07:『夜の工業地帯って最高のシチュエーション』
二つの影が鉄骨を渡る。
月光を背に受けながら、ヘルマン・クロスは足場の悪い鉄骨の上を迷いなく進んでいた。
鍛え抜かれた身体はわずかな揺れにもぶれず、呼吸も一定のまま。
隣を駆けるミカの気配を常に意識しつつ、眼下の闇へと視線を巡らせる。
工業地帯——昼間は人の往来もあるが、夜となればほとんどの工場は稼働を止め、無数の煙突と鉄骨が墓標のように突き立つばかり。
物陰は多く、獲物が身を潜めるにはうってつけだった。
「捜索範囲が思ったより広いな」
吐き捨てるように呟きながらも、声色に焦りはない。むしろ計算するような静かな響き。
「今夜はまだ目撃情報も出てませんしね」
ミカが魔導式通信機を耳に当て、班員の声を確認する。
しかし雑音混じりのやり取りは、成果のない愚痴や軽口ばかりで、進展は見られなかった。
(……やはり下だな)
ヘルマンは短く判断を下す。
体長四十センチほどの魔獣なら、この高さでは目視が難しい。
鉄骨の上を探し続けるのは時間の浪費だ。
彼は音もなく飛び降りた。
着地と同時に膝をわずかに曲げて衝撃を逃し、すぐに周囲へ目を走らせる。
ひんやりとした空気が足元を撫で、工場独特の油と鉄の匂いが鼻腔に広がった。
「後方注意、ですね」
静かに降り立ったミカが太刀に手を伸ばし、背後の闇へと身構える。
その気配に合わせ、ヘルマンも意識を切り替えた。
夜の工業地帯は、ただの暗がりではない。
どこかで必ず「目」がこちらを窺っている——そんな緊張が肌を刺していた。
気配を探る。闇に耳を澄ませても、やはり魔獣の気配はない。もちろん、人の気配も……。
静寂が支配する工業地帯に、場違いな軽い音が響いた。
金属を蹴ったようなその音に、ミカが即座に反応する。
鋭い動作で抜刀し、身を沈めて構えを取った。
鉄柱の影から、何かがぬっと覗く。
現れたのは牙を剥く獣でも、潜む賊でもなかった。
「レ、レイジくん?」
ミカが信じられないといった声をあげる。
驚きに目を丸くしながらも、太刀を構えた姿勢は崩さないまま一歩踏み出した。
見慣れた少年は気まずそうに姿を現した。
「すみません。ちょっと散歩するつもりが、気が付いたら知らない場所で」
ヘルマンの眉間に皺が寄る。
「お前、こんなことでなにやってる? カリナになんて言って出てきたんだ」
問いかけながらも、心の中では妙な納得があった。——この少年ならあり得る。
考え事に夢中になって周囲を顧みないことは、これまで何度も見てきた。
本人に悪気はなくとも、危うさは消えない。
ヘルマンは小さく息を吐いた。
ここで強く叱りつけても、既にここまで来てしまった事実は変わらない。
ならば保護しておく方が賢明だろう。
「……ミカ、レイジを頼めるか。辺りを見てくる」
そう短く告げると、彼は既に意識を周囲へ向けていた。
闇の奥に潜むかもしれない本来の「敵」から、二人を守るために。
レイジをミカに任せ、ヘルマンはひとり工場跡の奥へ足を進めた。
錆びついた鉄骨が無数に張り巡らされ、わずかな風にも軋みを上げる。
耳を澄ませても、動物の気配は感じられない——それなのに、確実に「何か」が潜んでいる気配だけが肌を刺していた。
その瞬間、背後を何かが素早く通過した。
反射的に振り返り、背から大剣を抜き放つ。
刃が月明かりを反射し、重い金属音が闇に響いた。
「気配がなかったのに、なぜ突然……」
眉をひそめる。
通常ならば魔獣の存在は、微かな魔力の濁流として察知できるはずだ。
だが今のは、まるで虚空から突如現れたかのような違和感があった。
次の瞬間、足元を影のような何かが走り抜ける。
地を這う速度は人の目で追うには速すぎ、すでに十分な加速をつけてこちらへ飛び掛かってきていた。
ヘルマンは剣を横に払った。
鈍い衝撃と共に「それ」は叩き伏せられ、床に転がる。
だが息をつく暇もなく、陰からもう一つ影が跳ねかかる。
さらに、さらに——。
一体倒しても、次の影が現れる。
気づけば彼の周囲は蠢く闇に満たされ、鉄骨の隙間から無数の影が這い出していた。
「こいつは……鼠か」
牙をむいた小さな影の群れを見据え、ヘルマンは低く唸った。
鼠にしては大きく、動きも異常なほど素早い。
大剣では相性が悪い相手だ。屋内空間で振り回すには限界がある。
それでも、退くわけにはいかない。
彼は大振りの一撃で数体をまとめて薙ぎ払い、火花の散る鉄床に血飛沫を飛ばした。
闇の中、ヘルマンの呼吸は一層鋭く研ぎ澄まされていく。
鼠の群れと格闘すること数分。
鋭い牙と爪が四方から飛びかかり、ヘルマンの肩や背中をかすめるたび、防具越しに鋭い痛みが走った。
鉄骨の床はすでに血と毛で汚れ、剣を振るうたびに粘つく感触が足裏に残る。
その最中——群れの中でひと際大きな影が目に入った。
筋肉質に肥大化した体躯、他よりも強靭な足腰。
気づいたときには、その巨体が跳躍し、眼前に蹴りが迫っていた。
咄嗟に大剣を盾のように構える。衝撃が腕を通じて全身に走り、思わず歯を食いしばった。
「……蹴り!? 人間の動きかよ」
信じがたい光景だった。
獣のはずの鼠が、人のような体術で攻撃を仕掛けてくるなどあり得ない。
弾き飛ばした巨鼠は、宙で身をひねり、まるで訓練を受けた武人のように鉄床へ華麗に着地した。
体勢は崩れず、冷たい眼光で再びこちらを狙ってくる。
ヘルマンの胸に、重苦しい直感がよぎる。
——こいつは、ただの魔獣ではない。
先日遭遇した「形状を変える犬型の個体」と同様に常識では計れない異質さを持っている。
背筋に戦慄が走った。
この一戦は、ただの駆除では終わらない。
騎士団が追うべき「異常」の中心が、今まさに眼前にいるのだ。
* * *
月明かりが差し込む薄暗い工場跡で、少年レイジとミカは息を潜めて待機していた。
壁に開いた穴から吹き込む風が、鉄骨の残骸をきしませる。
無機質な音が耳に残り、余計に静けさを際立たせていた。
隣のミカは一見いつも通りだが、その表情は今朝見た柔らかな笑みとは違い、鋭さを帯びている。
凛とした気配に、自然とレイジの視線は彼女の握る太刀へと向いた。
「ミカお姉さんは日本刀を使うんですね。殺陣を習ってたり、居合切りとかが出来るんですか?」
場違いな質問だと頭の片隅で思いながらも、口にせずにはいられなかった。
ミカは一瞬首を傾げ、申し訳なさそうに微笑む。
「ニホントウ? タテ? ごめん、ちょっとわからないかも。今隊長が回りを見てるから、少ししたら安全な場所に避難しようね」
会話の端々に聞き慣れない言葉はある。
それでも彼女の手にある刀や、街で見かけた現代的なライフラインなど、レイジの常識に通じる要素は確かに存在していた。
――やはり、この世界は自分のいた世界と地続きなのではないか。
そんな仮説が、胸の奥でかすかに芽を出す。
「レイジくん! 伏せて!」
鋭い声に思考が途切れた。
ミカが太刀を抜き放ち、闇に向かって構える。
その瞬間、影が飛び込んできた。
速い。目で追えないほどの速度で床を這い、壁を蹴り、次々と数を増やして襲いかかる。
ミカは躊躇なく刃を振るった。
月光を反射した閃光が一筋走り、影を切り裂く。
床に転がったそれを見て、レイジの呼吸が詰まった。
鼠――だが、異様に大きく、血走った目と鋭い牙は明らかに普通の獣ではなかった。
低く身を伏せたレイジの方へ、別の影が跳ねる。
咄嗟に伸ばした右手が、それを掴み取った。驚くほどの重みと暴れる力に腕が痺れる。
「なんだ、鼠か……でも僕の知ってるのより大きいし、凶暴。これって、この前の……?」
掴んだ感触に、記憶の奥底から嫌な予感が呼び覚まされる。
再び日常が遠ざかり、非日常の闇に足を引きずり込まれるような感覚が胸を締め付けた。