#051
王都北部——イリュドとの国境近くに位置するリトリマ地区。
かつては「水脈の都」と呼ばれ、美しい運河と時計塔が人々を惹きつけた観光地だった。
だが、十数年前に発生した原因不明の水脈枯渇が、その栄華をあっけなく奪い去った。
水が消えた街に人の姿も消え、賑わっていた歓楽街は見る影もない。
軒並み閉ざされた建物と、乾いた水路の跡だけが、かつての繁栄を物語っている。
いまでは、瓦礫とごみの積もる路地に酒と血の匂いが混ざり、夜ごと喧騒が絶えない。
腐敗の進んだこの街は、まるで北のスラム《イリュド》の影を写したかのようだった。
人口の減少に伴い、治安は急速に悪化。
反社会組織《灰月会》がこの一帯を縄張りとし、商人たちからみかじめ料を取り立てている。
かつては小さな裏組織に過ぎなかった彼らも、今や騎士団が黙認できぬほどの勢力へと肥大化していた。
——リトリマ地区・領主館
老朽化した石造りの館は、もはや「領主の屋敷」と呼ぶにはあまりにもみすぼらしい。
窓は割れ、門は半ば崩れ落ち、庭には雑草が伸び放題だ。
だが今、その朽ちた館の一室に、《灰月会》の構成員たちが数名集まっていた。
そして、その場にはもう一人。
騎士団から極秘の密偵任務を受け、《灰月会》に潜入していた女——コーダ・エイルフォードの姿があった。
かつて社交界が開かれていた大広間は、今では見る影もなかった。
割れたシャンデリアの破片が床に散り、壁には煤けた跡が残っている。
腐敗の象徴——そう言っても差し支えない場所だ。
コーダは壁にもたれ、腕を組んだまま黙々と場を観察していた。
表情は読めず、ただ耳だけを澄ませる。
灰月会の幹部たちが交わす言葉の一つひとつを、彼女の記憶は正確に拾い上げていく。
外では風が唸り、割れた窓から冷たい空気が流れ込んだ。
凍てつく空気の中でも、コーダの瞳はどこまでも静かだ。
リトリマの腐敗は皮膚で感じるほど濃く、それでも彼女の心は微動だにしなかった。
——その時、重い音が広間の空気を裂く。
中央の大扉が勢いよく開かれ、金属の擦れる音が反響した。
コーダは反射的に視線を向ける。
数人の構成員が、大きな木箱をいくつも抱えて入ってきたのが見えた。
幹部が一歩前へ出て、ひとつの箱の前で膝をつく。
その仕草だけは妙に丁寧で、まるで儀式でもするかのようだった。
蓋が開くと、鈍い光を放つ金属が並んでいる。宝石、金細工、そして——魔武器。
正式登録のない魔武器の所持は、明確な違法行為。
まさに、コーダの潜入目的がそこにあった。
彼女は腕を組んだまま、一歩前へ出る。
「違法魔武器か。どこからそんなものを調達してきた?」
問いかける声は低く、探るようでありながら、威圧も含んでいた。
幹部の男が苦虫を噛み潰したような顔で、しばらく黙り、やがて短く答える。
「……トラヴィスだ」
トラヴィス——イリュド西部の港町。
密輸品の経由地として知られる場所。
それ以上の情報は、どうやら口を割る気がないらしい。
しかし、これで十分だった。組織の資金源がどこにあるか、線はつながる。
コーダはゆっくりと歩み寄り、箱の中から一本の短剣を手に取った。
刃の紋様、金属の質、鍔の細工——すべて記録するように視線でなぞる。
そのとき、部屋の隅で声が上がった。
「おかしいな……トラヴィスから届くロットは四つのはずだ」
コーダの眉がわずかに動く。
広間には五つの箱。つまり、ひとつは余計。
構成員たちは顔を見合わせ、口々に「間違えたんじゃないか」とざわついた。
だが、コーダは静かに提案する。
「中身を確認したらどうだ?」
その声音には、命令にも似た冷やかさが滲んでいた。
男たちは一瞬ためらいながらも、結局コーダの言葉に従うように箱を開けていく。
二つ目、三つ目、四つ目——いずれも予定通りの魔武器や宝石類。
緊張が少し緩みかけたところで、五つ目の箱に手がかかった。
蓋が開いた瞬間、若い構成員の喉から、情けない悲鳴が漏れた。
中には——真っ赤なリンゴがぎっしりと詰まっている。
異様な光景に全員が息を呑む。
そして、その箱の中で、ひょいとリンゴを取り上げた少年がひとり。
無邪気な表情で、一口かじりながらこちらを見上げた。
「ど……どうも」
その声を聴いた瞬間、コーダの目が細くなる。
——"レイジ"
彼女の協力者であり、潜入任務のもうひとつの"切り札"だった。
冷気が吹き込む広間に、わずかに笑みが浮かぶ。
その笑みは誰にも気づかれぬほど淡く、計算と確認の色を帯びていた。
コーダの静かな瞳にだけ、確かな安堵と——次の一手の光が宿る。
その瞬間、驚いた構成員が木箱を倒した。
リンゴが床に散らばり、同時にその中からレイジが転がり出る。
構成員たちはすぐさま動いた。
怒号が飛び交い、数人がレイジを囲み、四方を塞ぐ。
混乱の渦の中でも、コーダは一歩も動かない。
視線だけで状況を測り、わずかに息を整えた。
隙間から、レイジと目が合う。
短い合図のように頷き、コーダは手に持つ短剣を抜いた。
次の瞬間、レイジが膝を曲げて地面を蹴る。
跳躍の軌道を正確に読んだコーダは、刃を逆手に構えたまま、一瞬で空中の彼に向けて短剣を放った。
金属音がひとつ。
レイジは宙でそれを掴み、回転の勢いを利用して剣を縦に振り下ろす。
「——魔圧撃・牙」
刹那、空気が震えた。
圧縮された魔力が唸りを上げ、牙のような衝撃波となって直線的に放たれる。
その軌跡は猛獣の咆哮そのものだった。
包囲していた構成員たちは衝撃に弾かれ、広間の石床が割れて粉塵が舞う。
着地したレイジは迷いなく構成員の懐に踏み込み、蹴りと体重を乗せた一撃で数人をまとめて吹き飛ばす。
その動きに、コーダは一瞬だけ目を細めた。
——訓練通りだ。判断も速度も、合格点。
脱出経路の確保は完了している。
あとは混乱のうちにレイジを回収し、撤収するだけ。
そう判断し、コーダは腰の小さな通信機を指先でなぞった。
だが——。
静かな音を立て、幹部の男が前に出た。
血走った目をした大柄な男。その歩調はゆっくりで、まるで状況を愉しむようだった。
レイジが警戒して拳を繰り出す。
だが男はそれを片手で受け止めると、もう片方の手に握った片手剣をためらいなく振り下ろした。
鈍い音。血の匂い。
レイジの身体が揺れ、床に膝をつく。
コーダの額に汗が伝る。
——予定が狂った。そして、少し面倒になった。
咆哮のような、しかし甲高い音が響く。
空気が軋み、切り裂かれたレイジの傷口から黒い線が這い出した。
それはやがて形を変え、二本の触手となって彼の全身を包み込んでいく。
金属を擦るような異音とともに、彼の輪郭が歪む。
皮膚が黒く変色し、瞳の奥に光が宿る。
人ではない——それを示す、無機質な黄色い目。
広間の空気が一瞬で凍りつく。
コーダだけが、変わらぬ表情でその光景を見つめていた。
それは驚愕でも恐怖でもない。
ただ冷静に次の手を計算する者の、静かな視線だった。




