#070
レイジがベルンハルトの手から白パンを攫い取った瞬間、背後で空気が爆ぜた。
燃え上がるような闘気――いや、純粋な怒気が世界を満たし、周囲の温度が一瞬で上昇したかのように感じられた。
この感情は知っている。
与えられたものを奪われたときに芽生える、理不尽な怒り。
だが今回は、怒りたいのはむしろレイジの方だった。
反射より速く、レイジの脚部に魔力が纏わりつく。
考える暇もなく、身体が前へと跳ねた。
「貴様ァァァ!!」
背後から叩きつけられる怒号。
振り返る余裕などない。白パンを胸に抱え、レイジはただ無我夢中で走った。
(なんで毎回こうなるんだよ……!)
理不尽に振り回されるのはいつも自分だ。
だがコーダの指示である以上、逆らえば未来が無くなるのは分かっていた。
人混みを押し分け、視界が開ければすぐさま魔瞬脚で距離を稼ぐ。
しかし、追跡者の怒声はまったく遠のかない。むしろ近づいてくる。
(ヤバい……捕まったら本気で斬られる。絶対に)
焦りが喉奥を焼く。
レイジは壁を蹴り、縁を走り、屋台の下へスライディングして人々の足元をすり抜けた。
小柄な体格を最大限に活かし、必死で逃げる。
枯れた川に架かる古い橋を駆け抜けた瞬間、頭上から静かな声が降ってきた。
「レイジ、こっちだ」
咄嗟に立ち止まり、声の主へ顔を向ける。
――そこに立っていたのは捜していた人物、ノインだった。
「ノイン!」
彼のやや大きな手が無言で差し伸べられる。
レイジは迷うことなく跳びつき、その手を掴んだ。
強い力でぐいと引き上げられ、橋の欄干上に身体が乗り上がる。
「走るぞ」
息を整える暇も与えず、ノインが先に駆け出した。
「なんだかお前、いつも追い詰められてんのな」
軽口を叩きながら、彼はひょいと建物の壁をよじ登り始める。
その余裕に、レイジは思わず苦笑いを漏らした。
「なぜか、いつもそういうお鉢が回ってくるみたいで……」
ノインは振り返らず、慣れた動きで屋根へと駆け上がる。
その背を追いながら、レイジも必死に足を動かした。
少し離れた路地裏の石段に腰を下ろすと、レイジとノインはようやく肩で息をついた。
追ってくる気配はない。ベルンハルトの怒号も、もはやどこからも聞こえなかった。
「昨日に引き続き、また助けられちゃったね。ありがとう」
レイジが息を整えながら礼を言うと、ノインはどこか照れたように肩を竦めた。
「困ったときはお互い様だろ? この街で一人じゃ生きていけないからな」
その言葉に、レイジはイリュドの光景を思い出した。
王都の華やかさの裏でも、貧富の差は決して小さくない。
だが、目の前の少年はその環境に押し潰されず、たくましく生きている――レイジはそう感じた。
「そろそろ何かお礼をしないとね……パン、食べる?」
「盗んだパン、いいのか?」
「うん。証拠隠滅」
レイジは手に持った白パンを半分に引き裂き、柔らかな断面をノインへ差し出した。
「俺、白パンって初めてだ」
「そうなんだ?」
ノインはまるで宝物を扱うかのように両手でそれを受け取ると、おそるおそる一口かじった。
「……うまいな。パンってのは高級品さ。俺達みたいな孤児には縁がない食い物だよ」
「俺達……?」
レイジは自分の分を口に運びながら問い返した。小麦の香りが鼻を抜けた。
「言っただろ、この街は一人じゃ生きていけないって。だから孤児同士で集まって、みんなで協力してるんだ」
「協力……そうだ。僕、ノインを探してたんだよ。丁度会えるかなって思ってた」
「おいおい、やめてくれよ? 嫌な予感しかしないぞ」
「何か勘違いしてない? ちょっと人を探していてさ。ノイン、この辺詳しそうだから知らないかなって」
「人探しか。悪いが俺はそんなに顔広くないぞ」
「ええ、そうなの?」
「でも安心しな。仲間に、そういうのを得意なやつがいる」
ノインは口元にわずかな笑みを浮かべた。その表情には、路地裏を根城にする孤児たちのしたたかな強さがにじんでいた。
レイジはその瞬間、彼の周囲に広がる“孤児同士のつながり”が、ただの友人関係以上の生存の仕組みでもあることを、ほんの少しだけ理解した。
「じゃあさ、レイジも俺たちのチームに入れよ! ジャスティスクラブってんだ。かっこいいだろ?」
「ジャスティスクラブ……ダサ、いや、個性的でいいと思うよ」
「今、ダサいって言ったか?」
「言ってない。断じて」
レイジは誤魔化すように視線をそらし、手に残っていた白パンを口へ放り込んだ。
ノインは立ち上がり、お尻についた埃を払うと、胸を張って続けた。
「そうと決まれば、アジトに移動したいんだけどさ。それにしてもお前、すごい剣幕で追われてたな。ありゃ傑作だったぞ」
「理不尽な怒りって怖いよ、ほんとに」
「ああ、間違いない。騎士団は理不尽だ。俺の仲間も、冤罪で捕まったことがある」
軽く吐き捨てるような言い方だったが、その奥には深い怒りと諦めが同居しているように聞こえた。
レイジは、ノインが騎士団に良い印象を持っていない理由を察する。
――自分にも覚えがある。
王都の田舎街に飛ばされたあの日、ソフィーから言いがかりのような尋問を受けた。
あの時コーダを頼っていなければ。と思い返すだけで胸の内がざわつく。
「それは酷いね」
レイジの知る騎士団は強く頼もしい者ばかりだった。
しかし、イリュドで出会ったラオのように、権力を笠に着て弱者を踏みにじる騎士も確かに存在する――その事実を思い知らされる。
「たぶん、もう追ってこないと思うよ。パン一個で地獄まで追いかけてくるほど暇じゃないはずだから」
「はは、言えてる。そういえばお前、家族がいるんだっけ。そっちは大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。今は安全なところにいるから」
「なら安心だな。じゃあ、俺たちのジャスティスクラブにご案内だ」
「言っておくけど、入るかどうかは別として、今は情報が欲しいんだ。いい?」
「レイジなら歓迎だよ。仲間と会ってみて、気に入ったら決めればいい」
レイジも立ち上がる。
路地裏を抜ける風が、少しだけ温かく感じられた。
二人は並んで歩き出し、人々の喧騒が満ちる通りへと戻っていった。
* * *
人気のない小さな公園。
青々とした木々が風に揺れ、その涼やかな葉音が、昼下がりの静けさをさらに深めていた。
「たまにはこうして外で過ごすのも悪くないだろう」
錆びたベンチに並んで腰かけたコーダは、空を見上げるようにしてぽつりと呟いた。
「ええ。訓練院の頃を思い出しますな。あの頃は吾輩もまだ未熟で、コーダ様に随分と生意気な態度をとっておりました」
「そんな昔のことは覚えていないよ」
短く返したあと、コーダは視線を落とし、遠くを見つめるように続けた。
「……少年はうまく情報に辿り着くだろうか」
普段は決して弱音を漏らさない彼女の口からこぼれた、小さな不安。
ベルンハルトは意外に思いながらも、静かに言葉を返した。
「指揮官である貴女様が信じなくてどうするのですか。きっと朗報を持ち帰ります――あの少年は」
レイジが地元の青年と合流したのを確認したあと、ベルンハルトは速やかに撤退していた。
今はもう、レイジの行動だけが状況を動かす唯一の鍵となっている。
コーダが黙って左手を差し出すと、ベルンハルトは慣れた所作でその掌に白パンを一つそっと置いた。
彼女は無言でそれを受け取ると、焼きたての柔らかさを確かめるようにして静かに一口かじった。
「……帰って仮眠をとろう」
パンを飲み込んだあと、ぼそりと呟く。
ベルンハルトは軽く頷き、穏やかな声音で続けた。
「屋敷に置いてきた二人に食事の準備をしてやらねばなりませんな。戻りましょう、コーダ様」
二人は静寂の残る公園をあとにし、ゆるやかに歩き出した。




