08:『日の出って見たことある?』
レイジの手中で暴れる鼠が、鋭い牙を突き立てる。
掌に鈍い痛みが走り、反射的に手を放した。
鼠は素早く身を翻して距離を取りかけるが、その影を追ったミカの一閃が弧を描き、切り裂いた。
「レイジ君、大丈夫? 次第に数が増えてきてる……それに、目で追えないほど速い」
背中越しに声を掛けるミカの表情は険しい。だが、レイジは首をかしげる。
「ミカお姉さんは見えてないの? 僕、目が良いみたい。これくらいなら全部追えるけど」
純粋に思ったことを口にしただけだった。
けれどミカは一瞬、息を呑んだように目を丸くして彼を見た。
「この速度を……信じられない……」
彼女の声には明らかな動揺が滲む。
なるほど、ミカには追えないが、飛び掛かる個体を反射で迎撃している――そういうことか。
ならば攻めには回れない。効率が悪い。レイジは淡々と結論づけた。
心の中に浮かんだのは「ミカは意外に不器用なのかもしれない」という冷静すぎる印象だった。
「僕が目で追いましょうか?」
その方が効率的だろう。ただの提案のつもりだった。
一拍の沈黙の後、ミカは決意したように背を向けて叫ぶ。
「乗って!」
促されるままにひょいと背へ飛び乗る。
月明かりの下、工場跡を縦横に走る影がはっきりと視界に入った。
数は多いが、一つひとつの動きは単純で、むしろわかりやすい。
「次、右から二匹連続で来るよ。そのあと左斜め後ろ。間に合わないなら、僕が弾く」
口をついて出る言葉は自然な指示だった。
状況の最適解を選んでいるだけ――本人はそう思っていた。
だが、その的確すぎる言葉に、ミカは驚きを隠せない。
「……すごい」
それでも彼女は剣士らしく迷わず太刀を振るい、レイジの声に合わせて敵を斬り伏せていった。
その瞬間、ミカの目の前をひと際大きな影が通過する。
普通の鼠とは違う、明らかに素早すぎる個体だった。
彼女の視線が追いつかぬまま、影は背後へ回り込む。
レイジは僅かな遅れもなくそれを察知した。
「ごめん、動きます」
ミカの背にしがみついたまま振り返り、迫りくる影へ右拳を突き出す。
反射で放っただけの一撃。
だが拳は正確に個体の顎を捉え、鈍い衝撃とともに肉の柔らかい感触が手に残った。
ぞわりとした嫌悪感が腕を伝う。
「ミカお姉さん! 後ろのあいつだけ動きが速い――」
警告を投げるが、ミカは目の前の群れを捌くので手一杯だ。
彼女の耳に届いているのかも怪しい。
再び大きな影が動いた。今度は正面から拳が迫る。
人間の動きを真似たような、不気味な打撃だ。
「左! 追いついてないのか……」
歯切れよく言いながら、レイジは再び手で鼠を弾き、自然と次の選択肢を口にした。
「ミカお姉さん、魔圧撃で弾いて距離を取った方がいい」
「無理! 私そんなの使えない!」
叫ぶミカの声に必死さが滲む。
レイジは一瞬だけ目を細めた。
――攻防の最適解を取らないということは、やはり彼女は戦いにおいて不器用なのだろう。
自分なら追えている。何より、もっと効率のいいやり方があるのに。
そのとき、打撃音とともに工場の奥から黒い影が飛んできた。
空気を押し分けるほどの速度で床に叩きつけられ、埃が舞う。
直後、追うようにしてヘルマンが駆け込んでくる。
「こっちにも魔獣が来てたか……」
息を荒げた彼の鎧にはいくつもの裂け目が走り、血がにじんでいた。
奥でも同じ群れと渡り合っていたのだろう――そう推察して、レイジは瞬時に状況を整理した。
ヘルマンがミカへ迫る数匹の鼠をまとめて切り伏せる。
「隊長! 遅いです!」
「すまない――」
言葉の途中で、横合いから鼠の拳が飛ぶ。
ヘルマンが反射的に左腕で受け流し、大剣を振り抜く。
鋼の刃が闇を裂き、獣を吹き飛ばした。
「群れというか、五体以上いますよ。どこからともなく集まってくるし!」
ミカの声は半ば泣き言のようで、まるで父親に甘える子供のようだとレイジには聞こえた。
だが次の瞬間、背後で不気味な音がした。
――ズルリと肉が蠢くような、耳障りな再生の音。
切り伏せられたはずの大鼠が、裂けた肉を繋ぎ合わせ、立ち上がっていた。
「ヘルマン! 後ろ!」
レイジの声に即座に反応し、ヘルマンが振り返りざま大剣を振り下ろす。
だが、目の前でまたもや傷が塞がり、鼠は笑うように牙を剥いた。
前後を塞ぐように、二体の大鼠が迫る。
蹴撃を繰り出す個体、拳を振るう個体――その動きは獣の域を超え、明らかに人間を模していた。
レイジはその異様な光景を、ただ冷静に観察していた。
――やはり、この個体は普通の魔獣とは違う。
ミカの背から静かに飛び降り、前後に立ちはだかる大鼠を見比べる。
斬っても再生する肉体、人間じみた動き。
常識から逸脱した存在に、レイジの思考は自然と答えを探し始めていた。
(頭部の模様みたいなの……半月で左右対称……。同時に倒すパターンなのか?)
目の前の現象と、どこかで目にした知識が脳内で結びついていく。
推測は、理屈とともに形を成していった。
「なんなの、こいつら……」
ミカの声はわずかに震えていた。
彼女にとっては未知の異常、恐怖に違いない。
けれどレイジには、その感情はなかった。ただ効率的な決着を求めていただけだ。
「ヘルマン! 前後の大鼠、頭に似た模様がついてる。二体同時に攻撃したら倒せるかもしれない!」
短い言葉に込められた意図を、ヘルマンはすぐに理解した。視線を交わし、頷く。
「なるほど、同時か。……ミカ、やれるか?」
「うぅ、が、頑張ります……!」
「ヘルマン、魔圧撃打てる?」
問いかけるレイジの声音は落ち着いていた。
もし失敗しても、ヘルマンなら確実にフォローしてくれる。
ならば自分は、最も効率的な一撃を導く役に徹すればいい。
三人は背を合わせ、二匹の大鼠に向き合った。
張り詰めた空気。緊張が極限に達した刹那、二匹が同時に跳びかかる。
レイジは反射的にミカの太刀に手を添えた。大振りに合わせ、自らの魔力を注ぎ込む。
「――魔圧撃!!」
轟音。
ヘルマンの大剣が生み出した衝撃波が鼠の身体を二つに裂き、骨ごと断ち切る。
同時に、ミカの太刀筋から奔流のように放たれたのは、レイジが重ねて込めた魔力だった。
ほんの少し、焦りから余計に込めすぎたのかもしれない。
次の瞬間、鼠だけではなく周囲の鉄骨までもが水平に両断される。
鋼鉄が軋み、きしみを上げて崩れ落ちる。
その衝撃に刀身は耐えられず、粉々に砕け散った。
「……っ!」
ミカの身体から力が抜け、意識が闇に沈む。
崩れ落ちるその姿を見て、レイジは静かに瞬きをした。
――これが、彼女の本当の実力なのか。
いや、まだ自覚していないだけなのだろう。
この戦いが、ミカが真に自分の力を理解するきっかけになるのなら――。
レイジの思考は、不思議と淡々としていた。
ヘルマンが肩で息をしながら振り返る。
その険しい表情に、ほんのわずかな安堵が差した。
一拍遅れて、彼は駆け寄るようにミカの身体を抱き留める。
「……気絶しているのか?」
その問いかけに、レイジは彼女の顔をのぞき込み、呼吸の乱れがないことを確認した。
胸の上下は安定している。ただ疲労と過剰な魔力行使が重なっただけだろう。
「ミカお姉さん、なんか気を失っちゃったみたい」
口にした声は、思った以上に落ち着いていた。自分でも驚くほどに。
「そ、そうか」
ヘルマンの短い返答のあと、彼は腰から閃光弾を取り出し、夜空に向けて撃ち上げた。
鋭い閃光が闇を裂き、数分も経たずに部隊の兵たちが集結してくる。
安全が確保された場所に移され、ミカは静かに横たえられた。
彼女の額にかかる髪を、誰かがそっと払う。
周囲では兵たちが魔獣の処理に追われていたが、そのざわめきさえも遠く感じられた。
「で、レイジは……なんで夜に出歩いたんだ?」
ふいに向けられた問いに、レイジは一瞬言葉を詰まらせる。
言い訳を探すまでもなく、心に浮かんだのは単純な本音だった。
「えっと、一人だと……さ、寂しくて」
吐き出した瞬間、幼い子供のように聞こえてしまったかと、胸の奥がむず痒くなる。
だがヘルマンは眉をひそめることもなく、むしろ優しげにうなずいた。
「そうか。カリナも仕事だったか。……すまないな」
その声色は驚くほど柔らかく、まるで子を見守る父親のようだった。
レイジはその温もりに触れ、胸の奥にわずかな安心を覚える。
戦いの緊張の余韻がまだ抜け切らぬ中、その言葉だけが静かに心に残った。
* * *
魔獣の処理は数時間で終息し、戦場にようやく静けさが戻った。
ヘルマンは部下に後処理を任せ、レイジを現場から少し離れた工場跡へと連れ出す。
荒れ果てた階段を登るとき、後ろを歩く少年の足取りを気にして、無意識に歩幅を合わせていた。
「……俺はな、セイオルっていう王都で生まれ育ったんだ」
沈黙を破るように、ヘルマンはゆっくりと口を開いた。
「王都はこの騎士団の母体の国だ。昔、大きな戦争があってな。セイオルが騎士団を派遣して、この辺りを平和にする体制を整えたんだ」
「王都かあ。そこには人もたくさんいるんだ? 平和だったの?」
レイジの問いかけは素朴だった。
「ここよりはな。……だから俺は大人になるまで平和ボケしてたんだよ」
自嘲気味に吐き出す。
「恥ずかしい話だが、戦いから逃げてたんだ。理由をつけて大学に行ったり、放浪の旅に出たりしてな」
「へぇ。戦闘狂なのかと思ってたよ」
思わずヘルマンは振り返る。少年の目は冗談半分で、しかしどこか真剣さも帯びていた。
「お前の目からはそう見えてんのか? 俺はこんなに優しいのに」
「冗談だよ。優しいし、なによりかっこいいよ。ヘルマンは」
不意打ちのような純粋な言葉に、ヘルマンは頬が緩むのを抑えきれなかった。
苦笑いしつつも、胸の奥に小さな温もりが灯る。
「……で、その旅の途中でな。このイリュド――スラムの人たちと出会った。そこで思ったんだ。『この街を護りたい、自分の手で平和にしたい』ってな」
「んー、ヘルマン一人でどうにかできるとは思えないけど」
「よく現実を見てるな。正解だ。実際、四年頑張ってまだ小隊長止まり。俺には才能がないのかもしれん」
口に出してみれば苦い現実だ。だが、目の前の少年は小さく首を振った。
「そんなことないよ。僕だって、なんの才能もない」
——違う。
ヘルマンは心の中で強く否定する。
先ほどの鉄骨すらも断ち切る魔圧撃。
あれは偶然で済ませていい代物ではない。
放置すれば危険でもあり、同時に、未来を切り開く可能性そのものでもあった。
報告書にはどう書くべきか。思考が巡り、胸に重い責任感がのしかかる。
「きっといつか、”お前にしかできないこと”が見つかる。その時は、お前が主人公なんだ」
そう言いながら、ヘルマンは膝を曲げ、背を差し出した。
驚いたように黙り込むレイジを背負う。重さはまだ子供そのものだが、その内に秘められた力を思うと、妙に頼もしくも感じられる。
工場の窓から遠くを望めば、山の奥から暁光が差し始めていた。
夜明けの光が、薄暗い街並みを優しく照らす。
「……綺麗」
レイジの小さなつぶやきが背中越しに伝わる。
その声音には、飾り気のない本心が滲んでいた。
「さ、帰るか」
「そうだね……僕、眠たいや」
その言葉にヘルマンは微笑を浮かべる。まだ幼さの残る少年を支えながら、彼は再び歩き出した。