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#064

 少年が地を蹴ったとき、振り返る余裕など一秒もなかった。

 ただ背後に残したレイチェルへ、「動くな」と短く鋭い指示だけを飛ばし、レイジは視線を盗人から外さない。

 あの小袋には、香辛料代だけでなく、彼の全財産が詰まっている。逃がすわけにはいかなかった。


「逃がすかッ!」


 足に力を込めた瞬間、訓練で叩き込まれた“魔力を脚へ纏わせる感覚”が自然と再現される。

 数時間の反復で磨いた筋肉の動きと魔力操作が噛み合い、身体は矢のように前へ出た。


 だが、一歩踏み出したところでレイジは強くブレーキをかけた。


 人が多い。多すぎる。


 魔瞬脚(マナスライド)は脚力と魔力で瞬発的な高速移動を行う応用技。

 つまりは“人をすり抜ける技術”ではない。避けきれなければ衝突し、大惨事にもなる。


 最低でも、アメフト選手のランニングバックのような瞬間判断力が必要だ。

 今の彼には、雑踏を高速で突き抜ける自信はまだなかった。


 その間にも、盗人の背はみるみる小さくなり、人混みへ呑まれていく。

 このまま全てを失うのか――そう考えた瞬間、胸の奥に情けなさが滲む。


「……違う。やり方次第なんだ」


 レイジは地を蹴り直した。

 魔力の量と方向を調整し、跳ねるように壁へ飛びつく。

 そして、反動を利用して身軽に屋根へと駆け上がった。


 屋根の上は、嘘のように障害物がない。

 一直線に、最速で、最短で盗人の進路を捉える道がそこにあった。


 数秒も経たず、レイジは人混みの上から盗人の頭を目視で捉える。

 次の瞬間、影のように飛び降り、その背へ一気に掴みかかった。


「うおっ……!? な、なんだよお前っ!」


 周囲から驚きと軽蔑の入り混じった視線が突き刺さる。

 だがレイジは気にしない。暴れる男を押さえ込み、馬乗りになって小袋を奪い返す。


 袋の重さは変わらない。中身は無事だ。

 胸を撫で下ろす間もなく、男が暴れ、レイジの体勢を揺さぶった。


「っ……!」


 男は中肉中背で、年齢も不詳。

 だが構えは崩れ、動きは雑で、力任せ。

 レイジの目に映ったのは、どう見ても“経験者”ではないということ。


 ただの素人泥棒。それだけだった。


 力任せに暴れるだけの男を見下ろしながら、レイジの胸には一瞬、怒りに似た衝動が湧き上がる。

 奪われかけた全財産、その恐怖と焦りが、ほんの少しだけ“仕返し”の誘惑を生んだのだ。


 だが、すぐに理性が覆いかぶさる。


 周囲の視線が、痛いほど刺さっていた。


 屋根から飛び降り、小柄な少年が男へ馬乗りになって財布を奪う。

 外側から見れば、どう考えてもレイジのほうが“加害者”だ。


 ここで手を上げれば、一瞬で騎士団を呼ばれる。

 そして王都の騎士団に捕まれば、違法入国が露見して……最悪は死罪。


 コーダの冷たい忠告が脳裏に浮かび、レイジはぎゅっと奥歯を噛みしめた。


「サイフは返してもらっ」


 言い終えるより早く、男が喚き立てる。


「おい! サイフを返せ! 子どもが盗んだんだ!」


 レイジは絶句した。

 その口元がマントの影で吊り上がるのを見て、初めて相手の“嘘をつく準備”に気づく。


「いや、何言って……これは僕の――」


 しかし、レイジの弁明より、群衆の反応のほうが数倍早かった。


「騎士団を呼べ!」

「親はどこだ!」

「一人じゃないだろ、仲間がいるんじゃないか?」


 冷たい視線と憶測が雪崩のように襲いかかる。

 状況はみるみるうちにレイジへと不利に傾いていく。


「これは、本当に……僕たちの当面の生活費で……」


 言いながらも、レイジはわかっていた。

 この小袋に入っている額は、子どもが持つには不自然すぎる。


(まずい……どうする……? 何か、打開策は……)


 絶体絶命。

 冷えた汗が背中を流れ落ちる。


 そのとき――


「どいつもこいつも、点でしかものを見られねえのか?」


 乾いた声が、屋根の上から響いた。


「坊主が通りの入口で財布を盗られて、取り返しただけじゃねえか。本当、大人ってやつは“都合よく”しか物事を考えられねぇらしい」


 全員の視線が屋根へ向く。

 そこにいたのは黒髪の若い青年。軒先から身を乗り出し、口の端に不敵な笑みを浮かべていた。


 手には、小さな石礫。


「君は……」


「おい! 雨どい!」


 青年が叫ぶと同時に、石礫を男と野次馬へ向かって投げつける。

 攻撃というより、注意をそらすための牽制だ。


 狙いは的確だった。


 レイジへの視線が一瞬で散った。


 そのわずかな隙を、レイジは逃さない。


 魔力が脚に流れ、地面が一瞬たわむ。

 次の瞬間には、雨どいを蹴って屋根上へと飛び上がっていた。


「へぇ、やるねぇ」


 青年が軽く笑う。

 レイジも息を切らしながら応える。


「……ありがとう。助かった」


「礼はいい。とりあえず――ここから離れるぞ」


 青年は屋根の端を蹴り、まるで壁を登る獣のような軽やかな身のこなしで疾走した。レイジもその後を追い、瓦の揺れを感じながら跳び移っていく。

 地上とは違い、屋根の上を吹き抜ける風は鋭く、足を踏み外せば一気に転落しかねない。それでも二人の動きには迷いがなく、レイジは先を行く青年の姿勢から、この分野における“経験の差”を否応なく感じていた。


 数百メートルほど進んだ先、手すりのついた屋上のような平らなスペースに出る。青年はようやく足を止め、壁際まで歩くと、息を整えるように腰を下ろした。


「ここまで来れば、大丈夫だろう」


 振り返った青年の声は落ち着いていた。

 レイジも胸に溜まった息を吐き出し、少しだけ笑みを浮かべる。


「……改めて、ありがとう。文字通り、絶体絶命だったよ」


 軽く笑ってごまかそうとしたが、青年は逆に眉をひそめ、真剣な目つきになる。


「笑い事じゃねえよ。危うく金を盗られるところだったんだぞ? 自分の身は自分で守るのが基本だろうが」


 叱るような――だが、どこか心配の混ざった声だった。


「でも、助けてくれた。ずっと見てたの?」


 青年が状況を最初から把握していたことは、先ほどのあの一言で分かる。


「市場の入口で、見かけない顔だったから気になってな。そしたら案の定、まんまとハメられやがってよ」


 青年は肩を竦める。相当呆れているようだ。


「なんか僕、そういう引きが強いみたいで。僕はレイジ」


 レイジは気を取り直し、右手を差し出した。


「……ノインだ」


 握手をするかと思いきや、差し出されたのは軽く突き出された拳。

 レイジはそれが“握手の代わり”だと理解し、拳を軽くぶつける。


「ノインは王都に住んでいるの?」


 問いかけると、ノインはわずかに視線を逸らした。


「王都ねえ……セイオル生まれなのは間違いねえ。でも、それだけだ」


 どこか言葉を濁すような、事情を抱えている者の言い回し。

 レイジは深く踏み込むべきではないと判断し、話題を変えようとした――その矢先。


「って、あー!」


 突然レイジが大声を上げ、ノインが肩を跳ねさせる。


「うわっ!? な、なんだよ」

「ごめん、ノイン。僕、家族を待たせたままだ!」


 状況を思い出したレイジは、慌てて手すりに足を掛ける。

 ノインが止める間もなく、そのまま軽々と飛び降りた。


「……またな、レイジ」


 去っていく少年の背へ、ノインは静かに言葉を投げた。

 レイジは振り向かないまま、背中越しに片手を軽く上げて応えた。

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