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福岡県出身プロ野球選手列伝   作者: 滝 城太郎


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第15章 神宮の皇帝ペンギン  安田  猛(1947-2021) 小倉高校

安田猛というと、アニメも大ヒットしたいしいひさいち作の漫画「がんばれ、タブチくん」に登場するヤスダくんというお笑い系投手のモデルという認識の方も多いと思われるが、実はセ・パ両リーグを代表する頭脳的捕手にして名指導者だった森昌彦と野村克也をうならせるほどの心理的駆け引きに長けた技巧派投手だった。

 福岡県立小倉高校といえば県北では東筑高校と並ぶ名門進学校だが、かつては野球部も全国区で夏の甲子園で優勝二回、春は準優勝二回と九州では屈指の実績を残している。

 福岡県の進学校は概して文武両道を標榜しているところが多く、昭和二十年代から四十年代にかけて、修猷館、福岡、筑紫丘、明善といった県下トップクラスの学校がこぞってプロ野球のエース級投手を送り出しているが、甲子園では抜きん出た実績を残している小倉からは満天下を湧かせるようなスタープレイヤーはなかなか現われなかった。

 夏の甲子園二連覇の立役者となった福島一雄は、身体があまり強くなかったことを理由にプロへは進まず、早大卒業後は社会人野球の八幡製鉄でプレーした。二十九年春の選抜の準優勝投手として鳴り物入りで西鉄に入団した畑孝幸も先発ローテンション入りは果たしたものの、プロではあまり目立った活躍はしていない。

 その畑以来久々に全国区で注目を浴びたのが、四十年春の選抜で甲子園のマウンドを踏んだ安田猛である。

 プロでは軟投派のイメージだった安田も、高校時代は左の本格派としてプロのスカウトからも注目されていた。ところが肝心の甲子園では一回戦で市立和歌山高校に2対1で惜敗し、早くも姿を消してしまった。おかげで甲子園ではかつての畑のようなヒーローにはなれなかったが、同時代のライバルたちが凄すぎた。

 小倉に辛勝した後は順調に勝ち進み、決勝で延長の末に惜敗した市立和歌山の四番打者は、後に阪神で首位打者にも輝いた藤田平で、全12球団のスカウトが注目する大会屈指のスラッガーだった。

 その市立和歌山を倒して深紅の優勝旗を持ち帰った岡山東のエースが、大洋で二百勝を達成したカミソリシュートの平松政次、さらに一回戦で姿を消した育英のエースが近鉄で三百勝を挙げた鈴木啓示と後年の名球会のメンバーが三名も揃っていた。

 しかしこれだけの面子の中でも安田は『ベースボールマガジン』誌の座談会の中で、大会の好投手の一人として平松、鈴木と並んで写真入りで紹介されているのだから大したものだ。ただし、投手にしては身体が小さい(172cm)ことでプロでは疑問符を付けられていた。

 本人もさすがにプロは意識していなかったようで、ちゃんと受験勉強に取り組み、一般入試で早稲田の教育学部に合格している。

 早稲田の野球部では二番手に甘んじていたうえ、同期に谷沢健一、荒川堯、小田義人といったプロ注目のスター候補生がいたため、またしても陽の当たる場所とは縁がないまま大昭和製紙に入社し、社会人野球で雌伏の時を過ごした。

 この時期に肩を壊したことで軟投派にモデルチェンジしたが、元々コントロールが良かったので、力で押すより緩急を交えて打者のタイミングをずらす投法に切り替えたことが功を奏し、四十五年の都市対抗で大昭和製紙を優勝に導いた。

 四十六年のドラフト会議でヤクルト・アトムズから6位指名を受けた安田はここでプロ入りを決意する。先輩の畑が事実上のドラフト1位扱いで、ライオンズ寮に入寮した頃からマスコミの取材攻勢を受けていたのとは対照的なスタートだったが、完全に下馬評を覆して見せた。

 シーズン当初はリリーフとして登板し、好投が認められてからは先発に回り、七勝五敗ながら防御率二・〇八はリーグトップで見事新人王に輝いた。

 サイドスローからのストレートは一三〇キロ台と高校球児並みでも、チェンジアップ、シュート、スローカーブのコントロールが絶妙で、かえって速球に慣れているプロの打者は一〇〇キロを切る緩い球との球速差に翻弄された。

 被安打率2割3厘が物語っているように、打者からすると芯でとらえるのが難しいため、このスピードでも本塁打はたったの六本しか打たれていない。

 平成初期に同じく左の軟投派として緩いカーブを武器に一七六勝を挙げたオリックスの星野伸之が、よく拾われたカーブをピンポン玉のようにスタンドに叩き込まれていたのとは好対照である(年間二十から三十本の本塁打を献上していた)。

 星野がカーブとストレートという単純な組み合わせと球速差に活路を見出していたのに比べ、安田は球種も多いうえ、四死球も星野の半分というコントロールの良さで長距離打者のミートポイントを微妙に外す術に長けていたのである。

 安田は手足が短いため、実際の身長以上に小柄に見え、それでいて動作は機敏だったので、マウンド上での所作がペンギンがせわしなく動いているさまに例えられ、ペンギン投法、皇帝ペンギンなどというユニークな呼称で呼ばれるようになった。

 ドラフト6位の安田の活躍は想定外だったが、パ・リーグではドラフト外の投手が新人王を獲得するという珍事が起こっていた。その史上初のドラフト外新人王こそ奇しくも昨年まで同じ大昭和製紙の釜の飯を食っていた西鉄の加藤初である。

 右の本格派速球投手の加藤は弱小西鉄のローテーションを支え、十七勝十六敗と上位チームなら二十勝投手に匹敵する活躍ぶりを見せた。同じ社会人野球チームの左右のエースがプロ入り後に両リーグの新人王というのは、もちろん唯一無二の記録である。

 翌四十八年のシーズンには早大、大昭和製紙と同じ道を歩んできた同級生の小田義人がアトムズに入団してきた。監督の三原脩、新打撃コーチの荒川博、三塁手の荒川堯も早大出身で捕手の大矢明彦も荒川堯の早実時代の同級生とあって、まるで早稲田の同窓会のようなチームになった。

 チームは貧打に泣き、前年度と同じ4位に終わったものの、松岡、安田、浅野の先発三本柱がいずれも防御率十傑入りするという抜群の安定感を示し、チーム防御率は前年の最下位からリーグトップへと大躍進を遂げている。

 エース松岡がキャリアハイの二十一勝を挙げたこともさることながら、先発、救援の一人二役で二年連続リーグ最多登板と活躍した安田は、十勝十二敗、防御率二・〇二で二年連続最優秀防御率のタイトルを獲得した。 

 新人の年から二年連続最優秀防御率というのは、三十一年から三十三年まで三年連続同タイトルに輝いた稲尾(西鉄)以来二人目の快挙だが、以後両リーグを通じて現われておらず、安田のセ・リーグ記録は未だに並ぶ者さえいないままである。

 しかしこの年の安田のハイライトというと八十一イニング連続無四球のプロ野球記録樹立であろう。

 もっとも野球には作戦上の四球も必要であるため、七月十七日の阪神戦から始まったこの記録は、九月九日の阪神戦、同点の九回裏二死二塁の場面で田淵を敬遠したことで途切れてしまったが、本人にとっては不本意だったのだろう、次打者にサヨナラ2ランを浴び、結果から見れば敬遠は裏目になってしまった。

 安田以前の記録七十四イニング連続無四球を続けた二十五年の白木儀一郎(東急)は、記録を意識してかストライクゾーンばかりに投げては打たれ、ナインからひんしゅくを買ったことがあった。三原は安田がそうなることを恐れ、そう簡単には抜かれそうもないところまで記録を伸ばしたのを機に、一旦気持ちをリセットさせたいという思いがあったのではないかと想像する。

 監督が荒川に代わり、早大ОBの広岡達朗がコーチとして入団した四十九年は、チーム名もアトムズからスワローズに戻り心機一転をかけたシーズンとなった。

 右膝半月板損傷の安田が出遅れたぶん、四番手の西井が十一勝六敗、防御率十位と奮闘した他、長距離打者ロジャー・レポーズの加入(同年二十五本塁打)による打線のテコ入れなどのおかげで、新生ヤクルト・スワローズは三十六年の国鉄時代以来の3位に浮上した。 

 安田の防御率は十一位で稲尾の大記録には届かなかったが、チームとしてはさらに上位を狙える陣容が揃ってきたのは大きかった。唯一のネックだった打線もその後、大杉勝男、マニエル、ヒルトンといった強打者が続々と加わったことで、チームバランスが良くなり、五十三年には広岡監督の下、ついにリーグ優勝と日本一を勝ち取ることができた。新生スワローズがスタートして五年目のことだった。

 この間投手陣の台所を支えたのが松岡と安田で、松岡は七十二勝五十八敗、安田が七十一勝五十六敗と全く遜色のない投球を見せている。しかし安田の功績は単なる勝ち星の積み重ね以上に、長らく巨人にカモにされていたチームから苦手意識を払拭させたことにある。

 昭和四十年代後半の巨人の看板は二年連続三冠王に輝き、選手として円熟期にあった王貞治だった。

 その王相手に真っ向勝負を挑み、一二六打数三十二安打十本塁打の2割5分4厘に抑え込んだ安田は、世界のホームラン王にとって最もやっかいな投手だった。

 一般に王のライバルは阪神の江夏と見なされることが多く、事実江夏は王から五十七個もの三振を奪っているが、その一方で江夏も2割8分7厘、二〇本塁打とそれなりに打ち込まれており、数字的な対戦成績は王の方がやや勝っている。

 江夏は派手に三振を奪う半面、時に王のフルスイングの餌食にもなるというスリリングな対戦が見どころだったのに比べると、安田は三振は十個しか奪っていなくとも、王の裏をかいて凡打に打ち取るという詰将棋のような配球の妙に味があった。

  

 キャリアハイの勝ち星を挙げた五十二年は十七勝十六敗、防御率三・七四(リーグ九位)で、偶然ながら元同僚の加藤初の一年目と勝敗の数字は全く同じである(完投数8も同じで、奪三振数、被本塁打数、被安打数までほぼ同数である)。

 優勝の翌年、チームは最下位に沈み、安田もまたチーム状態を象徴するかのような不振に陥ってしまった。

 一時期、軟投のパターンに慣れられたのか、被本塁打が急増しあわやリーグの供給王かという時期もあったが、「安田ほど打者の心理を見抜ける投手はいない」と森昌彦コーチが絶賛したほどの「読み」を生かして、再び被本塁打を激減させ、チームの優勝に貢献していただけに、十五勝からわずか一勝という凋落ぶりは広岡監督にとっての最大の誤算だったに違いない。

 その後も浮上できないまま、左膝の半月板まで損傷した十年目のシーズンを最後にユニフォームを脱いだ。 

 ヤクルトというチームは下位の常連だったためファン層も薄く、優勝するまで安田の名は野球少年たちの間でもそれほど知られてはいなかったが、皮肉にも怪我などで落ち目になった頃、いしいひさいちの漫画「がんばれ、タブチくん」の中でタブチのライバルとして登場したことで一気に知名度が高まったという印象が強い。

 俗にパラシュートボールと呼ばれる山なりのチェンジアップにしても、漫画の中で球が遅いヤスダが苦し紛れに投げる球のような描かれ方をしていたせいか、頭脳派投手も形無しだった。

 それでも、アニメ版の影響力は大きく、対巨人戦以外はスワローズ戦の試合中継など滅多に見られないにもかかわらず、低年齢層まで安田ファンならびにスワローズファンを拡大させ、勝敗とは別の視点からプロ野球を楽しむという新しい観戦スタイルを世に問うきっかけとなったことは確かである。

 実際の安田は所作はユーモラスに見えても、漫画ほどおちゃらけたキャラではなく理知的な野球人だった。長らくヤクルトの一軍コーチも務める一方、情報分析能力に優れていたため、野村克也監督からも「日本一のスコアラー」として重用された。

晩年の安田は母校である小倉高校でコーチをしていたが、知り合いの元小倉高校の投手に聞いたところによると、安田は理論的過ぎて言っていることが理解しずらく、高齢になっても時折野球部に表敬訪問に訪れていた同校のレジェンド投手福島一雄の方がわかりやすかったそうだ。

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