#068
レイジが悪寒に身を震わせて目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのはありえない光景だった。
頭上には中庭の池が浮かび、足元には蒼い空が広がっている──その異様な天地の反転で、状況を悟る。
「……油断した」
「よく眠れたか、少年」
落ち着いた声が足元から届く。声の主、コーダはバルコニーに設置された椅子へ優雅に座り、珈琲を口にしていた。
一方のレイジはというと、全身を細いワイヤーで縛られ、バルコニーの外へ吊り下げられていた。
後悔しても遅い。朝日が池の水面に反射し、まぶしいほどの銀色を描いている。
「今日は皇歴五十年から解説してやろう」
主人が帰宅しなかった理由よりも、まず歴史講義を始めようとするその態度に、レイジはさすがに堪えられなかった。腹筋を総動員し、半ば跳ねるように身を捻ってバルコニーへよじ登る。
「頭に血が上るので、先に解いてくださいよ!」
レイジの訴えに応じ、ワイヤーがするすると緩んだ。自由になった体を整えながらコーダを見ると、相変わらず優雅に珈琲(大量の砂糖入りと思われる)を啜っている。
椅子の背に深く腰かけた姿は、まるで大貴族の令嬢そのものだ。
「束縛激しいと嫌われますよ。そういうのはもっと親しい仲の人にしてください!」
「キミ、私が正面から歴史の話をしようとしたら逃げるだろう」
「……に、逃げませんよ?」
「まあいい」
会話こそ普段通りだが、レイジの視線はコーダの異変を見逃さなかった。
頬には治療痕、そしていつもは少しの皺すら許さない制服には、土と血の汚れが薄く残っている。
「昨晩なんで帰ってこなかったんです? みんな待ってましたよ」
「そうか、それは申し訳ない。私は私で忙しくてな。昨晩はイレギュラーで、奴の相手をしていたから」
「奴?」
コーダは一拍置き、静かに告げた。
「わからないか……《幽路》だ」
「《幽路》!? 交戦したんですか!」
「昨晩は大事件というほどではない。街中で男が刺された。その現場を巡回していた騎士が発見し、そのまま交戦になった。だが……数時間で規模は膨らみ、朝方にはほとんど市街戦の様相だった。私も応援に出たが」
彼女の視線はレイジに向けられながら、どこか遠い虚無を見つめているようでもあった。
「もしかして、苦戦したんですか?」
「ああ。あれは化け物じみている」
その一言には、コーダ自身が珍しく本音を覗かせた重さがあった。
「そんなに大変な時でも、ちゃんと帰ってきたんですね」
「キミに王都の歴史を教えておこうと思ってな。皇歴は五十年からが面白い」
(いやがらせに命かけてるな……)
レイジは心の中でだけツッコミを入れたが、コーダは気付いているのかいないのか、ただ静かに珈琲を啜り続けていた。砂糖の甘い香りだけが、朝の冷えた空気に溶けていく。
「王都の歴史はいいですから。それより、実は僕も《幽路》に遭遇したかもしれません」
「なに? この屋敷でか?」
コーダの眉が鋭く寄り、その気配が一瞬で緊張に変わる。
「違いますよ。昨晩、実は王都の市場に出たんです」
「勝手に出ていくな。自分の立場を理解しているのか?」
低く鋭い声音。
言外に含まれた“危険”の匂いに、レイジは思わず心の中で呟く。
(これからよからぬ組織に潜入させられそうな立場のことかな)
皮肉が喉まで出かかったが、飲み込み、続けた。
「ベルンハルトさんからお使いを頼まれたんです。香辛料がないから買ってきてほしいって」
「そんなもの、ないなら塩でも振っておけばいいだろうが」
コーダの言葉はあまりに正論で、レイジは思わず目を伏せた。
あの頑固な料理人が聞いていないのは、幸運と言うほかない。
「すごい剣幕だったもので、断れませんでしたよ。それで街に出たんですけど」
「《幽路》と接触したと?」
「その人が《幽路》かどうかはわからないんです。でも、すごく強かった」
「接触どころか交戦しているのか!?」
コーダが音を立てて立ち上がった。普段は崩れない冷静さが崩れ、鋭い視線がレイジを射抜く。
次の瞬間、両肩を掴まれた。
「で、でも勝ちましたよ」
「馬鹿者……勝ち負けの話ではない!」
叱責の声が、朝の静けさを震わせた。
レイジは肩にかかる手の強さから、コーダが本気で焦っていることをようやく理解する。
「接触した場所へ案内しろ。もっと詳しい情報が必要だ」
「に、人相とかならわかりますけど……」
「それがどういうことか、まだ分かっていないのか?」
「へ?」
コーダは深く息を吐いた。
その表情には疲労だけではなく、“焦り”に似た影が落ちていた。
* * *
レイジとコーダは、朝もやが薄く漂う王都の裏通りへと足を踏み入れた。
昨晩、レイジが交戦した人工河川はまだ日陰に沈み、ひんやりとした湿気が空気を重くしている。
コンクリートに刻まれた斬撃の痕や、水が抉った跡が生々しく残り、誰が見ても“異常事態”であった。
「少年。それで店主はその人物に『エイルフォードの使いが来た』と言ったんだな」
壁に片肩を預けながら、コーダが淡々と問いを投げる。
「あー、そういえばそんなこと言ってましたね。僕が彼に説明した時には、念のため伏せたんですけど」
レイジは川辺に腰を下ろし、足元の砂利をひとつつまむと、軽く水面へ投げた。
パシャ、と跳ねた水音が静かな川に響く。
その音を聞くように、コーダが長いため息を吐いた。
「なんなんですか、そんな深いため息ついて」
「キミの馬鹿さ加減に呆れているところだ」
「ば、馬鹿!?」
「計画そのものが破綻している可能性があるということだ」
「なんで、ですか?」
レイジは勢いで立ち上がった。
状況が読めていない焦りがその表情に滲んでいる。
「これから潜入する組織のメンバーと交戦しておいて、紛れ込めると思うか? それに御三家が関わっているとなれば、政治的にも――騎士団関係者だと素性まで辿られる」
「御三家ってなんです? 昨日の会話でも出てた気がします」
レイジの素朴な質問に、コーダは額に手を当てた。
「キミ、昨日私が話した歴史のまとめを聞いていなかったな?」
「いや、その……眠気が……」
「言い訳をするな。いいか、御三家は王都の政治と深い関わりがある」
コーダは姿勢を正し、淡々と語り始めた。
「約三百年前、大陸の内戦は皇帝の登場によって一気に収束した。同時に王都の政治体制も刷新された。初代皇帝の息子三人が政治的実権を与えられ、御三家として君臨した。そのひとつが我がエイルフォード家だ」
「つまり、コーダさんって……めっちゃ貴族ってことですか?」
「家系的にはそうなる」
「家系的?」
微妙な言い回しに、レイジは眉をひそめた。しかしコーダはそのまま話を続ける。
「詳しくは割愛する。御三家の残りはカスティリーネ家とヴァルト家。それぞれの当主が今も騎士団の中枢で権力を握っている」
「ああ、つまり……御三家の関係者って前提で動いてると、《幽路》に潜入しにくいってことですか」
「しにくい、ではない。もはや不可能だ」
コーダは振り返り、鋭い眼差しを向けた。
「キミが説明からエイルフォード家を伏せたのは賢明だった。だが――そもそも使いに出したことが間違いだったな。後ほどベルには厳しく指導しておこう」
レイジは口を閉じたまま、周囲の破壊跡を見回した。
交戦した青年の姿、あの規格外の水の一撃、自分の無力さ。
そして、これから巻き込まれる“王都の影の戦い”を思い、胸に重いものが落ちる。
事態は、思わしくない方向へ転がり始めていた。




