#Ex 約束も少女も守る男
見慣れた病院の診察室。白い蛍光灯の光が薄く踊り、消毒液の匂いが静かに鼻をつく。
レイジは袖をまくり上げられ、少し恥ずかしげに顔をしかめた。
「あの……そこは、ダメです」
「いいじゃないか、もっとよく見せてくれ」
「本当に、ダメです……く、くすぐったいです!」
ヴァネッサの指先が触れるたび、レイジは堪えきれずに大声で笑い出す。
くすぐったさが先に立ち、診察室の静けさが一瞬だけ砕ける。
「変わらず健康。面白くないねえ」
「その、病人にしか興味持てない性格、治した方がいいですよ」
「治るとか治らないとかの話じゃないさ。これも医者の性かな」
「今回は僕、何も怪我しませんでしたからね」
軽口を交わしている間にも、レイジの脳裏にはあの光景がよみがえる——戦場で見た、両腕が飛ぶ瞬間。
血の匂いと飛び散る破片。痛みと恐怖。
似たような幻覚がここ最近、何度も頭をかすめる。
だが現実の自分は、包帯一つで済む程度のかすり傷しか負っていない。
現実と幻の差が、逆に混乱を大きくする。
「早く無茶して大けがでも負って来な。すぐに治療してやるから」
満面の笑みで言うヴァネッサに、レイジは呆れたように眉を上げる。
だが、その笑顔の裏に何か温かさがあることを否定できなかった。
ふと、レイジはポケットに手を伸ばし、小さな封筒を取り出した。
紙の感触がひんやりと掌に触れる。
慎重に封を開け、数枚の札を取り出すと、まとめてヴァネッサに差し出した。
「今日はヴァネッサさんが健診うるさく言うので来たのもありますけど、『本命』はこれですよ」
彼女は無造作に数枚を懐に入れ、残りをレイジに突き返すように返す。
顔はそっけないが、目はどこか柔らかい。
「……それだけで、足りるんですか?」
この世界で目覚めた時、ヴァネッサに治療代を三か月以内に返すと約束していた。
二か月が経ち、ようやく返済できる目途がついた。だから今日はその”清算”の日でもある。
「十分だ。というより、元々期待はしていなかったし、まさか本当に返済しに来るとは思ってもみなかった」
言葉のずれに、レイジは思わず口をぽかんと開ける。
返済を要求した本人が、返済を本気で期待していなかった——その矛盾が、頭にすっと入ってこない。
「すみません、言ってる意味が解らないです。それってどういうことですか?」
ヴァネッサは肩をすくめ、小さく嘆息をもらすと、言葉を選ぶように続けた。
「あたしゃ元々、返済なんてしてもしなくても構わないってことさ。金に困ってるわけでもない。察しが悪いね。……記憶もない、家も燃えちまった子供を見殺しにしろってか? この街で生きていくなら、少なくとも生きる意味、つまり目標は必要だろう。ただきっかけを与えただけだよ。借金返済のために生活基盤を立てれば、自立できてるってことだ。もう充分この街で生きていける」
言葉は素っ気ない。しかし、その語気の端々に流れる不器用な親心が、レイジには伝わった。
強く突き放すようでいて、実は背中を押している——そんな気配だ。
レイジは封筒の重さをもう一度確かめる。
紙幣の冷たさが、今日という日の区切りを実感させる。
胸に浮かんだ不安と幻覚の壁を振り払うように、彼は小さく笑って言った。
「図ったな、ヴァネッサさん」
ヴァネッサは軽く口元を緩め、わずかな安堵をにじませた。
レイジはその表情を見て、自分が少し、また前に進めるような気がした。
* * *
騒動から一か月。レイジの日常にも、いくつかの変化が訪れていた。
アークレーン地区の公園跡に設置された騎士団の簡易拠点——プレハブ小屋の二階。薄く差し込む午前の光がアルミサッシの引き戸を透かし、レイジは慣れた手つきでそれを滑らせる。六畳一間ほどの狭い室内に入ると、角に置かれた小さなワードローブの影で、レイチェルが顔を覗かせた。
「ヴァネッサさんの健診? だっけ。早かったね」
「そうなんだよ。用事が早く済んで助かったよ」
レイジは上着をしまい、古びた小さなダイニングセットの椅子に腰を下ろす。床には使い込まれたタオルケットが折りたたまれ、棚には簡素な食器が並ぶ。豪華ではないが、二人で暮らすには十分なほどの温もりがあった。
事件以降、ヘルマンたち騎士団の配慮でレイチェルの保護は続き、カリナ宅での”居候”は一旦終わった。
あの環境は恵まれたものだったが、レイジの胸中では本当に自立と言えるのだろうか——
と日々くすぶっていたこともあり、この生活は二人にとって本当の自立への第一歩でもあった。
「急に寒くなったね。少し前まではシャツ一枚で平気だったのに」
「夜は寒いから、あったかい毛布が欲しいね」
レイチェルが笑いながら言う。彼女の表情には、あの事件のあと少しずつ戻りつつある穏やかさがあった。
それを見ると、レイジの肩の力がふっと抜ける一方で、責任の重さは消えない。
「騎士団の配給をあてにするわけにもいかないし、市場で買うしかないか」
「うん、モフモフのモフが欲しい!」
微笑ましい会話の端で、レイジは自分の手元を確かめる。
ポケットの中はヴァネッサへの返済で浮いた分と、いくらかの小銭。
日々の食費や寮の家賃を考えると、安定した収入源の確保は必要不可欠であった。現実は柔らかな毛布の温もりよりずっと冷たい。
(コーダさんにまた仕事貰わないとな……)
レイジがふと立ち上がり、寮の外へ出ると、鉄階段を下りながら辺りを見回した。通りを行き交う人々、遠くで鳴る市場の声。それらが日常の音としてしみこむほどに、彼らの暮らしは少しずつ軌道に乗っている。
「ねえ、レイチェル、どこまでついてくるの?」
「ついていってもいいでしょ? だって、私レイジがいない人生なんて——」
「違う! トイレまでついて来ないでって!」
レイチェルはどこへでもついてきた。過保護にしてしまったのか、それとも彼女の不安の裏返しなのか。レイジは苦笑いしながらも、それを面倒とも感じない自分に気付く。
「自衛のために剣術、覚えたらどうかな? まずは基本の魔圧撃から」
冗談交じりに提案すると、レイチェルは目を輝かせて頷いた。
レイジの悩みは消えないが、少しだけ道筋が見えた気がした——守る力をつけ、二人で生きていくために。




