第1話 元祖カープのアイドルエース 池田 英俊(1937-2023)福岡高校
私は福岡高校のOBではないが、同校の同窓会の仕事に片足を突っ込んでいたことがあり、創立100周年の行事にも参列させていただいた。福岡高校は地元では「フッコー」と呼ばれ、各界に多くの著名人を輩出している名門校でかつては文武両道を貫いていた。ところが近年は進学校というイメージだけが独り歩きし、文武両道を支えたかつての福高健児たちのことを知るOBすら少なくなった。このノンフィクションエッセイを書き始めたきっかけは、偉大な先人たちの実績を風化させたくないという思いからである。たとえ短くともプロの世界で一時代を築くというのは努力だけでは困難で、突出した才能なくしてありえない。だからこそせめて地元出身の選手のことはなるべく多くの福岡県人に記憶してもらいたいものである。
福岡高校と修猷館高校といえば福岡県内でトップを凌ぎあってきた名門進学校だが、同時期に二人のエースをプロに送り込んでいる。一人は修猷館高校出身の稲川誠(立大-富士鉄室蘭-大洋)であり、もう一人が福岡高校出身の池田英俊である。
高校時代は二人とも甲子園とは縁がない学校だったため、中央では全く無名の存在だったが、東京六大学に進学しその名が全国区になるにつれ、お互いが意識しあうようになったという。
池田が明大に入学した当時は長嶋・杉浦を擁する立大が全盛期にある一方で、明治は東大からも苦汁を舐めさせられるほどの停滞期にあった。その恩恵というべきか、強豪チームに入った稲川が全く出る幕がなかったのに比べ、池田は登板する機会が多かったおかげで、その才能が早々と開花した。
ちなみに中学時代以来ずっと早稲田のユニフォームに憧れていた池田が明治を選んだのは、実兄が明大文学部で教鞭を取っていたことと、明大島岡監督が全国に張り巡らしていたスカウト網に無名の好投手としてその名がピックアップされたことによるもので、もし早稲田に入っていたら控え投手で終わっていた
かもしれない。
昭和32年春のリーグ戦で最下位という屈辱を味わった島岡監督は、秋のリーグ戦から自らの干支である猪のペットマークをユニフォームの肩に付け、新規巻き返しを図った。すると弱かったはずの明大がまさに猪突猛進して勝ちまくり、あわや立大の連覇がストップというところまで追い込んだのである。この時の“明大旋風”の立役者が2年生の池田だった。
31年秋の法明二回戦で神宮デビューを果たした池田は、たちまちノックアウトされ、翌春には高校時代経験のある遊撃手への転向を示唆されていた。ところが春のリーグ戦で明大が惨敗したことで、再び登板するチャンスが舞い込んできた。
32年秋の法明二回戦では、得意とする外角低めのストレートとフォークが冴え渡り1安打完封勝利。打者としても明大の4得点中、3得点を自らのバットで叩き出すワンマンショーで雪辱のヒーローとなった。
翌日の三回戦では先発の岩井の大乱調の後を受け一回からリリーフ登板すると最後まで一人で投げ抜き、四安打(自責点0)でチームの逆転勝利を呼んだ。
この連投によって島岡監督からの全幅の信頼を得た池田は、慶明三回戦にも3安打完封勝利、立明二回戦では2対1で杉浦に投げ勝ち、立大に初黒星をつけるという無敵ぶり。このシーズン7勝1敗(防御率1・67)の大活躍で、神宮の森に一大センセーションを巻き起こした。
中でもシーズンのベストナイン投手にして立大史上最高のエース、杉浦忠と投げ合い、二連勝しているのが光る。長嶋と本屋敷を含め、今日でいうところのドラフト一位候補を三名も擁する立大をきりきり舞いさせたのだから人気が出ないはずはない。
アイドルばりの甘いマスクで女性ファンの間でも人気急上昇の池田は、春のオープン戦でも日本ビールや大丸などとの交流試合に5戦5勝(自責点1)という完璧なピッチングを見せ、杉浦卒業後の六大学ナンバーワン投手と目されるほどになったが、疲労が原因で腰を痛めたため、33年春のリーグ戦では全く期待外れの成績に終わってしまった。
171cmと小柄な池田の生命線は緩急自在のピッチングと「大学生では打てない」とまで評されたフォークボールである。指が短いため三本指で投げる池田のフォークは、変化球といえばカーブかシュートが主体の当時の大学球界にあっては、見慣れない軌道を描く一種の魔球であり、これがあるがゆえに打者としても配球が読みづらかった。
ところが、腰を痛めたことでフォークが投げられなくなり、スローボールやカーブを交えたかわすピッチングに切り替えたことで的が絞られやすくなった。33年秋のシーズンこそ3勝1敗(1完封)防御率1・72(7位)と復活したが、奪三振は激減し、以後はかつてのような華々しい活躍を見せることはなかった。
ラストシーズンを1勝4敗(1完封)防御率1・55(5位)と不本意な成績で終えた池田はノンプロの八幡製鉄に入社する。
八幡製鉄は昭和36年の都市対抗予選で敗退したが、池田は日本鋼管の補強選手に招かれ、同年末に行われた第十回産業別対抗野球で見事優勝。大会最優秀選手に選出された。この時の活躍が認められ、翌37年、当時は「セ・リーグのお荷物」と嘲笑されていた広島カープに入団する。
当初はさほど期待はされていなかったが、4月14日の国鉄戦でプロ初勝利を完封で飾り、ローテーションの一角を占めるようになってからはぐんぐん調子を上げ、例年カープが強い「鯉の季節(5月)」には4連勝をマーク。5月終了時点で5勝3敗(3完封)という成績はセ・リーグの新人投手ではトップだった。
最終的には、序盤に出遅れた本命の城之内(巨人)が夏場に11連勝して新人王に輝いたが、池田もリーグ2位の6完封勝利を含む16勝16敗と大健闘を見せた。
この時の池田の16勝は広島の新人投手としては歴代一位の勝ち星である。また防御率2・44も明治の後輩、野村裕輔が平成24年に1・98で塗り替えるまでは球団新人記録として長らく破られなかった。
プロに入ってからの池田は「打たれそうで打たれない」と称されたひょうひょうとしたピッチングが持ち味で、外角いっぱいに流れるカーブとインコースに落ちるシュートという単純な組み立てながら、コントロールが絶妙で打者の裏をかくのが実に巧かった。
また自身が「好きでやってるんだから、楽しまなくっちゃあ」と言うだけあって、ピンチに動じないマウンド度胸の良さもベテラン顔負けだった。「球界の天皇」金田正一と痺れるような投げ合いを演じ、1対0の完封勝利を収めた6月27日の国鉄戦などはその好例と言えるだろう。
この息詰まる投手戦を征したことで自信をつけたのか、新人ながら金田との直接対決で2勝0敗、国鉄戦は7勝3敗とツバメキラーぶりを発揮した。
池田は麻雀、花札、ポーカーといった勝負事はチームの中でもダントツで強く、そういった勝負勘の良さが体格的なハンディを補って余りあるほどの頭脳的ピッチングに活かされていたのだろう。
翌38年は21勝を挙げ、防御率2・57はリーグ5位という自己最高のシーズンを送ったが、チームが最下位に低迷したためそれほど話題にならず、オールスター戦にも選出されなかったことは不運という他はない。
それでもこの年は西鉄ライオンズがリーグ優勝を果たした他、同郷の柿本(苅田高出身・中日)、稲川(大洋)、池田の三投手が揃って20勝を挙げており、福岡の野球ファンにとってはさぞかし鼻の高い一年になったことだろう。なにしろ、セ・リーグの20勝投手は福岡出身の3人の他には金田しかおらず、同県人同士がエースとして対戦する試合が幾度も見られたばかりか、この3人が揃って優勝した巨人をカモっていたのだから、これで西鉄が日本シリーズまで制覇していたら福岡中がお祭り騒ぎだったに違いない。
39年も15勝を挙げた池田は、デビューから3年連続15勝(球団記録)という安定した成績で、大石清に代わってエースの座に就いたが、広島は相変わらずのBクラスに低迷し、そのピッチングが話題になることはほとんどなかった。
41年はプロ野球史上三人目となる開幕から二試合連続完封勝利をマークするなど序盤から好調で、念願のオールスター出場のチャンスだったが、同じ福岡出身の同級生である竜憲一(福大大濠高出身・同年16勝14敗)に競り負けてしまった。
池田と竜はともにカープが弱かった時代に投手陣の柱としてチームを支え続けたが、37年度のオフに揃って結婚したほか、二人とも引退後もカープに残り、昭和五十年の初優勝に貢献するなど何かと縁があった。
余談になるが、池田が明治大学に入学した昭和31年、学内で最も有名だったのが、福岡高校の先輩だった(当時四年)米倉健司である。米倉はボクシングで同年のメルボルンオリンピック代表となり、プロ入り後は日本ボクシング史上最短で日本チャンピオンの座についた当時のわが国のボクシング界最大のヒーローだった。
池田がプロに入った時は、米倉は東洋バンタム級チャンピオンの座にあり、奇しくも福岡高校出身の明治大学OB二人がスポーツ界で輝いていたのだ。
通算成績 83勝82敗 防御率2・83
この後も続くこのエッセイは15年ほど前に書いたものである。福岡出身選手と旧西鉄軍の歴史についてまとめたものを某雑誌に投稿したところ、旧西鉄軍の部分だけが採用され雑誌に掲載されたため、選手のエピソードはお蔵入りになってしまった。そこでかつてのボツ原稿に加筆訂正してみた次第である。




