06:『きしだんのおしごと!/バレなければいい子ちゃんムーブは無駄じゃない』
割れた水晶の欠片に照明が反射し、床一面に星屑のような光が散っていた。
ミカが慌てて大きな破片を拾い、そっと麻袋へと収める。
小さな破片は手早く掃除道具で払い集められ、床はすぐに元の静けさを取り戻した。
その横で、レイジは不満げに顔をしかめている。
結果が出なかった――そう思い込んでいるのだろう。
だが、ヘルマンの胸中はまるで逆だった。
水晶内の渦は、本来は右回りか左回り、あるいはその深さで特性を測る程度のもの。
少なくとも「黒く染まり、破裂する」などという現象は聞いたことがない。
あの瞬間を見たとき、背筋に冷たいものが走った。
――もしや、この少年の魔力は想像以上に異質なのか。
そう考えた途端、胸の奥に緊張が広がっていく。未知。そう評するしかない。
だからこそ、安易に扱えば暴走し、本人も周囲も危険に晒されるだろう。
ならば方針はひとつだ。
基礎から徹底的に叩き込み、実戦を想定した訓練で制御を学ばせる。
予想外の結果ではあったが――むしろこれで、指導の方向性は固まったといえる。
「ヘルマン、せっかく準備してくれたのに。すみません」
気まずそうにレイジが頭を下げる。
「いや、大丈夫だ。怪我がなくてよかった」
ヘルマンは努めて穏やかに返した。その裏で、胸に芽生えた責任感がより一層強まっていた。
* * *
今朝のひと悶着から十数時間。
街は夜の帳に覆われ、スラム街の顔が昼とは変わっていた。
街灯のオレンジ光が瓦屋根を照らし、揺れる影が路地を縫うように伸びる。
ヘルマン・クロスはアークレーン地区の騎士団本部へ足を運んだ。
周辺地域を統括する中隊長に呼び出されていたのだ。
扉の前で小さく息を吐き、ゆっくりとノックを打ってから押し開ける。
「中隊長、失礼します」
いつものように深く頭を下げる。
視線を上げれば、髭を蓄えた中隊長グレイ・クーガンが威圧的に椅子に座っていた。
自然と背筋が伸び、胸に小さな緊張が走る。
「ヘルマン、忙しいところを悪いな」
「いえ。しかし、呼び出しは久しぶりなので緊張しました。内密な話でも――」
返事を切るように、グレイが言葉を続けた。
「監査部からのクレームだ。お前が拠点に一般人の子供を連れ込んでいた、と通告が上がってきた」
ヘルマンは表情を一瞬引き締める。
確かに安易に連れて行ったのはまずかった。
頭の片隅でその反省が疼くが、言葉を選び、冷静に返す。
「――それは、私の不注意でした。今後は慎重に致します」
グレイは肩をすくめ、あたかも笑うかのように見せた後、口を開く。
「あれは適当に流しておいた。評判の悪い監査官からの通告だったしな。お前への僻みも含まれているだろう」
通告は事実だが、処理はしてくれた。
ヘルマンは内心で安堵する。しかし、その安堵は長くは続かない。
「それで、本題だ。最近、市街地での“魔獣”目撃が増えている。お前も先日の件で報告書を上げてくれていたな」
ヘルマンはうなずき、記録を思い返す。胃の奥が重くなる。
あの犬型の魔獣はただの獣ではない。
再生能力、異形の追加発生──常識で片付けられる代物ではない。
「あの犬型ですね。単純な魔力の暴走では片付けられません。再生速度や奇形の出方が不自然で、外的因子が絡んでいる可能性があります──実験か、あるいは薬物の影響かもしれません」
ヘルマンの報告を受け、中隊長の目が鋭く光る。即座に次の指示が来る。
「報告書の内容からもその可能性は濃厚だ。今回は市街地で群れとして確認されている。各班で分担し、今夜中に掃討に入る。頼めるか?」
街を放置すれば民が被害を受ける。
群れで行動する魔獣を迅速に仕留める必要がある。
ヘルマンは返事をする間も、脳裏に少年レイジのことが浮かんだ。
あの子を無防備に置くことは危険だ。
しかし、守る義務もある──任務と保護、二つの天秤を抱える覚悟が胸を占める。
「了解しました。班編成と掃討手順、すぐに取りまとめます」
中隊長は短く頷き、書類に目を落とす。
ヘルマンも深呼吸をして扉を出る。
夜風が夜の匂いとともに、包帯に残る微かな血の匂いを運んできた。
街の片隅で怯えている者がいるかもしれないが、まずは任務だ。
拠点に戻ると、ヘルマンはすぐに管轄する小隊の前に立った。
十人の部下に向け、任務内容を簡潔かつ正確に伝える。
言葉のひとつひとつに、夜の街での危険性と責任を込める。
部下たちは静かにうなずき、魔導式通信機を頭部に装着する。
班編成を確認しながら、ヘルマンはひとつひとつの武器を目で確かめる。
手入れが行き届いているか、大剣の刃が光を反射する角度まで。問題はない。
背に背負い、重みを肩で受け止めると、自然に戦場の感覚が研ぎ澄まされる。
ヘルマンは深く息を吸い込み、声を低く、しかし明瞭に響かせる。
「目撃されている魔獣は四十センチ程度、三~五匹の群れで行動している。注意点は報告書で上げた異形の存在だ。傷口が再生するなど、常識外れの性能を持つ。確実に仕留めるまで油断するな。何かあれば、通常連絡より先に閃光弾を打て。質問はあるか?」
小さな静寂の後、日勤明けのミカが手を挙げた。ヘルマンの目が自然と彼女に向かう。
「なんだ?」
「私これ終わったら明日休みでいいんですよね!?」
部下たちの顔に少しほっとした表情が広がる。
任務の緊張と、日勤明けの疲労が入り混じった瞬間だ。ヘルマンは息を吐き、短く答える。
「日勤明けなのに急な仕事で申し訳ない。明日はなんとかするから、頼む」
「頑張ります!」
小隊員たちがそれぞれの班に散っていく。
ヘルマンは背後で微かに聞こえる足音と、街に漏れる灯りを目で追いながら、胸の奥で任務と守るべき者の重さを再確認する。
街の平和を守ること、そして無垢な命を護ること──二つの責任が、夜の闇に静かにのしかかる。
深く息を吸い込むと、夜風が髪を撫で、遠くで犬の鳴き声が響いた。
闇の中に潜むものの気配を、ヘルマンは肌で感じ取る。
目の前の任務、そして背後の守るべき存在。
その両方を胸に、彼は夜の街へと歩を進めた。今夜も、戦いは始まるのだ。
* * *
「レイジ君、今日は私夜勤だから、帰りは明日の朝になるの。一人で大丈夫?」
病院で看護師として働くカリナが腰を屈め、少し不安げに彼を見つめる。
「大丈夫です。ヘルマンも珍しく夜勤みたいですけど、お二人ともこの街のために尽力されているんですよね。僕は大人しくしていますので、ご安心ください」
口に出す言葉は冷静だが、胸の奥では少しもやもやしていた。もう少し子供らしく振る舞うべきか、と考える。だが今さらわざとらしく振る舞うのも変だ。結局、いつもの調子で答えを返した。
カリナはせわしなく準備を整え、慌ただしく家を出て行った。
ドアが閉まると同時に、部屋は静寂に包まれる。外のざわめきは聞こえるが、身近な気配が途切れた瞬間の孤独感が、思ったよりも重くのしかかった。
「よっしゃー! ついに一人の時間がきた!」
レイジは思わずガッツポーズをとった。
ここ数日、ヘルマンやカリナから町の話を聞き、情報収集は順調に進んでいた。
しかし、ひとりになる時間がほとんどなかったせいで、外に出たい欲求が体中に溜まっていたのだ。
バルコニーに出ると、夜の街が広がっていた。
街灯のオレンジ色が瓦屋根や石畳を照らし、人々の影が伸び縮みする。
遠くから犬の遠吠えが響き、風がカーテンを揺らす。
ヘルマンから聞いた――アークレーン。
それがこの街の名らしい。
見知らぬ土地、知らない人々。
けれど、どこか馴染みのある生活の匂いに胸の奥が少し高鳴った。
「よっと」
身軽にバルコニーを伝い、裏路地へと降り立つ。人通りは少なく、自分の足音だけが響く。心細さと同時に、自由を満喫する感覚があった。
歩きながら、これまで集めた情報を整理する。
目が覚めたとき、自分に関する記憶はほとんど失われており、世界は常識からわずかに外れていた――いわゆる異世界。
スラムが広がり、治安を維持する騎士団や剣士が存在する。
彼らは魔力を用いて剣を振るう。
まさに王道のファンタジーだ。
だがレイジには、どこか引っかかるものがあった。
「……まさか、僕が主人公じゃないよね?」
心の中で小さく呟く。
異世界転生ものなら、主人公は強力なチートを得て、世界を救ったり人生をやり直したりする。
しかし、自分にはそんな力はない。
転生なのか転移なのかも定かではなく、ただ子供になって目覚めただけ。
無力感よりもむしろ、「普通すぎる自分」への苛立ちと興味が入り混じり、胸に複雑な感覚を残した。
街を観察しながら歩を進める。
遠くに見える戦場跡のような地域は、最も貧困が濃い。
半壊した建物、路上で物乞いをする者、生きることを諦めて座り込む者――暗さが街の底を形作っていた。
一方で、自分が暮らすアークレーンは比較的整っている。
電線が空を走り、時折バチバチと火花を散らす。
各家庭には水道が引かれ、見覚えのあるガスタンクまで備わっている。
異世界でありながら、どこか現代の暮らしに近い。
「この世界、意外と便利なんだな……」
そんな感想が自然と漏れる。ファンタジーと現実の中間に立っているようで、不思議な感覚だった。
一本裏路地に入ると、雰囲気は一変する。
怪しげな酒場や商店が並び、赤や紫の光が妖しく通りを照らす。
法がどれほど整備されているかは不明だが、少なくとも常識の範囲では「違法」の匂いが濃厚だった。
影から現れた女が声をかけてくる。
けばけばしい衣装に媚びた視線。
しかし、年端もいかないレイジを客として扱うはずもなく、ただの興味本位に過ぎないだろう。
レイジは短く会釈し、丁寧に断りを入れる。無駄な敵は作らない――そう決めていた。
気づけば夜はさらに深まり、レイジは工業地帯らしき場所に足を踏み入れていた。
高い煙突が林立し、遠くの工場からは黒煙が立ちこめる。
月明かりすら霞む光景に、思わず息を吐く。
「……歩きすぎたな」
見慣れない地域にまで来てしまった。
翌朝までに戻らなければ、“いい子ムーブ”が水泡に帰す。
レイジにとって、それは何より避けたい事態だった。
そのとき、不意に月明かりが遮られる。
思わず空を見上げると、鉄骨を軽やかに渡る二つの影が目に映った。
銀光に照らされ、一瞬だけ輪郭がくっきり浮かび上がる。
「……ヘルマンだ」
背に大剣を負う男を、すぐに見分ける。
隣には騎士団の拠点で会ったミカもいた。
二人は宙を駆けるように鉄骨を渡り、闇の先へと消えていく。
「なにしてるんだろう」
呟いた声は軽い。
理性では帰るべきだと理解しているのに、胸の奥の好奇心が強く主張する。
気づけば足は前へ進んでいた。
騎士団の剣士たちが向かう先に、ただの見物では済まない何かが待っているとも知らずに――。