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#061

 魔瞬脚(マナスライド)の練習を始めて数時間が経った。

 レイジは完全に力が抜け、仰向けになったまま池に浮かんでいた。

 頬を撫でる風が心地よい。鳥のさえずりが遠くで聞こえ、蒼い空にぽつりと浮かぶ雲を、ただぼうっと目で追う。


 水面が揺れ、小さな足音が近づく。レイチェルが池の縁から顔を覗かせた。


「ねえ、レイチェル。この池の魚、三種類いるんだよ」


 いつの間にか、無意味な知識を少女に語り続けていた。

 その声音には、努力が報われないと悟り始めた人特有の、淡い諦観(ていかん)が滲んでいる。


「大変そうだね」


 短い言葉に確かな気遣いが込められている。

 しかし、レイジの胸の内は焦りで満ちていた。


(……時間がない)


 その瞬間、低く落ち着いた声が空気を震わせた。


「調子はどうだ?」


 ベルンハルトだ。

 レイジが上体を起こすと、白いシェフコート姿の彼が腕を組み、隙のない所作で立っていた。もはや騎士というより、一流の料理人にしか見えない。


「池に浸かりすぎて感覚がなくなってきましたよ。でも、面白い発見もありました」

「面白い発見とは、なんだ?」


 レイジは池の縁に手をかけ、ずぶ濡れのまま上がると屋敷の方を指さした。


「手前の移動は全然なんですけど、遠くならある程度は調整できるんです。例えば——」


 足元に淡い魔力の残滓(ざんさい)が散り、次の瞬間、レイジの姿は壁際へ跳んでいた。


「ここまで、狙って移動しました」


 また一瞬で戻ってくる。その軽やかな跳躍に、ベルンハルトは目を丸くした。


「……珍しいタイプであるな。距離が伸びれば消費魔力も増えるが、貴公は短距離ほど難しく感じているのだろう。近距離の調整は、逆に繊細すぎて難度が高い」


 レイジは思わず苦笑した。まさしく今ぶつかっている壁だ。


「だから、一時間くらいずっと距離を縮める練習をしてるんです。気を抜くと吹き飛んじゃって」

「ふむ……一時間のうち半分も反復できていれば上等だろう」


 レイジは首をかしげた。


「半分も休憩してないですよ? ずっと練習してます」

「休むことなく、続けているのか?」

「ベルンハルトさんが中に入ってからは、ほとんど。……疑ってます?」


 ただの事実を述べただけだったが、ベルンハルトはふっと微笑んだ。


「……どうやら魔力総量は十分あるらしいな。吾輩の友人に似たタイプがいる」


 レイジの知らない誰かを想うその横顔は、どこか誇らしげだった。


「その人、今は魔瞬脚(マナスライド)を使えてるんですか?」

「ああ。誰よりも上手く使いこなしている」


「コツとか聞けません?」

「……難しいな。“彼”は多忙ゆえ、吾輩もしばらく会っていない」


 小さな望みが砕け、レイジは肩を落とす。

 しかしすぐに、両頬を軽く叩いた。冷たい手のひらの刺激が、折れた心をもう一度起こしてくれる。


「……自分で掴むしかないか」

「出力のイメージは出来ているのか?」


「なんというか……扉を一瞬だけ開けて、すぐ閉めるイメージです」

「ふむ、概ね合っている。そういえば吾輩の友人は当初、『調整は出来なかった』とも言っていたな」

「えぇ!? 上手に使えるのに?」


 矛盾する情報に、レイジは顔をしかめる。


「その時彼は、『諦めも肝心』と開き直っていた。しかし現に今は、誰よりも繊細な魔力操作をする騎士となった。途中で何か掴んだのだろう。……さて、吾輩はアク取りに戻る。仕込みに時間がかかるのでな」

「……習うより慣れろってことなのかな」


 屋敷へ戻るベルンハルトの背を見送りながらつぶやいたその声には、先程までより強い決意が宿っていた。


「剣の練習より、難しそうだね」


 レイチェルが心配げに覗き込んでくる。


「レイチェルもやってみる? 両手で剣振るよりは楽だと思うよ」


 冗談半分で言ったつもりが、レイチェルはぱっと顔を輝かせ、「やってみる」と小さく跳ねた。

 レイジと一緒に何かできることが、心底嬉しいのだ。


「いいかい? 僕がやってるのは、一瞬だけ魔力を脚から放出して、この線からあの線まで瞬間移動する技なんだ。微調整が——」


 言葉の途中で、レイジの視界からレイチェルの姿が消えた。


 風が揺れる。


 少し離れた地点で、レイチェルが振り返って立っていた。


「レイジ、これすっごく楽しいね」

「……は!?」


 天賦の才という言葉が脳裏をよぎった。


 * * *


 王都郊外に位置する《リトリマ地区》。

 かつては「水脈の都」と称され、澄んだ運河と巨大な時計塔が旅人を惹きつけた観光都市だった。だが原因不明の水源枯渇によって、一帯は十数年で荒廃し、今は倉庫だけが無骨に並ぶスラム地帯となっていた。


 その廃れた港区の一角、使われなくなった倉庫街の陰に、二つの影が身を潜めていた。


「……あの、問題です。なんで私が連れて来られたんでしょう?」

 ソフィーが不満げに囁く。怯えと困惑が入り混じった声は、静まり返った港に妙にはっきり響いた。


「囮だ」

 コーダは一切の迷いを見せずに答える。視線は倉庫の大扉に向けられ、ソフィーなど眼中にない。


「ひどい! 私、まだやり残したことがいっぱいあるのに! 来月、賞与なのに!」

「私は“囮にする”と言っただけだ。“見捨てる”とはまだ言っていない」

「『まだ』!? いつか絶対見捨てる気じゃん! うわーん!」

「静かにしろ。隠密行動が原則だ」


 騒ぎ出すソフィーの口をコーダが冷静に塞ぐ。その強引な仕草に、ソフィーは「むぐっ」と声を詰まらせながらも抵抗できず、コーダは淡々と状況を説明した。


「イリュドの反社会組織《灰月会》が、王都への流通路確保のためこのリトリマに拠点を置いた。この倉庫には、ターゲットの女幹部が出入りしている」

「そ、それって……反社会組織が王都に侵入して来てるってことですか。聞かなかったことに——できないですよね、えへへ」


 明らかに怯えながらも、ソフィーは引きつった笑顔でごまかした。


「私が合図したら出て時間を稼げ。それだけで仕事は終わる。安い仕事だ」

「ほんとに見捨てない……? ショウヨチャン……」


 くだらない呼び方にコーダの眉がわずかに寄ったが、返事をする前に倉庫の扉が重々しい音を立てて開いた。


 暗がりから姿を見せたのは、大きなつばの帽子を深くかぶった女。小柄だが、その手には体格に不似合いなほど大きな鞄——密輸品だ。


「今だ、行け」

 背中を押され、ソフィーは抵抗する余裕もなく通路に転がるように飛び出した。女と目が合う。ほんの瞬きほどの時間。


「これはこれは、騎士団でありんすねぇ。情報が早いことで」


 濁った声音とともに、女は不気味に笑った。


「こ、こうなったら覚悟を決めるしかないわね……! そうよ、私の完璧な調査で、あなたたちの動きは完全に把握しているわ! なんなら、この周辺は私の部下が包囲済み! さあ、神妙にお縄につきなさい!」

「おいそれと承知は……できないでありんすなぁ」


 女幹部が裾から短刀を抜き放つと、大きな帽子を高く投げ上げた。

 ソフィーの視線がつられて上を向いたその“隙”を狙って、女の影が鋭く詰め寄る。


 しかし——甲高い金属音。


 ソフィーの振り上げた剣が、突きの軌道に割り込んでいた。


「おお、偶然構えた剣に当たってラッキー!」

「偶然……?」


 女が眉を寄せる間に、ソフィーは勢い任せの連突きを繰り出す。


「オラオラオラァ!」


 技術は粗いが、とにかく速い。女も素人ではなく、するりと身を翻してかわす。


「ちょこまかと……目ざわりでありんすね」

「ここからが本番なのよ! ——必殺の元素術(エレメントアーツ)、発動!」


 ソフィーが剣を構え直す。

 刃に宿る魔力が、まるで手探りで水脈を求めるように明滅した。


「何!? 元素術(エレメントアーツ)……!?」


 女幹部が一瞬だけ身構える。


「——水禍の祝福(アクア・ベネディクト)!!」


 静寂が落ちた。

 次いで、港辺に「チョロチョロ……」と控えめな水音が響く。


 蛇口レベルの、水。


「ひひ……元素術(エレメントアーツ)と聞いて無駄に構えたでありんす。た、ただの蛇口とは……」

「わかってないわね……これでいいのよ」

「はあ!?」


 女が問い返した、その瞬間だった。


 影が背後に立っていた。


「幹部でありながら油断とはな。敗因は、私の張り巡らせた“糸”に気付かなかったことだ」


 気づけば女幹部は、全身に絡みつく透明な糸に拘束されていた。

 コーダの魔力で強化された糸は、もはや人力では引きちぎれない。


「い、いつの間に……」

「まだ殺しはしない。そのポジションは、有効に使わせてもらう」


 関節の外れる鈍い音が、廃れた港にいくつも響いた。

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