#063
ベルンハルトによる、もはや講座と言えるのか怪しい魔瞬脚指南もようやく一段落し、気づけば屋敷の外は夜の帳にすっかり覆われていた。
キッチンでは、レイジとレイチェルが夕食の準備を手伝っている。
“シェフ”ベルンハルト監修のもと、二人は皮むきや皿の準備など、できる範囲で手を動かしていた。激しい訓練の余韻がまだ体に残っているものの、キッチンに満ちる香りが少しずつ疲労を紛らわせてくれる。
そんな中──。
「しまった……」
盛り付けに集中していたベルンハルトの低い声に、レイジは顔を上げた。
この男の「しまった」は、大抵ろくでもない。そう悟る程度には、一日を共に過ごしてしまっている。
「どうしたんですか?」
尋ねると、ベルンハルトは青ざめた顔で振り返り、まるで世界の終わりを見たような声で告げた。
「香辛料が足りないのだ……」
「香辛料? スパイスってやつですか。まあ、ないなら仕方ないですよ。塩でも振って──」
言い終わるより早く、ベルンハルトの手がレイジの襟をつかんだ。
「『塩でも振っとけ』だと!? 吾輩の料理はコーダ様への忠誠でもあり、完成された美術品でもあるのだ。香辛料のない料理など、描きかけの絵画と同じ! そんな未完成品をお出しするくらいなら、ない方がまだマシであろうが!」
「いや、大袈裟……!」
レイジの小柄な体はぶんぶんと揺すられ、そのたびに耳がキーンと鳴る。
ようやくベルンハルトが手を離すと、ひとつ咳払いをして落ち着いたふりをした。
「レイジ殿、貴公に最重要任務を命じよう」
「はいはい。香辛料を買いに行けばいいんですよね?」
「おお、察しがよいな」
「『しまった』で察しましたよ」
投げやりに答えながらも、レイジは顔をしかめた。
日中の訓練で体はガタガタなのに、まさかのお使いである。
ベルンハルトは腰の荷袋から小さなポーチを取り出し、中に入っていた紙幣を数枚抜き取ってレイジへ差し出す。
「残りはお駄賃ですか?」
「馬鹿言え。香辛料は高価なのだ。……とはいえ、こちらの都合で使いに出るのだから後ほど礼は渡そう」
「ケチ……」
「何か、言ったか?」
包丁を持ったままにっこり笑うベルンハルトに、レイジは即座に踵を返した。
「レイチェル、お使い行くよ!」
呼ばれたレイチェルは当然のようにレイジの腕にしがみつき、ふたりで中庭へ続く扉を開ける。
「……っと、香辛料ってどこに売ってるんです?」
「この屋敷を出た先に一本道がある。進めば市場へ出られるはずだ。今の時間なら夜市が開いている。専門店は匂いで分かるし、『エイルフォード家の使い』と言えば話は通る。過大請求されぬよう気をつけろ」
(子供が行って大丈夫なのか……?)
不安が頭をよぎるが、ベルンハルトの強いプレッシャーの前では反論する隙もない。
そもそも、香辛料がなければ夕食もお預けである。
夜風が疲労した身体をひやりと撫で、レイジは小さく息を吐いた。
「王都の街か……イリュドとどう違うんだろ」
「楽しみだね」
ふたりの影は並んで中庭を横切り、王都の夜の街へと伸びていく。
* * *
夜だというのに、王都の大通りは昼のように明るかった。
街灯がまるで昼光灯のような白さで照らし、人々の顔の皺や笑みの揺れまでくっきりと浮かび上がらせている。同じ幅の通りでも、イリュドのアークレーンとは人口密度がまるで違った。すれ違うたびに肩が触れそうで、レイジは思わず息をのむ。
「ここが……王都……」
初めて踏み入れる巨大な市街地に、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
なにより、往来する人々の表情が柔らかい。安堵と余裕が色濃くにじむ顔つきは、イリュドでは滅多に見ることのないものだった。イリュドでは、今夜の食事に困る者は珍しくない。
今朝コーダから聞いた王都の歴史が、ふと脳裏をよぎる。
かつて大陸を覆った長い魔力戦争。そこへ突如現れ、戦を終結へと導いた“皇帝”と呼ばれる存在。その者が都を「王都」とし、そこから三百年かけて“電気”や“水道”を広めた──そんな話だ。
復興を担う側であり、供給する側。
それが王都の人々の余裕へ繋がっているのだろうか。レイジには分からない。ただ一つ、確かなことがあった。
(戦争を終わらせた皇帝って……? やっぱり僕と同じ異世界転生者なんだよな)
ぼんやりと浮かんだ推測を、レイジは頭の中で振り払った。
今は歴史の真偽より、”香辛料”の方が死活問題である。
ポケットから小袋を取り出し、中を確認する。
ベルンハルトから預かった香辛料代と、二人分の生活費のすべて。
これを失えば──本当に生きていけなくなる。
そのときだった。
ドン、と正面から強い衝撃が走った。
レイジの視界が揺れる。
「あっ、すみません──」
反射的に謝ったその瞬間、手から小袋がひゅっと消えた。
いや、間違いなく奪われた。
「へ……?」
理解が一歩遅れる。
目の前の人物は、深いマントを目深にかぶった影のような男。その懐へ吸い込まれるように、小袋が消えた。
次の瞬間、影は人混みに紛れるように走り出す。
「あ、あれ……? いや、えっ……?」
混乱より先に、恐怖より先に、現実が追いついた。
「ど、泥棒だあああッ!!」
叫んだ時には、もう足は動いていた。
足先に魔力を込め、全力で地面を蹴る。
香辛料どころか生活費まで奪われたとあれば、追わない理由はどこにもない。
少年の叫びが夜の王都を切り裂き、その小さな影は灯りの海へ飛び込んでいった。




