#066
褐色の青年は、雑踏の中をゆっくりと歩いて店主へ近づいていった。
その足取りに迷いはなく、赤い瞳の奥には冷たい確信だけが宿っている。
「さっき、妙なやつらがここに来たはずだ」
短く、抑揚の少ない声音だった。しかし店主はその眼光に気圧されたのか、思わず顔をしかめた。
「ああ。たしかエイルフォードの使いだと言うのが二人来たな」
「エイルフォードの? 御三家の名を軽々しく騙るとは……まさか、売ったわけじゃないだろうな」
「まさか! 売るに値しない、みすぼらしい恰好だったから追い払っただけだ」
客は選ぶものだとでも言いたげな店主の言い草に、青年の口元がかすかに緩んだ。
「それはいい。なら話が早い。本物のエイルフォードの使いは俺だ。それを売ってもらおう」
店主は訝しげに青年を品定めするように見上げ下げた。
整えられた服、洗練された所作、年齢に見合わぬ落ち着き――。
確かに「エイルフォードの使い」と言われれば、大半は信じるだろう。
「……わかった。この包みに一式入っている」
店主が小さな包みを取り出した、その瞬間だった。
「感謝する。……おかげで少し楽しめそうだ。《喰》」
空気が爆ぜた。
ほんの一拍のうちに、店主の手の包みは跡形もなく消えていた。
「な、なんだ!? 包みはどこへ……!」
混乱する店主を尻目に、青年は淡々と左足を踏み込み、反対の足を振り抜く。
しなやかな蹴りが店先の商品を薙ぎ払い、皿や瓶が派手に砕け散った。
割れ物の音が通りに響き、人々の視線が一斉に集まる。
騒動の中心で、青年はゆっくりとレイジへ向き直った。
その右手がレイジに向けられ、挑発するように指が軽く曲げられる。
「さあ、少年。俺と……勝負だ」
レイジは息を呑んだ。
交戦すべきなのか――判断に迷う。
しかし相手は公然と盗みを働いた。ここで動けば、どんな結果でも自分に不利にはならない。
ただし――青年の“本気”がどこまでなのか、まるで読めない。
震えるレイチェルの腕をそっと外し、レイジは店前に踏み出した。
「……さっきの坊主か」
ちらりと店主が視界の端に入り、レイジは素早く声をかける。
「すみません、この子を、少しだけ頼みます!」
脚部へ魔力が集中し、瞬間、石畳がかすかに軋んだ。
レイジは魔瞬脚の加速を一気に解放し、青年へ体当たりを仕掛ける。
「ほう、魔瞬脚か」
青年は感心したような声を漏らしながら、ひらりと後方へ身をかわした。
その動きは無駄がなく、レイジの勢いは殺されることなく通り過ぎてしまう。
そしてすれ違いざま――。
「遅い」
鋭い蹴りが背中に叩き込まれた。
レイジの急加速に蹴りの威力が乗り、少年の身体は悲鳴とともに向かいの店へと叩きつけられた。
「ぐ……はっ!」
「まだ未完成だな。動きに粗が多い」
青年は薄く笑いながら、野次馬を押しのけ路地へと向かう。
「俺はこの奥へ逃げるぞ。……早く来い」
レイジが壁を押して体勢を整えている間に、青年は路地を抜けようと進む。
だが、その前に小さな影が立ちはだかった。
「……だめ。行かないで」
両手をいっぱいに広げ、レイチェルが必死に青年を止めようとしていた。
「危ないから、お前は下がれ」
青年の言い方は妙に優しく、レイジは一瞬だけ違和感を覚えた。
だが、その一瞬こそが技を放つ隙となる。
「――魔圧撃!」
レイジは青年の背へ手刀から衝撃波を放った。
鋭い魔力の刃が空気を裂き、青年の体を前方へ大きく吹き飛ばす。
しかし――致命には至らない。手刀では切れ味が足りなかった。
「いいぞ……これは偶然じゃないな。その歳で七式を二つ狙って使うとは」
青年の目に愉悦の光が宿る。
次の瞬間、彼は踵を返し、路地の奥へと走り出した。
「待て!」
レイジも再び魔力を脚に込め、石畳を蹴り飛ばす。
路地へ走り込むレイジの横顔が、レイチェルの不安そうな視線の前を鋭く通り過ぎた。
* * *
路地を駆け抜ける青年は、まるで体重を感じさせない身軽さで障害物を越えていった。
階段を飛び越え、狭い壁を蹴り上がり、屋根の上を短く走ってはまた路地へと身を投げる。人目につかず逃げ道を渡り歩く姿は、街の構造を熟知した獣のようだった。
レイジも遅れまいと後を追うが、肺は焼けるように熱く、足は重い。
それでも屋根から飛び降りた先――そこは浅い人工河川だった。雨水を流すために作られたもので、街中にありがちな細い水路だ。
青年はそこで立ち止まっていた。逃げる気はなかったらしい。
「ここなら誰も来ないだろう」
レイジは肩で息をしながら距離を詰める。緊張と怒りの混ざった声が自然と漏れた。
「……なんで、そんな簡単に盗みなんかするんだよ」
青年の表情には悪びれた様子が一切ない。むしろ、当たり前のことをしたとでも言いたげだ。
「お前たちが困っていたから助けてやったんだ。礼を言われても、詰められる筋合いはないだろう?」
その返答にレイジは言葉を失った。
――感覚が狂っている。常識が、根本から違う。
「やっていいことと悪いことがあるでしょ……!」
叫ぶレイジに、青年は首を傾げる。
「それは誰にとっての話だ? 教えてくれよ」
歩み寄った青年は、川辺の隅に置かれていた小さな包みを拾い上げ、そのまま軽く投げた。
レイジが胸で受け取った包みは、間違いなく店主から消えたものだった。
「……なんで、ここに」
「それをどうするかはお前の好きにしろ。ただ――」
青年の目が鋭く細められる。
「俺はお前の方に興味が湧いた。手合わせしてくれないか」
「これを渡されたら、もう追いかける理由も戦う理由もないよ」
「そうか。理由が必要なら、もっと簡単だ」
青年は、ごく自然な口調で言った。
「今から店に戻り、お前の妹を誘拐して、手に掛ける」
冗談ではない。目がそう語っていた。
レイジの背筋が凍りつく。
「……仲間や家族に手を出させる気はない。ずるいよ、そういうの」
「守るためなら戦うんだな。甘い、王都暮らしは。だから軟弱なんだよ」
次の瞬間、二人の距離が一気に詰まった。
狭い川辺で激しい攻防が展開される。
レイジの魔圧撃が飛び交い、青年は地形を滑るように利用して攻撃をいなし、位置を入れ替える。拳や蹴りに魔力を込めるが、相手は戦い慣れすぎている。
打ち込んだ拳は流され、踏み込んだ一歩は読まれ、発生した隙に急所へ蹴りが突き刺さる。
圧倒的に経験が足りない。
それを思い知らされた。
鋭い軌道の蹴りがレイジのみぞおちを捉え、身体が大きく浮いた。
背中が壁に叩きつけられ、石が砕け散る。
(魔力で……威力を増してる?)
立ち上がる間もなく、青年は距離を詰めて連続の蹴りを浴びせてくる。
動体視力でなんとか追い、一部は避けられる。しかし死角からの攻撃はどうにもならない。
「くそっ……!」
その時だった。
「ああ! 見つけた! アンタねえ、どんな方法使ったか知らないけど、このソフィー様をこんな汚い川に落とすなんて、どういう神経してんのかしら!」
甲高い怒声が川辺に響き、空気が一瞬で壊れた。
内容は緊迫感ゼロ――いや、むしろ逆方向に空気を読んでいない。
だが、レイジにとってはそれが唯一の“勝機”になり得た。




