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福岡県出身プロ野球選手列伝   作者: 滝 城太郎


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第14章 不老の青龍  小川 健太郎(1934-1995) 明善高校

私の世代にとって明善高校と言えば、シーナ&ロケッツの鮎川誠の出身校という認識だが、もう二世代くらい前ならジャズピアニスト兼作曲家の中村八大(途中で早稲田に編入)の名を挙げるかもしれない。また戦前派のOBにとっては、世界のジャーナリスト100人に日本からただ一人選ばれた福岡日日新聞社主筆、菊竹六鼓は母校の誇りだったに違いない。しかし昭和四十年代の明善生にとって憧れの存在だったはずの小川健太郎の名は今となっては語られることもない埋もれた過去でしかない。

ちなみに明善高校は昔一度だけ訪れたことがあるが、福岡高校と校門の雰囲気が似ていて、昭和の香りが漂ういい感じの学校だった。

 昭和四十四年十月八日、読売新聞、報知新聞紙上で西鉄ライオンズ永易将之投手の公式戦八百長疑惑が報じられたのをきっかけに、昭和四十六年までにかけて球界と暴力団が絡んだ不祥事が次々と発覚し、巨人、広島を除く十チームの主力級選手十九名に球界永久追放を含む重い処分が下された。これが世に言う黒い霧事件である。

 この事件は、当時のセ・パのエースが永久追放という日本球界の存続をも危うくする大スキャンダルとして球史に大きな汚点を残しているが、永久追放処分となった選手中最大の大物が、パ・リーグの池永正明(西鉄)とセ・リーグの小川健太郎(中日)であった。

 池永が黒い霧事件発覚までの5年間で九八勝、小川は九三勝を挙げており、リーグを代表するエースピッチャーの永久追放は球界の歴史を大きく変えたと言われる。


 福岡県久留米市出身の小川は市内にある県南屈指の名門明善高校に進学した。前身が藩校である明善は財界、芸能界、スポーツ界と多岐に渡って優秀な人材を輩出しており、旧制中学時代に夏の甲子園に二度出場経験がある野球部も県南では強豪校だった。

 ところが小川の在学中は夏の甲子園で連覇を達成した小倉高校が県下では圧倒的に強く、その他にも一歳年上に後に史上初めて新人で日本シリーズ第一戦に先発した大神武俊を擁する博多工業、一歳下には昭和二十八年度セ・リーグ新人王に輝く権藤正利擁する柳川商業など、超高校級が目白押しだったため、とても甲子園どころの話ではなかった。

 高校生投手としては無名に等しかった小川は、昭和二十八年の夏に東映フライヤーズのテストを受け、見事合格。右の本格派投手としてプロの第一歩を踏み出した。

 高校時代はあまりプロを意識していなかった小川がその気になったのは、ノンプロの西鉄からライオンズ入りした三歳年上の明善の先輩大津守が二十七年度には十八勝を挙げ、プロでもエース級になったこととも無関係ではないだろう。

 東映では投球練習、打撃投手、二軍戦登板も含めて連日何百球も投げさせる過酷なスケジュールが祟って肩を壊し、二年目には自由契約となった。同じテスト生あがりで後にエースとなった土橋正幸は、この前時代的な過酷な練習のおかげでスピンコントロールを身に着け、東映の日本シリーズ制覇の立役者の一人となるが、自由契約になった小川は照国海運の軟式野球部に籍を置き、サラリーマン生活を始めることになった。

 それでもプロにはまだ未練があったようで、高橋ユニオンズと大洋ホエールズの入団テストにもトライしている。

 その後の小川は東映OBたちの斡旋で、リッカーミシン、学研、電気化学工業と職場を変えながら軟式、準公式、草野球ともはや趣味か本気かわからないまま野球を続けていたが、三十四年に立正佼成会の準公式チームに招かれたことがジプシー生活を脱却する大きな転機となった。

 立正佼成会野球部は三十六年に日炭高松から後にV9巨人のショートとして活躍する黒江透修らが移籍してきて陣容が整ったところで、硬式チームに再編成された。層が厚くなったチームは、同年の産業別対抗野球大会の地区予選で優勝、本戦では二回戦まで勝ち上がり、エース小川の名は社会人野球の世界では少しは知られた存在になった。

 翌三十七年の都市対抗予選での好投が認められ、東京都代表の日本ビールの補強選手として本戦出場を果たした時はアンダ-スローから切れ味鋭いカーブを投げる好投手としてプロのスカウトからも注目を浴び始めた。

 オーバーワークで肩を痛めたことで自分なりに負担のかからないフォームを試し続けた結果、たどり着いたのがアンダースローだった。試行錯誤の段階でサイドスローでもかなり投げ込んでいたおかげで、プロ入り後も基本的にはアンダースローであっても時折サイドから放ってみたり、オーバースローにしてみたりと打者のタイミングを外す器用さを身に着けていたのは大きかった。

 元々研究熱心で、東映時代でも相手チームのエース級のピッチングの特徴をまめにメモしていた小川のこと、昭和三十年代後半には南海の杉浦、大洋の秋山、稲川といったアンダースローのエースが活躍していたので、彼らから学ぶことも多かったに違いない。

 三人の子持ちのアラサー男に中日が声を掛けたのは、アンダースローの速球派でカーブもよく切れることから、短いイニングなら何とかいけそうだという程度の理由だった。その証拠に東映時代は39だった背番号が59という二軍選手並みのものになっている。


 ところがこの出戻りの中年ルーキーは掘り出し物だった。

 東映時代を振り返って「あのまま投げていれば先発に入れる自信があったのに、運がなかった」という自信家だけに、度胸は一人前で、キャンプではキャッチャーが捕球出来ないようなナックルを連投して周囲を唖然とさせた。

 このナックルは杉下のフォークをヒントに社会人時代にマスターしたもので、一時は「小川は魔球を投げる」と騒がれたほどだが、コントロールが悪く、カウントを不利にするだけ」という理由で、投手コーチの近藤貞雄から投げることを禁じられてしまった。

 そこで小川が磨きをかけたのがシンカーである。大きなバックスイングから繰り出す小川のシンカーは、後年の山田久志(阪急)に匹敵する落差を誇ったが、決定的な違いは、山田のシンカーがストライクゾーンから外角低めに鋭く沈むのに対し、小川のそれは内角高めにホップしてから沈むというさらにえげつないものだった(ただし山田の球速は150km前後と小川をゆうに越え、ストレートだけでも三振が取れた)。

 シンカーをマスターした昭和四十年、五月十二日の大洋戦でプロ初勝利を完投で飾ると、二週間足らずのうちに四勝と荒稼ぎし、シーズン終了までに十七勝をマークした。この年のハイライトは十月二日の産経戦である。2回1死から杉本に打たれたレフト前のテキサスヒット以外は完全に相手打線を封じ込めた小川は、年度のリーグ最多となる十三個の三振を奪い、被安打一の無四球完封勝利という完璧な投球内容だった。

 翌年の五月と六月にもローヒットゲーム(被安打一以下の完投試合)を記録した小川はわずか半年足らずで三度というハイペースだっただけに、近いうちにノーヒットノーラン達成かと思わせたが、残念ながらこの偉業には手が届かなかった。

 チーム勝ち頭の小川の好投に加えて板東英二、山中巽も好調だった中日は前年度の最下位から一気に2位まで急浮上した。

 同郷の柿本に代わって完全にエースの座に就いた四十一年も十七勝を挙げ、チームも2位につけたが、対巨人戦六勝二十敗では勝負にならない。

 四十二年は対巨人戦十四勝十二敗と勝ち越したものの、お得意さんの産経に負け越したのが祟ってまたしてもリーグ2位だった。それでも小川個人にとっては最高のシーズンだったに違いない。

 二九勝十二敗でぶっちぎりの最多勝のタイトルを獲得した他、防御率2.51も第5位と安定感抜群のシーズンだった。

 三十歳を過ぎたアンダースローの投手が本格派剛球投手の証たる沢村賞に輝いたのも、内容が圧倒的だったからだろう。

 勝星2位のバッキー(阪神)との差十一勝はセ・リーグでは二十五年の真田(松竹)の十二勝に次ぐ記録であり、以後もこれほどの大差で最多勝に輝いた例はない。

 小川がこれほど素晴らしい活躍を見せたにもかかわらず、それに次ぐ十四勝の板東以外に二桁勝利を挙げた投手がいなかったため、ONを擁する巨人の独走を許してしまった。

 小川にとって王と長嶋はまさに天敵と言ってもいいほどで、メジャーで打点王に輝いたこともある大洋の主砲ディック・スチュワートをきりきり舞いさせたカーブもシンカーもこの二人にはほとんど通用しなかった。

 切羽詰まった小川は翌シーズン、王に対して三度も背面投げ(バックスロー)を試みている。元々オーバースローで体操選手のような柔軟な身体の小川は、時折打者のタイミングを外すためにオーバースローで投げることもあったが、阪神のエース村山も本来のオーバースローの他にも、サイドスロー、アンダースローで投げることもあったため、そのくらいのことで王の集中力を切らすほどの効果は見込めない。

 なにしろ小川がエースになって三年間、王には五十八打数二十八安打八本塁打と全く歯が立たず、生半可な小細工は通用しない。

 そこで意表をつく背面投げを思いついた小川は捕手の木俣相手に練習を積み、腰の左横から放った球が狙ったゾーンに収まるようになったところで初披露となった。

 六月十五日の巨人戦、三回裏二死で王を2ストライクと追い込んでから見せた背中越しの投球に後楽園球場の観客はどよめいた。

 投球はボールで王は一瞬きょとんとした表情を見せていたが、打席に入った時は修行僧のように何事にも動じない王をほんの少しでも動揺させれば小川の勝ちだった。この打席、王はライトフライに打ち取られている。

 この奇抜な背面投げは球界でも賛否両論の議論が巻き起こり、後に小川の代名詞になるほど有名になったが、三度もやれば消費期限切れで、四十三年のシーズン限定の”見世物”に過ぎなかった。どうせ王に打たれるならダメ元で球場を盛り上げるパフォーマンスを、という遊び心からきたもので、本人もこれをウイニングショットにするつもりなどさらさらなかった。

 小川がこんな遊び球を思いついたのは、足首の捻挫が響いて思い通りのピッチングが出来なかったぶん、ファンサービスの一環のつもりもあったのではないだろうか。小川はこの年十勝(二〇敗)しか挙げられず、チームは最下位に沈んでいる。

 名将水原茂が監督に就任した四十四年は二〇勝と復活。シーズンオフに来日したサンフランシスコ・ジャイアンツとの交流戦(四十五年三月)でも好投し、ジャイアンツが水面下で小川獲得に動いたとも言われている。

 小川の終わりの始まりは、奇しくも苦し紛れの背面投げを見せた四十三年のシーズンからだった。この年西鉄から移籍し、共に先発ローテーションの一角を担った田中勉との出会いが彼の野球人生を黒い霧で覆っていったのである。

 四十四年のシーズン終盤、『週刊ポスト』が報じたプロ野球の八百長疑惑は、球界を震撼させる大事件への発展し、西鉄の選手に八百長を持ち掛けた人物として名指しされた田中勉が十二月に中日を自由契約になった。これはまだ「黒い霧事件」の序章に過ぎなかった。

 野球賭博を仕切ってきたギャンブラーがオートレースの八百長にも関わっていたことが判明すると、ギャンブル狂で知られ、オートレース場にも足繁く出入りしていた小川がくだんのギャンブラーとも交流があったことから、賭博ほう助罪に問われるという事態になってしまったのである。

 小川が八百長に加担していたかどうかはともかく、野球賭博常習者との交際は野球規約に反するため、四十五年のシーズン途中の五月二日に小川には無期限の謹慎処分が下された。

 最終的にはこの一連の事件では、西鉄の永易、益田、池永、東映の森永、中日の小川がコミッショナーから永久追放裁定を受け、選手生命を絶たれた。

 プロ野球から足を洗った後は名古屋で喫茶店を経営していたが、性格的に商売には不向きだったようで二年で閉店するとまたサラリーマン生活に舞い戻っている。

 生涯成績 95勝69敗 2.62

田中勉と小川健太郎がどのような関係だったのかは不明だが、同じ福岡県人で共にギャンブルには目がないとくれば、田中の仲介で違法賭博関係者らと交流があったとしても不思議ではない。池永は復権したのに小川は黒いレッテルを貼られたままなのは、宵越しの金は持たないほどのキャンブル狂だったことは周知の事実で、擁護派の人たちも自信をもって真っ白とは言い切れないところがあったのかもしれない。

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