#067
川辺に鋭く響いたソフィーの高い声に、二人の動きがわずかに止まった。
「ああ! 見つけた! アンタねえ、どんな方法使ったか知らないけど、このソフィー様をこんな汚い川に落とすなんて、どういう神経してんのかしら!」
振り返ったレイジは、思わず目を瞬いた。
突然消えたはずのソフィーが、泥はねの跡こそあるが怪我ひとつなく立っていた。
(……落ちたって言ってたのに。無事で良かったけど)
青年も驚いたように目を細め、小さく呟く。
「……まさかな」
その気の緩み――ほんの一瞬の隙。
レイジは迷わず飛び込み、腹部へ拳を叩き込んだ。青年が身体をよろめかせる。
すり抜けて距離を取り、レイジはソフィーに叫んだ。
「ソフィーさん! 剣、貸してください!」
手刀では威力に限界がある。この状況で必要なのは得物、ただそれだけだった。
「え!? な、なによ急に!」
「いいから、早く!」
レイジの背後から青年が嗤う。
「よそ見は厳禁だよな」
高速の蹴りが迫る。同時にレイジは魔瞬脚で跳ねるように後退し、ソフィーが混乱しつつも放り投げた剣を空中で掴んだ。
着地と同時に刃を構え、息を整える。
「……剣があれば、勝てる」
その言葉は自分自身への宣言だった。
青年が間髪を入れず踏み込んできた。
レイジは切り上げ、突き、振り下ろし――持てるすべての剣技を叩き込む。
もっと速く。もっと深く。
刀身に魔力を流し込むたび、全身が熱く震えた。
「魔圧撃――!」
放たれた瞬間、レイジの意識に“異物”が混ざった。
川の真水とは違う、澄んだ匂い。
波の音――いや、もっと深い。底知れない海の静寂。
暗く、深いのに、不思議と恐怖はなかった。
剣先から解き放たれた斬撃は、薄い水膜を纏い、高圧の奔流となって青年へと直進した。
「……っ!」
青年は見切って身を翻す。しかし背後の壁が抉られ、水しぶきが飛び散った。
「水……」
ソフィーが呆然と呟く。あの剣は本来蛇口程度の水しか出ないはずだと――
それをレイジは、剣速と魔力で束ね、衝撃波に乗せて放ったのだ。
レイジは息を詰めたまま、さらに魔力を練り上げる。
今が好機だと畳みかける。
高速の斬撃を連続で叩き込み、青年の動きを牽制した。
青年は初めて攻撃を止め、回避に徹し始めた。
「一撃食らえばまともじゃないな」
避けている――つまり、当てれば終わる。
レイジは全魔力を、剣に集めた。
「いっけええ!」
刃を振り抜いた瞬間。
剣先から溢れたのは衝撃波ではなかった。
――水。
泉のように吹き出した水は瞬く間に奔流となり、やがて津波へと変貌した。
「……っ!」
青年は避けきれず、水塊に飲まれ、川辺の壁に叩きつけられる。
波が戻り、川底が露わになる。
レイジの手から力が抜け、剣が石の上に落ちた。
身体が震える。酸素が足りない。魔力の消費が大きすぎた。
尻もちをつきながら青年の方へ視線を戻す。
波が引いた先では、青年が全身ずぶ濡れで片膝をついていた。
まだ戦意は消えていない。
張り詰めた糸が、切れずに震えるような空気。
「規格外だな。……少し楽しめた」
青年は静かに立ち上がり、壁を蹴って屋根へと跳躍した。
「妹を大切にしろよ。――また会おう」
短く告げ、そのまま姿を消す。
重たい沈黙のあと、レイジはようやく身体を起こし、ソフィーへ向き直った。
「ソフィーさん、剣を投げてくれてありがとうございます。おかげで助かりました」
礼を言うと、ソフィーは眉をひそめ、肩を抱いた。
「な、なんなの……あの量の水……コワッ。ちょっと引くわ……」
「ええ!? 助かったのに!?」
レイジの抗議が虚しく川辺に響いた。
* * *
エイルフォード別邸一階――中庭に面した広々としたキッチンでは、ベルンハルトが鼻歌まじりに皿へ料理を盛り付けていた。
湯気の立つ大鍋の香辛料の香りが、柔らかな夜風と混ざり合って漂う。
「なんだか今日一日のボリュームがありすぎて……一気に疲れました」
レイジが椅子に腰を下ろした途端、力の抜けた声が漏れた。
王都の街で青年から香辛料を取り返したあと。
レイジは店主のもとへ正直に返却しに向かった。
レイチェルを置いたまま巻き込んだことも謝罪するつもりだった。しかし店主は怒るどころか、盗品を取り返した礼を述べ、割引まで申し出てくれたのだ。
――ただ、その好意に甘えることがどうしても気が引けて、レイジは結局、定価で買い取って帰ってきた。
なお、置き去りにされたレイチェルはさらにへそを曲げたらしく、生活費の一部が菓子と、機嫌取りの髪飾りに姿を変えたことは言うまでもない。
「奔走してくれたようであるな、では今夜のディナーは要らないか?」
盛り付けを終えたベルンハルトが、涼しい顔でそんな冗談を放る。
「なんでそうなるんですか! もうお腹ペコペコですよ!」
レイジはわざとらしく腹をさすり、全身で抗議してみせる。
すると隣のレイチェルも負けじと同じ仕草をし、無言の“お腹すいたアピール”を重ねた。
「冗談だ。貴公のおかげで、今晩も満足のいく仕上がりとなった。まもなくコーダ様も戻られるだろう」
そう言ってベルンハルトは皿をテーブルへと運ぶ。
いつも通りの落ち着いた声音。
この屋敷の夜は、こうして静かに更けていく――はずだった。
しかしその夜、コーダは戻らなかった。
彼女の不在に、食卓にはわずかな緊張が走った。
とはいえ、空腹の限界はそれを待ってはくれない。
結局、日付が変わる前に全員で食事を済ませ、皿が片付くころには夜の気配が深く濃くなっていた。
レイジの多忙だった二日目は、静かな不安を残したまま幕を下ろした。




