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#062

 レイジは、目の前の光景を受け止めきれずにいた。

 ついさっきまで魔瞬脚という言葉すら知らなかったレイチェルが、自分が散々苦戦してきた技を、まるで深呼吸をする程度の手軽さでやってのけたからだ。


(未経験のレイチェルができるほど……簡単な技なのか? いや、そんなわけ……)


 否定しようとした思考より早く、膝が勝手に地をつく。苦笑すら浮かばない。


「ちなみに、ちょっと遠くに移動できたりもする?」

「どうだろう」


 レイチェルの足元に淡い魔力が集束し、瞬きひとつの間に彼女の姿が壁際へ飛ぶ。

 そしてそのままふわりと戻ってくる。息は少し上がっていたが、それは成功の証でもあった。


「その……もしコツがあるなら、教えてもらえたり……?」


 自分が“弟子入り”のようなことを言ってしまった事実に気づき、レイジは一瞬だけ目を伏せた。これは限りなく敗北宣言に近い。


「ええと、わかんない」


 レイチェルは頬に手を当てて、少し悩んだ素振りをしてから、無邪気に笑って放り投げる。


(感覚でこなした……? 天才とか、そういう次元なのか……?)


 胸の奥で、見えない何かがひび割れたような音がした。


「なんか難しそうなことやってるわねえ」


 背後から気の抜けた声が降ってきた。振り返ると、ソフィーが眠たげな瞳で近づいてくる。


「ソフィーさん、もう解放されたんですね」

「そうなのよ。あの人、私を囮に使うことに一ミリもためらいがないんだから。まあ、なんとか生き延びたわ」


 肩をすくめるその姿は、まるで散歩帰りのように気軽だ。


「本当に巻き込まれましたけど……よかったんですか?」

「いいのよ。田舎で燻ってるより、必要としてくれる場所にいたいしね。せっかく首都まで来たんだし、午後はおいしいお酒でも買いに行こうかなって」


(……この人、つくづくマイペースだ)


「一応確認なんですけど、ソフィーさんも魔瞬脚って使えたりします?」

「そんな人間離れした技、できるわけないでしょ。言っとくけど、私一般人よ?」

「いや、僕も一般人ですよ」


「その速く移動する技、子供の頃に覚えてたら便利だったのにね」

「なんでです?」


「追いかけっこしてたら、自然と距離の詰め方とか逃げ方とか身につくじゃない?」

「……追いかけっこ、ですか」


 レイジはその言葉を静かに噛みしめた。

 幼少期を知らない自分には、妙に遠く、そして少し眩しく聞こえる言葉だった。


 ──そして午後。


 中庭をひゅう、と風が抜け、屋敷の窓が小刻みに揺れた。

 その音に釣られて、ベルンハルトがキッチンから顔を出す。だが、見える範囲に“音の主”らしい姿はどこにもない。


 しかしすぐに察した。

 視界の端を、光のように走る微かな残像——。単に自分の目がまだ追いついていないだけだ。


「……あの子が先に覚えてしまったか。二人とも才に恵まれているな。幼き日の吾輩たちを思い出す……。しかし、あれでは注意しようにも捕まえられんではないか」


 背後で鍋からぼこぼこと音が上がる。

 ベルンハルトは肩を落としつつも、どこか誇らしげに調理へ戻った。


「ならば、吾輩は腕によりをかけるとしよう」


 その頃、中庭では──


 魔瞬脚で逃げるレイチェルを、レイジが同じ技で追っていた。

 速度を上げすぎれば制御を失い、距離を詰めすぎれば足下で魔力が弾ける。

 その一進一退が、レイジにとっては新しい技を掴み取るための“戦い”に近かった。


(……速い。予想以上にレイチェルが速い。それに、移動ポイントの精度がどんどん上がってる。長距離移動にももう慣れ始めてるのか)


 小柄な背中が、指先で触れられるほどの距離まで近づく。

 伸ばした手があと数センチ届かない——その刹那、レイチェルは一段、軽く跳ねるように加速し、再び距離を広げた。


 そして、少女は突然振り返り、ふっと視界からかき消える。


 次の瞬間——レイジの胸元へと飛び込んできた。


「っ——!」


 勢いを殺さないままの抱きつきは、もはや体当たりに近い。

 レイジは「ぐふっ」と情けない声を漏らし、吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。


「ご、ごめんなさい!」


 慌てて駆け寄ってくるレイチェルの声は震えていた。

 だがレイジは痛みよりも、今の衝撃から走ったひらめきに意識を奪われていた。


「普通より勢いがついてるから……気をつけないと、だね」

「どうしたの?」

「いや……ありがとう。おかげで距離感が掴めてきた気がする。後は近距離の移動だけなんだけど……」


 レイチェルが指先を唇に当て、少しだけ考える。


「ずっと動いてて思ったんだけどね? 近くに飛ぶときは、“えいっ”って感じでジャンプしてる時と同じかも」

「何も意識せずに……ただ跳んでるだけ、ってこと?」


「うん。たぶんそう」

「ジャンプか……なるほど。ありがとう、試してみるよ」


 レイジは魔力を練り、足元へとためる。

 次の瞬間、短距離で踏み込んだ——


 庭の池で水柱が高く立ち上り、ぱしゃぱしゃと波紋が辺りへ広がった。


 * * *


 夕暮れが落ち始めたエイルフォード別邸。

 一階のキッチンでは、ベルンハルトが手際よくディナーの準備を進めていた。

 丁寧に整えられた食材、香り立つスープ、火加減を調整しながら整えていく皿の数々。

 腕によりをかけた仕込みを終え、ようやく一息ついたところで、彼はふと思い出す。


「さて、彼らはどうなったであろうか」


 気になったベルンハルトは、布巾で手を拭きながら中庭へ通じる扉へ向かった。

 扉を開けると、淡い夕陽の差し込むテラスの先で——


 視界を横切る高速の影が、鮮烈に残像を引いた。


 ベルンハルトは瞬時に目を細め、その動きを読み取る。

 レイジが距離を詰めきれずに苦戦していること。

 対して、レイチェルは短距離での踏み込みが異様に速く、制御も安定していること。


「ふむ……レイチェル嬢は短距離の勘がいい。レイジ殿は遠距離の調整に慣れてきたが、詰めが甘いか」


 そう呟くと、彼はシェフコートを無造作に脱ぎ捨て、壁際に立てかけていた愛用の剣を右手に取った。


「さて、実力はいかほどか。レイジ殿——……レイジ殿!」


 呼びかける声は、魔瞬脚で高速の次元を行き来するレイジには届かない。

 ベルンハルトはその動きを一度で見切り、僅かなブレを読み取る。


(ここだな)


 地を軽く蹴り、レイジの進行方向へ滑り込むように割り込む——

 そして、ぴたりと手を伸ばし。


「そこだ!」


 次の瞬間、レイジの首根っこを見事につかみ上げた。


「うわっ! びっくりした!」


 急停止させられたレイジが目を丸くする。

 ベルンハルトは呆れ半分、感心半分で息をついた。


「先ほどから何度も呼んでおったというに。夢中になりすぎですな。そろそろ一日目の成果を見ておこうと思いまして」


 レイジは気まずそうに頬をかいた。


「いやあ……全然まだまだですよ?」

「コーダ様はああ言っておられたが、こちらとて一朝一夕でどうにかなるとは考えていない。これはあくまで“現状把握”ですな」


 ちょうどその時、テラスの端でレイチェルが動きを止め、二人の様子に気づいて駆け寄ってきた。

 心配そうにレイジを見る瞳が揺れる。


「追いかけっこは、一旦おしまいね」


 夕景の風が三人の間を吹き抜け、騒がしかった中庭にもようやく静けさが戻った。


 レイチェルが屋敷へ戻ると、残されたレイジとベルンハルトは向かい合って立つ。

 西日が石畳を赤く染め、キッチンからは夕食の香りがふわりと漂ってきた。

 レイジの腹の虫が、ちょうど良いタイミングで主張を始める。


「……あの、提案があるんです」

「なんであろう?」


 ベルンハルトが顎に手を添えて促すと、レイジは軽く息を整えた。


「僕、ベルンハルトさんの言うように“基礎ができていない”って自覚してます。でも……コーダさんは“時間がない”って言ってました。だったら、基礎より先に“実戦レベルでなんとかなる形”を目指すべきだと思うんです」


「ふむ……。つまり、実戦を想定しろということか?」

「はい。僕の師匠も同じことを言ってました。多分、わざと基礎を飛ばしていたんです。イリュドだと、基礎を固めるより実戦のほうが早いので」


「イリュドに限った話ではないが……よいだろう。吾輩は剣技のみだが、貴公は好きに仕掛けるがよい」


 レイジは木剣を握り直し、深く息を吸う。


「行きますっ!」


 次の瞬間、レイジの姿がふっと掻き消えた。


「魔瞬脚……背後か?」


 ベルンハルトの視線が右から背後へと滑る——

 だが、掴んだのは空気だけ。


 直後、乾いた音が地面に響く。木剣が転がったのだ。


 それと同時に、ベルンハルトの腰にレイジの両腕が回り込む。

 魔瞬脚の勢いと体重を乗せた体当たりが、その巨体の体勢を一瞬で崩した。


「む……?」


 二人はそのまま後方へまとめて倒れ込んだ。


「なんの捻りもない、ただの突進で使うとは……」


 思わず漏れたベルンハルトの声は、呆れよりもむしろ感心に近い。


「どうだ!」


 誇らしげにレイジが胸を張る。


「長距離移動分の魔力を込めて勢いを上げ、体当たりの威力を増しているのか。初手なら確かに不意をつける。しかし——」


 ベルンハルトは身体をひねり、レイジを軽々と振り払う。

 その一秒後には、レイジは地面へ抑え込まれ、喉元へ木剣の切っ先を突きつけられていた。


「そのあとの動きも考えねばならん。実戦を想定するのであれば、動作をひとつひとつ考えるのではなく、“相手の反応も含めた一連の流れ”として組み立てる必要がある。そうしないから、このように隙を突かれるのだ」


 悔しさより先に、レイジは素直に笑った。


「……ありがとう、ベルンハルトさん」


 抑え込む力が緩み、レイジはゆっくりと立ち上がる。


「至近距離の移動はできるようになったのか?」

「できないです。だから、一旦あきらめて……今は“どう使うか”を考えることにしました。そのうち慣れると思います」


「コーダ様が何と言うかはわからんが……それもよいだろう。貴公はまだ、騎士としては半端なのだから」

「だから、僕、騎士じゃないですって!」


 レイジの抗議が夕暮れの空に吸い込まれていった。

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