第10話 天下御免の放言居士 柿本 実(1935~) 苅田高校
巨人のON砲には他球団のエースたちもどこか遠慮があった。王、長嶋に闘志を剥き出しにした村山、江夏、星野、平松にしても、同じ野球人として敬意を表していることは言葉尻からも伺えたが、柿本に至っては全くそういうそぶりは見せなかった。「飲まれたら負けや」というのがあったのだろう。ONだろうがビーンボールでびびらせることに躊躇がなかった柿本だからこそ、有力者に忖度してまで球界にしがみつくような気はなかったようだ。
ビッグマウスに能天気なまでのふてぶてしさ。戦前の村松、西沢から戦後の杉下、権藤博に至るまで、中日のエースと言えば寡黙でクールなタイプが多かっただけに、口達者で闘志剥き出しの柿本の存在は異色であった。
京都郡苅田高校では二年生まで二塁手。三年生になって三塁に回り、リリーフ投手を兼任するようになった。本格的に投手をやるようになったのは、高校卒業後、地元の豊岡セメントに就職してからのことだが、ここは軟式のチームであり、柿本にとって野球はあくまでも余技に過ぎなかった。
そんな柿本に転機が訪れた。昭和30年の春、恒例の別府キャンプを張っていた毎日の別当監督のもとに単身乗り込んだ柿本は入団を直談判したのである。もちろん結果は「君は今の会社にいてサラリーマンで平凡に過ごした方がいいと思う」という素っ気ないものだった。
所詮は地方の軟式チームのエースに過ぎない全国的には無名の投手である。周囲は「軟式の投手で身の程を知らぬにもほどがある」と盛んに陰口をたたいたが、そのことがかえって負けん気の強い柿本の闘志に火をつけた。
「こうなったら絶対にプロに入って見せる」その一心で練習に励んだおかげで、社会人四年目にようやく南海の石川スカウトから目をかけてもらえるまでになった。
しかし当時はタフさだけが取り柄のノーコン投手だったので、「いずれは南海に来てもらうつもりだが、もう少し野球を勉強してからの方がいい」という石川スカウトの計らいで、新規に結成された日炭高松(福岡県水巻市)に入り、二年間みっちりと鍛え上げられた。この時の日炭高松の監督が、柿本が人生の師と仰ぐ深見安博である。
西鉄・東急・南海でホームラン打者として鳴らした深見は、非科学的な根性論の持ち主でグラウンドでは鬼のように怖い反面、やたらと面倒見が良く、選手のプライベートな相談にも熱心に耳を傾けてくれることから、チームメイトからは「おやじ」と呼ばれ慕われていた。
深見は神経が図太く肝の据わった柿本の資質を見抜き、かつての自分と同様の気迫溢れるプレイヤーに育て上げた。
昭和33年、都市対抗野球九州予選の準決勝で、名門八幡製鉄を九回2アウトまでパーフェクトに抑える見事なピッチングを披露して大会最優秀選手に選ばれた柿本は、翌年には都市対抗への出場も果たし、念願だった南海のユニフォームを着ることとなった。
調子に乗った柿本はプロ入りにあたって「絶対日本一のピッチャーになってやる」と周囲にうそぶいて
いるが、「ノンプロの二流ピッチャーが・・頭がおかしいんじゃないか」とこれまた散々に酷評されている。
そのうえ、テストピッチングを見た柚木コーチからもこきおろされ、当初の契約金四百万円が大幅に減額されたのだからやってられない。これでやる気を無くしたという柿本は、一軍、二軍を行ったり来たりした挙句、公式戦登板一試合という記録を残しただけで、シーズンオフと同時に荷物をまとめてさっさと九州に帰ってしまった。
仮にもプロ野球選手である以上は、同世代のサラリーマンとは比べ物にならないほどの給料をもらっているのが当たり前である。だからこそ周囲からポンコツの烙印を押されても、プロに執着してトライアウトを受ける選手が多いのだ。
ましてやこの時の柿本はまだ25歳の若さであり、球団から解雇されたわけでもない。いくら入団当初から南海が気に入らないからといって、高給を捨ててまで無断欠勤同然の態で球団寮から出てゆくというのは、相当プライドが高いか無神経かのどちらかであろう。
気色ばんだ球団は、柿本を任意引退選手として処分しようとしたが、恩師の深見が、懇意にしている鶴岡監督にかけあってくれたおかげで自由契約扱いになり、その後、深見が大学の先輩である中日の高田代表に頼み込んで、中日で引き取ってもらうことになった。
一時は野球を諦めていた柿本も、深見の恩に報いるべく中日での再起を誓ったが、キャンプ早々チームメイトから「君はあまり当てにされてないピッチャーなんだ」と蔑まれ、意気消沈。
ところが、合宿に入るや態度を一変させ、俄然やる気になった。その理由が、「合宿所が立派で食事が豪華だったから」というのだから呆れた男である。
「いい食事を出してくれてるのだから、ひと働きせんといかん」と張り切ってはみたものの、昭和36年のシーズンが始まっても柿本には一向に一軍からのお呼びはかからなかった。そんな柿本にピッチングフォームの変更をアドバイスし、飛躍するきっかけを作ってくれたのが、元巨人のエースにして当時二軍コーチを務めていた近藤貞雄である。
昭和57年には中日を優勝に導いた個性派監督として知られる近藤だが、彼の本領はコーチ職にある。近藤はオーバースローの柿本を変則的なサイドスローにすることで、決め球であるスライダーと低めに落ちるシュートの威力を最大限に発揮しようと考えたのだ。
サイドスローに転向して10日程経った頃、一軍からの呼び出しを受けそそくさと上京した柿本を待っていたのは、何と巨人戦の先発指令だった。大舞台への抜擢を意気に感じた柿本は、臆することなく堂々たるピッチングを披露し、七回までスコアボードに0を連ねていった。
この試合、八回からリリーフに立ったエース権藤が後続をピシャリと押さえ、柿本にプロ初勝利が転がり込んだ。勝利投手インタビューではさぞ殊勝なコメントが聞かれるかと思いきや、古巣南海の鶴岡監督を評して「あの人を大監督と世間では言っとるが、僕に言わせれば見る目がないですよ」と言い放ったのである。
ようやくプロで初勝利を挙げたひょっ子の台詞とは思えないが、この強心臓ぶりが、翌37年の大ブレイクに繋がったと言えるかもしれない。
チームの和を重視するタイプの鶴岡には、柿本のようなタイプは扱いづらかったのだろう。その点、個性を伸ばすタイプの三原なら、柿本を御せたかもしれない。性格的にも西鉄向きだっただけに、もし柿本が入団していれば、西鉄の黄金時代はさらに続いたと思われる。
昭和37年の柿本は外角ぎりぎりに決めるスライダーと内角に鋭く落ちるシュートを武器に、リーグトップの40試合に先発するなど大車輪の活躍ぶりだった。
年度の目標に挙げていたオールスターこそ、前半の負け越しが祟って惜しくも叶わなかったが、念願の20勝ラインを突破し、防御率はチームトップの2・06(リーグ7位)をマークしている。
特に目を引くのはコントロールの良さで、与四球(敬遠を除く)は一試合平均一個に過ぎない。ほとんどストレートは投げず、コーナーぎりぎりに投げ分ける変化球主体のピッチングでこの数字は見事というほかないが、身体をくねらせるような変則投法で、これほど安定した制球力を発揮できるのは、特異体質といっていいほどの筋肉の柔らかさにあった。
昭和38年は過労で不振の権藤に代わってエースの座に就き、前年惜しくも逃したオールスターにも選出された。オールスターでは同じベンチに入った金田(国鉄)の前で「カネさん、僕は今年の防御率一位をとってみせますよ」と公言したが、オールスター明けの大洋戦で打球を右手親指に受け、スライダーが投げられなくなってしまった。
球界の天皇に対して大口を叩いておきながらこの体たらくにさすがの柿本もしょげかえっていると、防御率争いのライバルである金田から「これしきの怪我で弱音を吐くやつがあるかい。タイトルなんて簡単に獲れるもんやない。今年はお前のチャンスなんだから、歯を食いしばって頑張るんだ」と叱咤され、もう一度奮起した。
そこでもう一つの持ち球であるシュートの内角攻め中心にピッチングの組み立てを変えてみたところ、これが的中し、最終的には1・70という素晴らしい成績で最優秀防御率のタイトルを勝ち取ったのである。
この時は「金田さんの励ましがなかったら、あの時でダウンしていたと思う」と感謝していた柿本だったが、右指の負傷が長引き、内角攻めに活路を見出したことが、後に金田との確執を生む原因になろうとは神ならぬ身の知る由もなかった。
柿本の武勇伝として欠かせないのが、昭和40年4月12日、後楽園における巨人戦の乱闘騒ぎである。
八回裏、巨人の攻撃で一塁に王を置いて、中日は西尾から柿本にスイッチ。内角に二球続けてボール球のあと、柿本が胸元スレスレのシュートを投げ込むと、転倒して避けた長嶋のバットにボールが当たり、周囲は騒然となる。
頭にきた長嶋は四球目をマウンド目がけて打ち返すピッチャー強襲安打で出塁すると、五番吉田勝のバントで王が三塁に封殺される間に二塁に進んだ。そして六番の森が打席に立ったところで事件は起こった。
森の初球にも内角の際どい球を投げた柿本に対して、長嶋が二塁上から「いいかげんにしろ。危ないぞ!」と怒鳴ると、柿本は気色ばんだ表情を浮かべて長嶋に向かって歩き始めた。
気の強さでは定評のある柿本のこと、「長嶋がやられる」咄嗟にそう判断した金田と柳田(利夫)はベンチを飛び出すといきなり柿本に飛びかかった。あとは両軍ベンチ入り乱れてのお決まりのパターンである。騒動は10分ほどで終了した。退場処分を喰らったのは金田と柳田だけで柿本は一切お咎めなしだった。
現在では「危険球」という規定があり、ビーンボールを投げた投手は審判の判断で退場処分にできるが、そういう規定のない時代に、挑発的行為は取っても一切手出しをしていない柿本にペナルティを課すことは不可能である。
しかも柿本の場合は開幕戦でも金田の背中にデッドボールを見舞っていながら、金田が試合後のTVインタビューでそのことを批難すると、翌日、「狙って投げたなどど誤解を招くような言い方をしないでほしい」と金田に対して直々に抗議しているのだ。温厚な長嶋が柿本に苦言を呈したのは、こういう伏線があったからだ。
結局、踊らされたのは巨人の選手の方だった。金田に蹴りを見舞われ、二人がかりで羽交い絞めにされた柿本は被害者面を装って首筋が痛くて投げられないとだだをこねていたにもかかわらず、金田と柳田が退場させられるや、どこ吹く風でマウンドに戻り、勝ち投手になっているのだ。
柿本は嫌な打者には故意にぶつけたり、歩かせたりと全て計算づくでやっていた。
選手生活晩年の阪神時代に大洋戦で被安打12、与四死球7という大乱調にもかかわらず完封勝利を挙げた時のこと。ベンチに戻ってくるや、江夏に向かって「これがピッチングや」と大見得を切ったという。
何人ランナーを出そうが、ホームインさえさせなければいいという柿本の野球哲学に、若きエースは学ぶことが多かったそうだ。
ベンチで「ぶつけてくるぞ」と言い放っては、本当にぶつける柿本に当時の打者は身震いしたが、実際は1400イニングス以上(当時の規定投球回数の10年分)投げた投手の中で暴投がゼロというプロ野球唯一の記録を持つほど、コントロールは抜群だった。
相手チームの先発やお立ち台選手の予想が良く的中することから、チームメイトからは「将来は易者になった方がいい」と言われたほど鋭い勝負勘を持っていた柿本だからこそ、直感で打ちそうだと感じた打者とはあえて勝負を避け、別の打者で打ち取るというような芸当が出来たのだろう。まさに図太い頭脳派投手だった。
現役引退後はそのまま阪神に残ってコーチを務め、退団してからはブライダルサロンを経営していた。実家が地元では有名な美容院だったことと関係があるのかもしれないが、ビッグマウスで人気があっただけに、解説者になっていれば、豊田泰光や大沢啓二顔負けの毒舌トークが聞けたかもしれない。
中日時代の活躍は四年程に過ぎないが、柿本以降、中日で二年連続20勝を挙げた投手は出ていない。
生涯成績 83勝71敗 2・55
私の本籍地は大分県中津市新博多町で福岡県まで山国川を挟んで数百メートルしか離れていない。そのため中津市民にとっての遊興地は別府、大分ではなく小倉の方であり、柿本の地元もその途中にある。ところが
福岡県生まれの中津育ちで同じ中日のユニフォームを着た大島康徳(中津工)と比べると、はるかに知名度は低い。大島もいいバッターだったが、瞬間最大風速は柿本の方が上だと思うのだが・・




