#Ex ヘルマンの葛藤
アークレーン地区の騎士団本部。
石造りの廊下は、いつもより冷たく感じた。
ヘルマン・クロスは重く沈む胸を抱えながら再びその大扉の前に立っていた。
金具の継ぎ目が光を反射し、どこか牢の鉄格子のように見える。
彼は拳を握り、意を決してノックした。
——乾いた音が静寂に響く。
一か月前の事件が脳裏に蘇る。
アークレーンからミレナ地区までを跨いで起きた少女誘拐事件、そして騎士団監査官ラオ・パイクによる身売りの疑惑。
すべては黒幕と目されたバロックの黙秘によって、真相が闇に沈んだままだった。
その結果、ラオは降格処分。
王都への強制送還と再教育プログラムの適用が決定。
そして——ヘルマン自身は、「上官暴行」の現行犯として裁かれる立場にあった。
だが、ミカの強い懇願と、レイジ、カリナの証言が決め手となり、ラオの関与が”認められた”形で、ヘルマンは一か月の謹慎処分に留まった。
(……俺の騎士団人生も、これで終わりかもしれんな)
小さくため息を吐く。
掌が汗で湿り、扉の取っ手が妙に冷たく感じた。
重い扉を押し開けると、軋む音とともに、埃とインクの混じった空気が鼻をつく。
視線を上げる。
正面の執務机、その奥に中隊長グレイ・クーガンの姿があった。
肘をつき、鋭い眉をわずかに吊り上げ、面倒くさそうにヘルマンを見つめている。
相変わらずの不機嫌そうな顔。だが、それだけで少し安心する自分がいた。
ヘルマンは静かに扉を閉め、姿勢を正して歩み寄る。
机の前で立ち止まると、息を整え、口を開いた。
「グレイ中隊長、その……いろいろとご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」
沈黙。
書類を指で軽く叩く音が、部屋の中に小さく響く。
「監査官を倉庫で暴行とはな」
低く、冷たい声だった。
「聞いたか? 頭蓋骨陥没、眼窩底骨折、下顎骨骨折、脾臓・腎臓損傷——」
机上の紙をめくりながら、グレイは眉をひそめる。
「……本気で殺すつもりだったのか?」
ヘルマンは俯いたまま、拳を握りしめる。
「……いえ。猛省しています。感情に任せた行動で、騎士としてあるまじき行為でした。どんな処罰でも、受ける覚悟です」
あのとき、レイジが止めてくれなければ——間違いなく、殺していた。
その事実が胸に刺さったまま抜けない。
しばらくの沈黙。
だが次の瞬間、グレイが小さく吹き出した。
「処罰? もう一か月の謹慎をしただろう。それで十分だ」
あまりにも軽い言葉に、ヘルマンは思わず顔を上げた。
「しかし——」と口を開きかけたところで、グレイが手を振って遮る。
「いい気分だよ。ざまあみろってやつだ」
皮肉な笑みが口元に浮かぶ。
「ここだけの話な、皆あいつを煙たがっていた。今回の件で降格処分になって、清々してるやつも多いんだ」
ヘルマンは唇を引き結んだ。
胸の奥で何かが軋む。
彼は一歩、深く頭を下げる。
「……俺はどうなるんでしょうか。やはり、降格ですか」
その声には、観念の色が滲んでいた。
自らの非を認め、処罰を受け入れる覚悟——それが騎士としてのけじめだと信じていた。
だが、グレイは鼻で笑い、椅子の背に深くもたれた。
「馬鹿言え。その逆だ」
一瞬、時が止まったようだった。
ヘルマンは眉をひそめ、聞き間違いかと耳を疑う。
「……それは、どういう意味で?」
「ヘルマン君、君は中隊長に昇格だ。儂は王都に戻れることになった。後釜は君しかいないだろう?」
冗談だと思った。
あまりに突拍子もない話に、言葉が出ない。
喉が渇き、思考がまとまらない。
「どういう……ロジックで、その結論に至るんです? ラオが煙たがられていたとしても、俺は……」
グレイは書類を指ではじきながら、面倒くさそうに答えた。
「元々、儂は王都への異動願いと、君の昇格を検討していたんだよ。それをあの野郎が止めていたのだ。あいつが失脚したおかげで再申請が通った。王都で人事の入れ替えがあるらしくてな、話が早かった」
ヘルマンはしばらく言葉を失った。
部屋の隅の書棚をぼんやりと見つめ、己の心が追いついていないことを自覚する。
「自分には……その器がありません」
かろうじて絞り出した声は、重く沈んでいた。
「男らしく決断したらどうだね?」
グレイが軽く笑う。
「君以外、適任はいないのだよ。本日付けで中隊長補佐を任ずる。三か月の引継ぎを終えれば、この机は君のものだ」
ヘルマンは言葉を失い、ただ机の表面に刻まれた古い傷跡を見つめた。
この机に座ってきた者たちの重みが、今、肩にのしかかる。
誇りか、後悔か——そのどちらも分からない感情が胸の底に渦を巻いていた。
だが、前に進むこともまた、責任を取るということなのだろう。
ヘルマンは静かに息を吐き、決意を飲み込んだ。
「それと、君に依頼していた違法薬物の件だが……あれは引き続き、君の主導で頼む」
「……委細承知いたしました」
言葉を終えると、グレイは再び書類の束に目を落とし、ペンを指先で弄ぶ。
「君の”創作物”が読めなくなると思うと、少し寂しい気分だがな」
ヘルマンの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「”新作”が出来たら……お送りしますよ」
そう告げた声が、薄暗くなり始めた執務室に、静かに響いた。




