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#065

 レイジの深いため息が、湿った路地裏に静かに落ちた。

 彼の腕には小柄な少女――レイチェルがしがみつき、まるで命綱でも握るように離れようとしない。


「ごめんって。後でお菓子買ってあげるから」


 どれほど言葉を尽くしても、拗ねた少女の機嫌は動きそうになかった。

 レイジがようやく彼女の存在を思い出し、市場の入口へ慌てて戻ったときには、レイチェルは既に姿を消していた。そして人影の薄い路地裏の隅で、小さく丸まって頭を抱えているのを見つけたのだ。


 誰かが彼女をここまで連れてきたらしい。本人からそう聞いたとき、レイジの背筋を冷たいものが走った。

 怯えた少女を路地裏まで運ぶ者など、善意よりも悪意を想像するほうが自然だ。ほんの少し目を離しただけで、取り返しのつかないことになりかねなかった。

 そう思うと、腕にしがみついて離れない今の状態も、レイジには受け入れるしかなかった。


「さっさとお使いを終わらせて帰ろう。昼間の追いかけっこで疲れてるし、お腹もペコペコだよ」


 ようやく路地裏を抜け、大通りへ戻る。念のため周囲を見渡したが、先ほどの騒ぎを知る者の姿はない。人流に紛れながら進むと、石造りの建物と乾いた布地のテントが並ぶ香辛料店の前に出た。

 刺激の強い香りが鼻を刺し、レイチェルがひくりと小さなくしゃみをする。


「ここだ……」


 店先には、日に焼けた肌の商人風の男が、退屈そうに顎をさすりながら立っていた。レイジと視線が合うと、訝しげに眉を上げる。


「なんだ? 客……には見えないが?」

「いや、客ですよ。“エイルフォード”の使いなんです。御用達の香辛料がありますよね。それを売ってくれませんか?」


 その名を聞いた瞬間、店主の眉間に深い皺が刻まれた。


「そんなみすぼらしい格好の子供が、エイルフォードの使いなわけないだろう。とっとと帰りな」


 みすぼらしい。

 その言葉にレイジは自分の服装へ視線を落とす。

 日中の訓練で泥はねや擦り傷があちこちに残り、確かに“王都の使者”に見える要素はひとつもなかった。イリュドの貧しい少年のようにしか見えないのは、否定できない。


「そう……ですか」


 店主の反応にレイジは身を引き、レイチェルと共にその場を離れると、すぐ近くの路地へ身を隠した。


「いや、話が違う。ベルンハルトさんは簡単に買えるって言ってたけど……よく考えたら香辛料って高いし、子供がお使いで買いに来るもんじゃないよな?」

「どうしたの? 香辛料買えないの? もう帰る?」


 レイチェルが心配そうに覗き込んでくる。

 だがレイジの思考はすでに固まっていた。帰ってしまえば“買えなかった”と報告するだけだ。しかし――


 ベルンハルトのあの険しい表情を思い出す。

 買えなかったと言った瞬間に起こりそうな“未来”が、あまりにも容易く想像できた。


(帰れない……これは、何としても手に入れないと)


 レイジの喉が緊張でごくりと鳴った。

 どう切り抜けるか――思考が袋小路に入りかけたその時。


「あれえ? レーズン君じゃん、こんなところで何してるのお?」


 あまりにも軽く、場違いな声が降ってきた。

 声だけで誰かは分かったが、レイジはできる限りの嫌そうな顔でそちらを向く。


 そこには、頬を赤く染め、千鳥足でふらつきながら近づいてくるソフィーの姿があった。

 表情はにこにこだが、目が完全に据わっている。


「完全に出来上がってる……。ダメだ、この人に頼っても絶対解決しない……でも、一応、騎士だし……何とか、なる……?」

「心の声、全部漏れてるからね!? 酷いなあ、レーズン君は。ちょーっと楽しくハッピータイムなだけじゃんかあ。困ったことがあるなら、お姉さんに言ってごらん?」


 レイジは大きくため息をつき、状況をかいつまんで説明した。

 するとソフィーは、胸を張りながらふらつく足取りで、


「もっと早く言ってよお……そういうのはね、大人のお店なんだからあ……この気品あふれるソフィー様が買ってきてあげるよお」


 と言い、店へと千鳥足で向かっていった。


 嫌な予感しかしない。

 レイジは路地からひょこっと顔を出し、成り行きを見守る。


「えっとお、エイルフォードのお使いなんだけどお、香辛料を、買いに来ましたあ!」


 店主は眉間をしかめ、冷たい目でソフィーを見る。


「そんな酔い潰れた女が、エイルフォードの使いなわけないだろう」


「ダメダッタ」

「ですよね。……どっか行ってください」


 ソフィーはその場で四つん這いになり、地面をばしばし叩きながら目に涙をためた。

 その悔しがり方は、小さな子どもより激しい。


「嫌! どっか行かない! なんかムカついてきたわ……こうなったら、何がなんでも、店のおじさんを認めさせて香辛料買う!」

「いや、いいんで。邪魔なんで帰ってください」

「今、私のこと“邪魔”って言った!? ヒドイ! いいから見てなさい!」


 レイジが止める暇もなく、ソフィーはふらふらと再び店主の前へ。


「またアンタか……」


 店主がうんざりと声をかけるが、ソフィーは止まらない。

 わざとらしく胸元を緩め、腰をくねらせながら近づいていく。


「香辛料……売って?」


 瞬間、バケツ一杯の冷水が頭からぶちまけられ、ソフィーはびしょ濡れのまま固まった。

 そして、泣きながらレイジの元へ帰ってきた。


「だから言ったじゃないですか……。ソフィーさん、セクシー路線じゃないでしょう?」

「うわーん……!」


 レイジはびしょ濡れのソフィーを見つめ、これ以上面倒ごとが増えないよう祈るしかなかった。


「なんだ、まだこんなところにいたのか」


 またも急に声をかけられ、レイジはうんざりとした表情で振り向く。

 そこに立っていたのは、自分より少し年上と思われる青年。

 褐色の肌に白い髪――夜でも輪郭が浮かび上がるほど鮮やかで、赤い瞳は鋭く獲物を捉える獣のようだった。


「えっと、どちら様でしょう?」

「お前は誰だ?」


「いや、声をかけたのはそっちじゃないですか」

「俺が声をかけたのは、その子だ」


 青年の視線は、レイジの腕にしがみついているレイチェルへ向いていた。


「あ……さっきの」


 その小さなつぶやきで、レイジの中の警戒が跳ね上がる。

 この青年――彼こそが、レイチェルを路地裏まで連れてきた人物だと理解したからだ。

 レイジはレイチェルを背に寄せ、青年との距離を測る。


「その子を置いて行ったツレが、お前か。……彼女の面倒くらい、自分で見るんだな」


 棘を含んだ声音に、レイジは顔をしかめる。


「事情があったんですよ。レイチェルは……家族です」

「妹か。なら尚更、目を離すな。この辺りはスラムが近い。窃盗も誘拐も珍しくない」

「誘拐……」


 その言葉に反応し、レイチェルの指がレイジの服をぎゅっとつかむ。

 怯えて当然の状況だった。


「もう窃盗はこりごりですよ。今日だけでお腹いっぱいです」

「わかったら、とっとと帰れ」


「用が済んだら帰りますって」

「用……? 子供が夜の市場で何の用だ?」


 それは、冷静な判断だった。

 ソフィーの酔いどれ状態より、よほど信用できる洞察だ。


 そしてレイジの胸の内に、希望がかすかに灯る。

(もしかしたら、この青年なら……)


 気づけば彼に、成り行きを大まかに説明していた。

 もちろん “エイルフォード” という肝心な部分だけは伏せて。


「なるほど。使いを頼まれたが、店主から相手にされない、と。……気づくのが遅すぎるんじゃないか?」

「う……ぐ」


 反論できない。完全に正論だった。


「悩むほどのことじゃない。俺が盗んできてやる」

「……え?」


 あまりにも自然すぎる口調に、レイジの反応が一瞬遅れる。


「だ、ダメでしょ。盗むって……!」

「盗むのは簡単だ。それを“受け取る”か、“奪い返して店主に恩を売る”か――お前たち次第だな」


 完全に犯罪者の思考だった。

 しかしその声には迷いも躊躇もない。

 まるで、犯罪が彼の日常であるかのように。


「ちょっとちょっと、騎士の前でよくそんな物騒な事言えるわね!? この制服見えないの?」


 ソフィーが怒りを込めて言い返すが、青年は眉ひとつ動かさない。


「馬鹿な騎士団など恐れるに足りない。騎士は、事が起きなければ動かない」


 社会を知りすぎている声音。

 正義よりも現実を見据えた、冷たい目。


 レイジの脳裏に、ある名前が浮かぶ。


 ――《幽路》

 少年少女で構成された犯罪組織。

 今回、レイジが壊滅させねばならない集団。


(まさか……こいつが“幽路”……?)


「アンタねぇ、騎士団をバカにするのも大概に――」


 ソフィーが言いかけた瞬間。


「騎士団はどうでもいいが、お前は少しうるさい」


 褐色の青年が、右手をソフィーへ向けた。

 開いた掌がゆっくり握り込まれる。


「――《(ばく)》」


 空気が弾けた。


 ほんの刹那、視界が揺れ、ソフィーの姿が、煙のように掻き消えた。


「……は!? ソフィーさん!?」

「これで邪魔者はいない」


 青年は赤い瞳を細め、レイジだけを見据える。


「勝負といこうか、藍髪の少年」


 不敵な笑みが、夜の空気を冷たく裂いた。

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