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福岡県出身プロ野球選手列伝   作者: 滝 城太郎


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第16章 堕ちた海賊  永利 勇吉(1920-1962) 嘉穂高校

永利はたった一年間だけ福岡に存在した西日本パイレーツを代表する選手であり、実績から見る限りミスターパイレーツといっていいだろう。仲間意識が強く、ともすれば身内贔屓なところもある西本幸雄や、選手を管理・拘束しない浜崎(阪急)や小島(西日本)の下では伸び伸びやれて実力も発揮出来たが、御しにくい性格ゆえに三原西鉄では萎縮気味だったのは惜しまれる。もし日比野の誘いに乗らず、阪急に残っていれば、同郷の天保もいたことだし、もっと華々しい活躍ができたのではないだろうか。

 日本プロ野球がセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分かれ、二リーグ制が発足した昭和25年、セ・パ両リーグそれぞれに福岡にフランチャイズを置く球団が産声を上げた。 

 セ・リーグに誕生したのが、西日本新聞社を親会社に持つ西日本パイレーツ。そしてパ・リーグに誕生したのが西日本鉄道を親会社に持つ西鉄クリッパーズである。

 当時の福岡市で二球団が競合しては共倒れになるのは目に見えており、両チームとも下位に沈んだのを機に西鉄が西日本を吸収合併し、新たに西鉄ライオンズが再編成された。そのため西日本パイレーツは昭和25年度一年限り存在した幻の球団になっているが、そのパイレーツで四番を打ったチーム最強打者が地元福岡出身の永利勇吉だった。

 永利の出身校である旧制嘉穂中学(現・嘉穂高校)は筑豊地方きっての進学校である。同校野球部は昭和3年夏の甲子園福岡県予選でベスト4というのが最高で、全国的には無名だったため、立教大学進学後も長らく控えの外野手だった。

 そんな永利にチャンスが巡ってきたのは十七年春のリーグ戦を控えた頃だった。当時の立教大学野球部には監督が不在であり、春からは新主将の西本幸雄が監督を兼ねることになっていた。したがって選手層も薄く、ちょうど捕手のなり手がいなかったこともあって、控えの右翼手だった永利に急造の捕手役が回ってきた。

 元々守備は巧くなかった永利のこと、練習の最中もポロポロ落球してはチームメイトの嘲笑に晒されたらしい。幸いというべきか気性が荒く喧嘩っ早い炭鉱町で育ってきたおかげで、ほとんどいじめに近い仕打ちもあまり意に介さなかったのか、永利はこの試練を耐え忍び、秋のリーグ戦では周囲があっと驚く変貌を遂げていた。

 正捕手となり四番を任された永利は戦前では最後となるリーグ戦で打ちまくり、打率5割で首位打者に輝いたばかりか、打点もリーグトップだった。立教は2位タイに甘んじたものの、この戦力で優勝した早稲田を追い詰めた功労者として主将・監督兼五番一塁手の西本とともに評論家筋からも六大学一流の捕手として絶賛された。

 当時の立教は東京六大学の中では優勝回数が二回しかなく、いまだに優勝のない帝大よりはましというくらいのポジションだったが、このシーズンの永利の打率は後の長嶋茂雄にも破られず、現在では立大史上1位タイとなっている。

 戦争が終わると、永利は地元の八幡製鉄の捕手として昭和21年の都市対抗に出場し、ベスト8まで進出した。翌22年には別府星野組の硬式チーム結成に際して勧誘され、荒巻淳とバッテリーを組むことになった。

 22年度の都市対抗に初出場した星野組は二回戦で敗退するが、一時期八幡製鉄にいたこともある旧友西本幸雄を引っ張ってきてチームを補強すると、23年度都市対抗では”火の玉投手”と謳われた荒巻の快投などもあって決勝まで勝ち進んだ。

 惜しくも西日本鉄道との決勝には敗れたものの、二本のホームランを打った永利は久慈賞(敢闘賞に該当)を受賞し、強打の捕手として社会人球界にその名を轟かせた。ちなみに決勝で争った西鉄のエース武末、四番の深見ともに同郷人で、後にライオンズでチームメイトになる。

 星野組敗退の最大の要因は、準々決勝の時のスライディングで骨折した荒巻が準決勝以降は登板できなかったことにある。そのため荒巻の怪我が癒えた24年度は順当に都市対抗で優勝し、荒巻が最優秀選手賞である橋戸賞を受賞するが、捕手永利はすでに星野組から去っていた。前年の都市対抗後に阪急から声を掛けられ、一足先にプロ入りしていたからである。

 永利を阪急に入団させたのは当時の阪急監督浜崎真二である。浜崎は荒巻狙いで別府まで足を運んでいたのだが、荒巻は首を縦に振らず、行きがけの駄賃にと獲ったのが永利だった。それも永利が星野組が宿舎に利用している日名子旅館の女中に手をつけて妊娠させてしまい、その事後処理に必要な金を浜崎が肩代わりするという条件でのワケあり入団だった。

 社会人野球きっての強打の捕手もプロでは勝手が違ったようで、二年目には外野手に再転向させられるも、しばらく体調を崩していたこともあってレギュラーに定着しないまま、同僚の日比野武、平井正明とともに25年度のシーズンから新加入することになった西日本パイレーツに引き抜かれた。

 永利は公私共に浜崎に恩義があっただけに、浜崎もこの不義理には相当腹を立てていたようだ。西日本以外からも主力を引き抜かれた阪急は前年度の2位から4位に順位を下げ、そこから三年間はBクラスの悲運を味わうことになる。


 パイレーツは他チームからの寄せ集めのような球団だったが、昭和20年代、両リーグを通じて最高の遊撃手だった平井の他にも南村、永利、緒方といった東京六大学で鳴らしたメンバーが名を連ねており、戦力的には粒が揃っていた。実際、ペナントレース直前に大阪で開催された全球団によるトーナメント大会で優勝し、福岡市で凱旋パレードが行われるほど盛りあがったのだが、寄せ集めゆえにチーム内にいくつもの派閥が形成されてしまい、それが原因で選手の気持ちがバラバラになり、終わってみるとセ・リーグ8球団中6位に沈んでしまった。

 選手個々ではエース緒方が20勝、平井、永利、南村の主軸が揃って3割を打ち(南村だけわずかに規定試合不足)、永利退団後に星野組の四番を打っていた関口清治も18本塁打と気を吐いている。

 打の中心だった永利は3割4厘、21本塁打、80打点と三番右翼手としては申し分ない働きを見せたが、観客動員数が低迷したパイレーツは経営難に陥り、たった一年で解散を余儀なくされた。その後、パ・リーグで5位だった西鉄に吸収合併するような形で緒方、永利、関口はそのまま新生西鉄ライオンズに迎えられる一方、平井と南村は巨人にさらわれて巨人の第二次黄金時代の一翼を担うことになる。

 昭和26年、三原脩を監督に迎えて産声を上げた西鉄ライオンズは、3割打者も20勝投手もおらずパイレーツよりも小粒ながら、三原采配によって各自が自分の役割を全うした結果、パ・リーグ2位と大健闘した。主砲の深見が不振の中、三番右翼手として打の中心となった永利は2割9分4厘、14本塁打で初の打撃ベストテン入りを果たしている(10位)。

 新生西鉄の中心打者となった永利だが、翌27年4月11日、世紀のビッグトレードによって球界の大スター大下弘が東急から移籍してきたことで大きな割りを食ってしまうことになる。

 この年の西鉄の外野陣は、永利、関口、塚本を中心に回っていたのだが、外野手の大下の入団によって一枠減り、打力の伸張著しい関口を除く二人が競い合うことになった。シーズン当初は2番右翼手だった永利だが、躁鬱気味の性格だったこともあり、確実性の高い塚本にポジション争いで敗れてからというもの、すっかり自信を喪失してしまい、七月には薬物を過剰摂取して自殺を図るという不祥事まで起こしてしまった。

 28年は外野守備もおぼつかない大下が一塁に入ったことで、開幕当初は再び右翼手としてスターティングラインナップに戻ってきたが、やがて一塁守備も拙い大下が内外野併用となったため、永利は大下が外野に入る度にベンチに下げられ、体よく使いまわされるはめになった。

 “お客さん”として招かれた大下に対する度重なる優遇措置と自身のバッティングのふがいなさも重なり、相当ストレスも溜まっていたのだろう。五月上旬の東急戦に豊田のエラーでサヨナラ負けした時、永利は帰りのバスの中で敗戦投手になった川崎に頭を下げて謝っている豊田に向かって「謝って済むか!このバカタレ、歩いて帰れ」と罵声を浴びせるや、いきなり向こう脛を蹴り上げたのである。

 これは、豊田がこの時の屈辱をバネにパ・リーグを代表する遊撃手に成長したとしてよく引き合いに出されるエピソードであるが、永利の言動は弁解の余地もないれっきとしたパワハラとはいえ同情すべき点もないわけではない。

 三原監督は一流の策士であるがゆえに自分のやり方には絶対的な自信を持っており、これと見込んだ若手選手は長い目で見て起用する一方、結果が伴わないベテランはさっさと見切ってしまうところがあった。それはベテランの寄せ集めだったクリッパーズ色を一掃し、自身が理想とするチーム作りにこだわっていたからである。

 後年の西鉄ライオンズは“野武士軍団”と呼ばれ、豪快なサムライ野球のイメージが定着していた。それはクリッパーズには福岡出身者や地元企業である西日本鉄道、八幡製鉄から入団してきた選手が多かったこともあって、地元贔屓のファンの間で豪放磊落なチームカラーを美徳とする空気が生まれ、それがライオンズというチームの個性だと曲解し続けていたことによる。

 ところが実際の三原西鉄は、流線型打線構想やデータに基づく緻密な野球に裏づけされているように他チームより先進的なチームだった。大下、中西、稲尾といった天才肌のカリスマ選手を前面に出すスター至上主義をとっていたがゆえに、豪快な勝ち方が注目されていただけのことで、高倉、豊田、仰木、河村といった主力選手は揃って切れ者であり、彼らが三原の采配に忠実だったからこそ、チームは最大限のポテンシャルを発揮できたのである。

 つまり三原が望んだのはバンカラなチームではなく理知的で結束力のあるチームだったということだ。三原は「品行下劣」を何よりも嫌っており、川筋男的な男っぽさに下品さが同居していた古参選手たちが若手に悪影響を与えることを何よりも危惧していた。だからこそ成績の下降にかこつけて、古参選手を次々に整理していったのだ。

 永利が控えに回されたのに続いて、大下が一塁に入る時には地元出身のレギュラー一塁手だった河野昭修もスタメンから下げられることになったため、福岡出身のベテランたちからすると地元出身者をないがしろにしているように映ったとしても仕方がない。永利は思わず手を出してしまったが、エースの川崎でさえ自分が先発の時は豊田を外すように直談判したくらいだから、当時は三原の選手起用に対する不満はチーム全体に広がっていたに違いない。

 監督の秘蔵っ子たちが重用され、うるさ型の古参は干されるという不穏な空気の中でペナントレースを戦うのは、神経質な永利には大きなストレスになったはずだ。

 28年度の永利は94試合に出場し、2割1分9厘、4本塁打と落ち込んだため、本来なら整理されてもおかしくないところだが、捕手がベテランの日比野頼みで、控えの久喜もからっきし打てないとあって、29年のシーズンからは経験者である永利が捕手にコンバートされることになり、なんとか首がつながった。

 29年は西鉄がリーグ初優勝を果たしたため、日本シリーズでも第二試合の途中で代打に出てマスクを被る機会に恵まれた。シリーズ唯一の打席は三振に終わったものの、久しぶりに超満員の大観衆が見守る晴れ舞台でキャッチャーミットを構えた時、神宮の大声援の中でプレーしていた輝かしい日々を思い出したに違いない。

 30年のシーズンオフに引退後は球界には残らず、評論家、解説者としてライオンズを見守っていたが、そういうデスクワークは性に合わなかったようで、自信を喪失して精神的に病み、走行中の列車に飛び込んで自らの人生にゲームセットを告げた。

 生涯成績 ’247 59本塁打 234打点 450安打

永利は星野組時代からトラブルメーカーだったため、その打棒が衰えた時真っ先に整理の対象になっても仕方がないところだったが、彼よりもチームへの貢献度が高かったと思われる深見、野口、武末の方が先にチームを離れることになった。当時のライオンズの古参連中の遠征先でのマナーは最悪で、部屋を汚しまくるだけでなく、床の間の掛け軸や置物までどさくさに持ち帰り、後で苦情がくるのは日常茶飯事だったため、三原はチームへの過去の貢献度など全く意に介さず、ベテラン斬りを推し進めていったのである。このリストラの嵐を永利が生き延びれたのは、彼がかつて東京六大学のスター選手だったからであろう。スター至上主義の三原は、自らも東京六大学の名二塁手として鳴らしただけに、永利や宮崎(慶大の名二塁手)とは何か一体感のようなものがあってなかなか整理しきれないところがあったように思えてならない。


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