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福岡県出身プロ野球選手列伝   作者: 滝 城太郎


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第12章 老朽の荒武者  深見 安博(1919-1972) 報徳商業*出身は福岡で高校から兵庫

前に紹介した権藤とは逆のケースで、福岡生まれの福岡育ちながら高校から地元を離れているため、ご当地選手として語り継がれているとは言い難いものがあるが、深見は福岡県出身者でパ・リーグ本塁打王に最初に輝いた選手である。

 都市対抗に優勝したノンプロの西鉄時代から、プロの西鉄クリッパーズ時代に至るまで四番の重責を担っていた深見が福岡出身であることを知る人は意外と少ない。というのも深見は生まれも育ちも直方市だが、小学校6年から福岡を離れており、報徳商業、中央大学と他県の学校に進学しているからだ。

 しかも、深見は婿養子に入っているため、「深見」という名字は奥さん方のもので、野球選手として著名になってもしばらくの間は、地元の人には「深見安博」ではピンとこなかったようだ。


 深見の旧姓は赤石といい、直方では代々「明石屋」の屋号で旅籠を営む旧家だった。父親の代から金物屋に鞍替えして繁盛していたが、屋号はそのままだったので、幼少時から体が大きかった安博は、「明石屋の金太郎」と呼ばれていた。しかしあまりに腕白ぶりがすぎるので、後には「明石屋の悪坊主」と陰口を叩かれるようになったという。

 上級生には喧嘩を売るわ、先生から気に食わないことを言われれば、「好きで学校に来てるんじゃない」と啖呵を切ってとっとと家に帰ってしまう。行く末を案じた母は、昭和六年の三月に長野県の上諏訪で小学校長をしている親戚の家に安博を預けることにした。

 生意気盛りとはいえ、小学校六年で遠方の見知らぬ土地での下宿生活は相当こたえたようで、素行が良くなったばかりか、校長から直々に個人指導を受けていたおかげで、たちまち成績もトップクラスになった。

 野球を始めたのはこの頃からで、直方時代は相撲大会やリレー選手として活躍していた。成績が良かったので中学(旧制)は松本商業を勧められていたが、もう長野はこりごりというわけで、神戸在住の父方の叔父に渡りをつけて報徳商業(現・報徳学園)に進学した。そのため深見の本籍地は兵庫県神戸市となっているのだ。

 創部2年目の野球部は弱小チームだったおかげで、1年でレギュラー三塁手となり3年からは肩の良さを見込まれて投手に抜擢された。173cm80kgという恵まれた身体を活かし、兵庫県下では指折りの速球投手となったが、チームが弱く甲子園には手が届かなかった。

 そのため、野球はこれくらいにして、卒業後は実社会に出ようと思っていたところ、野球部長をしていた担任から勧められて中央大学を受験し、昭和13年の入学と同時に野球部に入部した。


 中学時代は無名だったにもかかわらず、新入生で只一人だけ春のリーグ戦からベンチ入りした深見は秋の優勝にも貢献した。ところが練習を張り切りすぎて肩を痛めてしまい、そこからの三シーズンは苦渋の連続だった。

 速球投手としての看板は下ろし、ファイト溢れる強打者として世間に知られるようになったのは昭和17年に主将に任命されてからのことである。

 大学最後のリーグ戦(17年春)を優勝で飾り、東都大学リーグ最優秀選手になった深見は、後にライバルとなる六大学の首位打者別当薫とともに毎日新聞東京本社で表彰を受けている。


 戦火が厳しい中、9月で大学を繰り上げ卒業となった後、久々に郷里に帰省した深見は、太刀洗飛行学校に入校する。1年数ヶ月後には巨人の青田昇も同校に入校してくるが、そこに至るまでには特別幹部候補生試験と適正審査にもパスしなければならず、いくら戦時下とはいえ、知力・体力の両方が要求されるパイロットだけは平時と同様に狭き門であった。

 特別幹部候補生合格者のうち航空隊希望者は甘木生徒隊で基礎訓練を受け、そのうちの1割だけが飛行学校への入学が許可されるが、ようやくパイロットになっても、深見や青田のように戦闘隊に配属されるのは、卒業生の1割だけで、その他は特攻要員だった。つまり、戦闘機乗りになる方が一流大学に進学するよりもはるかに難易度が高かったということだ。

 深見は東大と司法試験の合格率を競っていた頃の中央大学法学部を卒業しており、将来は新聞記者として生計を立ててゆこうと思っていたほどのインテリでもあったからこそ、この難関を潜り抜けて戦闘機「隼」のパイロットになれたのだ。

 東南アジア戦線に投入された後の比島沖海戦では敵機を撃墜しているように、パイロットとしても優秀だった深見は、この激戦区でも生き延びることが出来た。

 対照的なのが、名古屋軍のエースだった石丸進一(佐賀商業出身)である。石丸は筑波航空隊で特攻要員に指名され、特攻で散華した唯一のプロ野球人となっている。

 終戦後はサイゴンでの捕虜生活を経て、昭和21年5月に内地に帰還した。後に同じ釜の飯を食う三原脩とは捕虜生活中の慰安を兼ねた野球大会で知り合っている。


 福岡に戻ると、ノンプロチームを結成したばかりの西日本鉄道に入社し、車掌、改札、貨物係などを務めるかたわら、助監督待遇で再び野球に没頭することになった。なお、西鉄入社直前に結婚し、赤石姓から深見姓に変わったため、昭和23年度都市対抗優勝時の四番三塁手は「深見安博」となっている。

 この優勝によってオールニッポンチームの三塁手に選ばれた深見は、大陽ロビンスから熱心に勧誘されていたが、まだ野球で食べてゆく自信がなかったため断り続けていた。ようやく重い腰を上げたのは、西鉄がプロチームを結成するに当たって西球団社長から強く推されたことによるもので、すでに31歳になっていた。

 昭和25年、新生西鉄クリッパーズの四番三塁手としてプロの舞台に立ったオールドルーキーは、2割7分9厘、22本塁打、77打点と新人打者としては優勝チーム毎日の四番を打った戸倉勝城(2割6分3厘、21本塁打、96打点)と遜色のない打棒を披露した。

 毎日の荒巻淳(大分商業-別府星野組)が26勝8敗という驚異的な成績を残さなければ、新人王に選ばれていてもおかしくない活躍ぶりだった。

 翌年、西日本パイレーツと合併して西鉄ライオンズになると、選手層が厚くなったこともあって深見の出番が減ってきた。しかも新監督の三原脩は若手中心のチームに編成し直そうとしていたため、鈍足で守備範囲も狭い深見は構想から外されていたのだ。

 昭和27年に中西太が入団し、三塁に定着すると深見の居場所はますます無くなった。かくしてペナントレースが始まって間もなく、東急フライヤーズにトレードされることになった。


 この年は、球界のスーパースター大下弘の退団問題が連日マスコミを賑わせており、西鉄も大下獲得に意欲を示していた。

 超大物だけにトレード要員は主力級二人との1対2というのが東急側の要求だったため、西鉄は緒方と関口で交渉に当たったが、東急井野川監督は関口ではなく深見を希望してきた。球団社長の西はノンプロ時代から西鉄の中心だった深見を気に入っており手放したくはなかったが、ライオンズの将来のためと深見を諭したことでようやくトレードが成立した。

 深見にとっては、神経質な三原より長い目で結果を見てくれる井野川の方がやりやすかった。井野川は全試合スタメンで起用することを約束し、「三打席三振でも四打席目にホームランを打ってくれさえすればいい」というおおらかなスタンスで構えてくれたからだ。

 これを意気に感じた深見は、目標とする本塁打数を前年の本塁打王大下の26本を越える27本に定めると、背番号も西鉄時代の5から27に代えた。

 この大型トレードは結果として東急にとっては儲けものだった。緒方が移籍後に10勝10敗とローテーションを守った一方、深見も23本の本塁打を追加し、見事パ・リーグの本塁打王に輝いたからだ。  

 そもそもトレード当初より、「1対1でも大下君には負けない」と闘志を燃やしていた深見は、移籍の際のごたごたもあって集中力を欠いた大下が3割7厘(7位)、13本塁打、59打点という彼にしては平凡な成績に終わったのに対し、2割9分2厘、25本塁打、81打点と打撃成績では圧倒した。

 深見がトレード前に打った2本の本塁打は同リーグでの記録であるため、東急で打った23本に加算されているが、23本だけでも本塁打数はリーグトップだった。また、このように同シーズンに二球団に籍を置きながら本塁打王となったのは日本プロ野球史上、深見だけである。


 27年7月19日、平和台における西鉄対東急戦は、東急の深見としての初お目見えだったが、移籍後好調の深見が七回表に二塁打を放つと、観客席から「あんまり打つなよ深見」という野次と同時に笑いが起こり、かつての四番打者に暖かい拍手が送られた。

 「九州人は気が荒い」と思い込んでおり、深見が打った時の福岡のファンの反応を気にしていた井野川監督の杞憂は一掃された。翌年5月、試合で福岡を訪れた際にも、本塁打王に輝いた地元のヒーローに対し、行実直方市長をはじめとする地元の後援会から記念品を贈呈するセレモニーが行われているが、いずれも深見がいかに福岡のファンに愛されていたかを物語る心温まるエピソードである。

 

 昭和28年は前半に11本の本塁打を放ち、オールスター初出場を果たしたまではよかったが、後半精彩を欠いて19本塁打に終わると、オフには高橋ユニオンズに放出された。同年にはかつての同僚である武末も西鉄から高橋に放出されており、奇しくも西鉄の都市対抗優勝の投打の主力が再会することとなった。

 その後、南海で一年だけレギュラーを張るも、寄る年波には勝てず昭和32年に38歳で引退した。 


 引退後はノンプロの日炭高松監督を経て、古巣の西鉄、広島でコーチを務めた。西鉄時代の昭和40年には中西監督の休養中に代理監督を務めたこともある。いかつい見てくれと同様に厳しいコーチだったが、礼儀正しさは球界一と言われ、面倒見の良い人情家でもあった。

 日炭高松時代に育てた柿本実(苅田高校出身)と竜憲一(大濠高校出身)は共にプロでエース級の活躍をした。

 生涯成績 ’261 85本塁打 306打点 475安打

筑豊出身だけあってノンプロ時代は荒っぽい男だったが、見かけによらず地震が苦手で、東急時代宿泊先で地震が起きた時、あのコワモテの深見がひざまずいてブルブル震えているのを目撃したチームメイトは地震よりもそちらの方がびっくりしたそうだ。

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