第13章 小さな魔球王 天保 義夫(1924-1999) 豊国商業
天保義夫は日本人投手がなかなかマスターできないナックルボールで一時代を築いた阪急のエースだった。
村田兆治のマサカリ投法、野茂英雄のトルネード投法のような特徴的なバックスイングからの投球フォームは弱小チームだった阪急の名物的存在だったが、今日の中学、高校の野球部でこんなピッチングをしていたらたちまち矯正されてしまうのがおちだ。では模範的なフォームで天保を超えるナックルを投げる投手がいたかというと、疑問符が付く。元祖フォークボーラーだった杉下茂に次いで落差の大きなフォークを投げたと言われる村田や野茂も変則フォームだが、彼らを超えるフォークボーラーが出ていないのも不思議である。
日本球界最初のナックルボーラーといえば、一般に「七色の変化球」と称された変化球投手、若林忠志(阪神)を指すことが多いが、彼の場合は球種が多すぎて、ナックルはたまに投げる珍しい変化球の一つでしかなかった。
その点天保のナックルは彼の代表的ウイニングショットであり、「ナックルの天保」という呼称をファンの脳裏に刻み付けたという意味において、日本最初のナックルボーラーといえるかもしれない。
天保義夫は大岡虎雄、金山次郎という一流のスラッガーを輩出した豊国商業の出身である。ノンプロを経由した二人の先輩と違って、卒業してすぐに阪急に入団したためプロ入りは最も早い。
入団当初はストレートとカーブ主体の本格派で、1年目(昭和17年)は159回3分の2投げながら被本塁打ゼロというほど球威があった(阪急-オリックスの球団新人記録)。特にカーブは、入団直後のテストピッチングの時に「あんなカーブを(旧制)中学の選手が打てるわけはない」とナインから声が上がったほど落差が大きく、すでに投手としては完成されていた。
17歳でいきなり登板の機会が回ってきたのは、首脳陣も即戦力と太鼓判を押していたからなのだろう。今でいう高卒一年目の新人投手にして8勝7敗、防御率1・69というのは、甲子園出場経験もない全国的には無名の選手にしては上出来の数字である。
2年目には二桁勝利(11勝)、防御率もリーグ8位と安定した成績で、肩を痛めたエース森弘太郎に変わってチームの屋台骨を背負うことになった。しかも同年5月2日の南海戦では19歳0ヶ月の若さでノーヒットノーランまで達成している。
昭和19年には東西対抗(今日のオールスターに相当)にも選ばれたが、勤労奉仕先の工場で製材用の機械に巻き込まれて右手の中指と薬指、左手の人差し指と中指の四本の指先を失ったため、事実上本格派としての投手生命は絶たれてしまった。そこで彼が新たに取り組んだ変化球がナックルだった。
終戦間もない頃は、ナックルのようなマイナーな変化球など教わろうにも教えてくれるコーチもいないため、天保は本を読んで独学でナックルを学んだという。
本来ナックルは、親指と小指はボールに添えるだけで、中の三本で弾くようにして投げる球だが、指先を欠損している天保はボールに指がフィットせずバランスが悪い。それでもこの球種をマスターしなけ
れば、家族を養ってゆくことは出来ないという悲壮な覚悟で練習した結果、ようやくこの難球を操ることが出来るようになった。
昭和28年に全米オールスターチームの一員として来日したホイト・ウィルヘルムはメジャーでもナックルの名手として有名だったが、彼のグリップは親指と人差し指と中指の三本だけでボールを握るタイプのものだったので、理論上はボールを二本の指で弾ければナックルは投げられるということになる。
進駐軍のジープに跳ねられた時の怪我が原因で利き腕の指先を欠損した元巨人のエース近藤貞雄が、四本指で投げるパームボールで復活を遂げたのも大きな励みとなった。
ナックル中心のピッチングを完成した昭和23年には、前年の11勝から19勝へと飛躍的に勝ち星を伸ばした。24年には24勝15敗という自己ベストの成績を残し、阪急の球団創設以来初の2位躍進の立役者となった。
1リーグ時代、天保が最も闘志を燃やしたのが巨人戦で、青田や川上をナックルできりきり舞いさせることに快感を覚えるようになったというほど、軌道の予想がつかない揺れる魔球は効果抜群だった。23年から24年にかけて巨人戦は8連勝しているが、これは1リーグ時代の最高記録である。
天保の投球スタイルは、バックスイングの際に背番号が見えるほど身体をねじってから、いきなりバネ仕掛けの人形のようにオーバースローで投げ下ろすダイナミックなもので、ファンからは「忍者投法」などと呼ばれて人気があった。
だぶだぶのユニフォームを纏った小柄な天保が全身を使って投げるさまは躍動感に満ちており、腕を振り下ろすと同時に帽子が舞い上がる姿も絵になった。
メジャーの代表的ナックルボーラーであるホイト・ウィルヘルムとフィル・ニークロはともに来日経験があり、日本の野球ファンにも馴染みがあるが、二人とも天保ほど力んだ投げ方はしていない。これは二人とも6フィート以上の身長があり、体格がまるで違うため、肩も強かったからだろう。
小柄な天保が二本の指だけで弾くボールをホームベースまで届かせるには、野茂英雄のトルネード投法ではないが、バックスイングで勢いをつけて投げるしか方法がなかったと思われる。
四球や暴投が多かったのはこの変則投法のためである。
阪急きっての人気者でまだ25歳と若い天保のこと、二リーグ分裂に際しては複数球団から誘いがあった。中でも福岡出身ということで西日本パイレーツが最も熱心に働きかけてきたが、阪急は南宝塚の高級住宅地の一軒屋と百万円のボーナスで天保を引き止めた。シブチンと言われた阪急が、現在なら数億は下らない好条件を提示したのは、それほど天保のことを高く買っていたということである。
義理堅い天保はこの厚遇を意気に感じ、生涯阪急一筋に尽くした。
昭和25年には18勝を挙げ、26歳にして早くも100勝ラインを突破したが、3年連続投球回数300イニングス以上という酷使が祟り、その後は下り坂になった。実働14年で131勝は、阪急が弱小チームだっただけに数字以上の価値があるといっていいだろう。
昭和33年に阪急のコーチに就任した後も、62年に退団するまで現役も含めて阪急一筋の野球人生は44年にも及んだ。
生涯成績131勝152敗 通算防御率2・78
ホイト・ウィルヘルムは来日の前年度にメジャーデビューし、防御率、勝率のタイトルを獲得している旬のピッチャーだったにもかかわらず、日本では自慢のナックルが振るわず結構打たれたのは、日本人選手たちが天保のナックルを見慣れていたからとは考えられないだろうか。ウィルヘルム来日の年の天保は規定投球回数にわずかに届かないまでも11勝、防御率2.19と好成績であり、ナックルも調子が良かったのだ。




