#059
(寒い……)
違和感に意識が浮上した瞬間、刺すような冷気がレイジの肌をなぞった。
瞼を開けると、薄明の室内にひとり、優雅にティーカップを傾ける影があった。
「おはよう、少年」
新聞越しに視線だけ向けてくるのは、コーダ。
薄暗い朝靄を背に、香ばしい香りを漂わせながらコーヒーを飲んでいる。
「おはようございます、コーダさん」
レイジが眠気まじりに返すと、コーダはカップを置き、穏やかな声で続けた。
「昨夜はよく眠れたか?」
「ふかふかのベッドなんて初めてだったんで、気持ちよく寝れましたよ。寝たはずなんですけど」
「そうか。それはよかった」
言葉だけ聞けば、ただの気遣う大人だ。
だが、コーダの目がレイジを一瞥した瞬間、どこか上機嫌に口元がゆるむ。
「ここから日の出が見えるんだ。少年も見たいだろう?」
「ええ、ぜひ。でもその前に……ひとつだけ質問してもいいですか?」
「なんだ?」
レイジはゆっくりと視線を落とす。
「……なんで僕、逆さに吊られているんでしょう?」
彼の身体は、つま先から胸部までワイヤーでしっかり巻かれ、見事に宙づりだった。
血が頭に集まり、じんじんと重い。
コーダは新聞を捲りながら、当然のように言った。
「騎士たるもの、就寝中も気を抜くな。戦地で本気寝するやつがいるか」
「なるほど、そういう気概の話なんですね。僕はてっきり、ここが安全な場所なのだと思ってました。それに僕、騎士じゃないです」
「それを油断というのだ。これは毎朝仕掛ける。目覚めて天地が反転していれば、一度は死んだと思え」
「わかりました、わかりましたから……降ろしてもらえますか?」
「……後でな」
* * *
王都滞在二日目の朝は、コーダの“奇襲訓練”から始まった。
吊られたまま、王都の歴史と経済について延々と講義をされ……解放されたのは一時間後だった。
(寝込みを襲って吊るすなんて、まともじゃないよな……)
もちろん口には出せない。
また吊られかねないので、思考は心の奥に封印する。
解放されたレイジは体をさすりながら、食堂へ向かった。
脳裏によぎるのは、昨夜ベルンハルトが振る舞った豪勢な料理の数々。
材料の名前すら知らないものばかりだったが、あれほど美味いと感じた食事は初めてだった。
食堂に入ると、ベルンハルトが一人、寸分の狂いもない動きで調理を進めている。
鍋の湯気が静かに立ちのぼり、芳醇な香りが空間を満たしていた。
「ベルンハルトさん、おはようございます。何か手伝いましょうか?」
ベルンハルトは一瞬だけ視線を向け、低く答える。
「おはよう。では……皿を並べてもらえるか?」
指示された通り、積まれた皿を五枚並べる。
その間にベルンハルトは、見事な手つきでフライパンの中身を五等分にしていった。
ふわりと漂うのは、海老のような香ばしい匂い。腹が鳴りそうになる。
「ベルンハルトさん、昨日の夕食もすごくおいしかったです。騎士よりコックの方が向いてるんじゃないですか?」
「料理は完全に趣味なのだ。本来、このように人に仕え、振る舞うなどはあってはならないこと」
「そうなんですか? ベルンハルトさんって、完全に従者のイメージしかないですよ」
レイジの率直な言葉に、ベルンハルトはほんのわずか、口元をほころばせた。
「いつか話そう。なに、そう遠くないうちにだ。——貴公はその前に、吾輩の稽古で強くなってもらわねばならん」
「早速、お願いします」
レイジが笑顔で頭を下げると、ベルンハルトも満足げに小さく頷いた。
王都での二日目は、静かに、しかし確実に熱を帯びはじめていた。
十数分後には朝食の準備が整い、レイジは屋敷内を駆け回って全員を食堂へ招集した。
最後に座ったのは、寝起きで目をこすっているレイチェル。全員の着席を確認すると、コーダが空気を締めるように口を開く。
「さて、全員そろったところで当面の目標を共有しておこう。優先すべきは少年の戦力強化だ。正直、今の実力では幽路とやり合うのは無理だろう。七式の習得で戦力を引き上げる」
コーダの鋭い視線がレイジを向いた。
「あ、あのう……」
次に弱々しい声がテーブルの端から上がった。
手をおそるおそる挙げているのはソフィー。昨晩はあのまま気分を悪くして部屋にこもり、ようやく姿を見せたばかりだった。
「発言を許可する。なんだ?」
「わ、私は……なぜここにいるんでしょうか……?」
コーダは淡々と答える。
「私がこの特別作戦の人員に選んだからだ。戦力としても期待している」
「せ、戦力としてはちょっと頼りないかもです。私にはもっとふさわしい役職があると思うんです。司令塔とか、指揮官とか……」
「なぜだ? 立派な剣を持っているのに。それと司令塔の座は譲らん」
「ああ、これね……」
ソフィーは腰に下げた独特な装飾の曲剣に触れた。昨日、空から降りてきたレイジを迎撃しようと振るった刃でもある。
「食事のあと、実力だけ見ておこう」
コーダの提案に、ソフィーは露骨に気乗りしない顔をした。
* * *
冷たい風が頬を撫で、レイジは肩をすくめた。
朝食を終えた五人は、屋敷中庭へと集まっていた。
ソフィーと対面に立ったレイジが準備運動を始めると、彼女は気だるげにため息を吐く。
「訓練院と同じく、軽い打ち合いでいい。それでだいたいは把握できる」
コーダの言葉にソフィーは無言で頷いたが、その目は明らかに不満げだった。
「あなた、そういえば幽路のメンバーなんだっけ? 心を入れ替えて騎士団側についたってこと? 自ら好んで裏切り者になるなんて、ミンチ確定よ。よく進んでそんなことするわね。マゾなの?」
「僕、一言もそんなこと言ってませんけど……まあ、いいです」
レイジは木剣を構える。
ソフィーは自前の曲剣を片手で軽く持ち上げ、気怠そうに先端を向けた。
「それでは……始め」
ベルンハルトの短い合図と同時に、レイジが地を蹴った。
一瞬で懐に入り突きを放つ。しかし——
「っ!」
ソフィーは驚くほど素早く剣を動かし、レイジの初撃を弾いた。
「初手を弾けばこっちのペース!」
そのまま勢いに任せて大振りの斬撃を浴びせかける。
木剣と金属がぶつかり合い、甲高い音が何度も中庭に響いた。
(この人……意外とやるな)
ソフィーなりのリズムがあり、勢いもある。じりじりと押され、レイジが一歩後退した。
「ここで必殺! 元素術発動よ!」
「珍しい、元素術使いか……」
ベルンハルトが呟き、レイジは不安げに目を向ける。
「な、なんです? エレメントアーツって」
「元素術——水禍の祝福ッ!」
ソフィーの掛け声に、レイジは身構える。しかし——
レイジの顔に、ぴちょ……ぴちょ……と水が落ちてきた。
「……?」
ソフィーの剣先から、蛇口を半分だけひねったような細い水がちょろちょろと垂れていた。
「……なんか、汚いのでやめてください」
「はあん!? 汚いって言うな!」
ソフィーは仲間から洗濯係や補給係と呼ばれていると言っていた。その理由を、レイジは理解した。
(そういう意味か……)
「どうですか、コーダ様」
「規模は拙い。しかし、いかなる能力も使いようだ。考えておくさ」
コーダの視線はすでにこの場ではなく、先の戦場を見据えていた。




