で、駅から1kmほど離れた職場まで歩くのが地獄だったことが記憶に残る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ