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#050

「それは、もう……お前、なぜ知ってる?」


 ヘルマンの声は震えを含んでいた。

 胸の奥の何かが、小さく砕けていく感触があった。

 ラオの口元に、濡れた笑みが浮かぶ。


「あの女……《アリシア》って言ったか? 村じゃ聖女の生まれ変わりだのと祭り上げられてた女だよ。ありゃあ上玉だった。ほんと、雪崩で村ごと全員死んじまったのが惜しいよな」


 ヘルマンの顔色が、みるみる青ざめる。

 雪崩——あの日の音、砕ける屋根、消えた灯り。


 彼はその惨劇を、誰にも語っていない。

 語ることすら許していない記憶だ。

 だが、今、目の前の男が、当事者のようにそれを語る。


「……アリシアを? おい、その村はもう無くなったはずだ。なぜお前が、当事者でもないのにそこまで……」


 問いは、怒りより先に恐怖を孕んでいた。

 胸の奥が冷たく引き締まる。


 ラオの笑いが低く響く。

 倉庫の湿った空気に、嫌なぬめりが混じる。


「馬鹿かよ? 当たり前だろ。ありゃ、俺が()()()()()()——雪崩をな」

「……は?」


 言葉は耳に刺さる。

 ヘルマンの世界が、音を失っていくようだった。

 足元の砂利の一粒一粒までが異様に鮮明になり、時間がぎこちなく流れる。

 ラオの告白が、彼の胸の奥で何かを引きちぎった。


「俺が北部の魔導大砲部隊にいた頃だ」

 ——ラオは肩越しに過去を語るように続ける。

「大砲を打ち込んでな、あの時はお前をつぶすつもりだったんだ。だがな、失敗した。お前は生き残って、お前以外全員が死んだ」


 言葉が、ヘルマンの耳に重く落ちる。


「大砲……」

 と呟く自分の声が、遠い別の世界のように聞こえた。

「本当に運のいい奴だよな。ここまで生き残ってくれたってことは、俺に直接殺してもらいたかったんだおう、ってな」

 ——ラオの声が高まり、薄い嘲りが混じる。


 その瞬間、ヘルマンの内側で何かが切れた。

 胸中に蓄えられていた理性の糸が、軋みながら解けていく。

 感情が急速に鈍化していった。恐怖や悲しみが、ただ一つの形へと変わる。


 怒りだった。護るべきものを奪われた者の、澄んだ怒り。


 魔力が、指先からつま先へと帯電するのを感じた。

 冷たい金属が胸に触れているような感覚。


 呼吸が浅く、だが確実に早くなる。

 周囲の音が薄れて、自分の鼓動だけが増幅される。


 ラオはその変化を嗤う。

 ヘルマンの瞳は既に鋭く光り、首筋で浮く静脈が脈打っていた。

 彼は剣の柄を強く握り直す。鞘に触れた刀身が軋み、音が異様に大きく響く。


 ラオの口から吐かれた過去は、ただの会話では済まない、一線を越えた。

 ヘルマンの思考は即座に行動へ滑り込む。


 言葉はもういらない——もはや手が示すものだけが答えだ。

 魔力の粒子が集まり、氷のように冷えた拳を作り上げる。


(終わらせる)

 ——その決意が静かに、だが確実にヘルマンを満たした。


 * * *


 鋭い音がした。

 次の瞬間、レイジの背から短刀が突き出る。


 飛び散った血が、レイチェルの頬に暖かく触れた。

 何が起きたのか、理解するより早く——彼がゆっくりと膝をつく。


 その光景に、レイチェルの心臓が悲鳴を上げた。


 ——まただ。


 あの時と同じ、希望の光は儚く散りゆくのか。

 いや、違う。自由とは自分の手で掴み取るものなのだ。

 もう繰り返したくはない。と少女は願った。


「嫌だ!」


 喉の奥から、思考より先に声が飛び出す。


「私は、この人と生きていきたい!」


 鎖を引く男が不快そうに笑い、鉄を軋ませた。


 しかし、その瞬間——


 用水路の空気が異様な音を立てて震える。

 叫び声にも似た甲高い音とともに、レイジの胸部から黒い腕が二本、うごめくように伸び出した。

 それは触手のように男の刃を背後から掴み、無理やりに引く抜く。

 ぐしゃり、と血が滴る音がして、黒い腕はそのまま傷口へと溶け戻った。


「——僕も、そう思うよ」


 静かな声。

 その響きに、レイチェルは息を呑む。

 次の瞬間、まるで時間を巻き戻したかのように、レイジは勢いよく立ち上がった。


 蹴りの一撃が男の腹部に突き刺さる。

 乾いた音とともに男の体が俺、後方へ吹き飛んだ。


 レイチェルも負けじと自分に繋がれた鎖を思い切り引いた。

 金属音が鳴り、男の体勢が完全に崩れる。


「ねえ、知ってる?」


 レイジが淡々と告げる。


「この世界じゃ、魔力を少し込めただけのパンチでもコンクリートを砕けるんだ。……じゃあ、それを身体に喰らったら、おじさんは原形を保てると思う?」


 声は静かなのに、背筋が凍るほど冷たい。

 男がうろたえるより早く、レイジの蹴りが男の顔面寸前で止まった。

 圧倒された男はよろめきながら逃げ出す。


「ああ、適当に進んだら戻れなくなっちゃうよ? 忠告はしたからね」


 軽い口調でそう言い放つ彼の背中が、あまりに頼もしく見えた。


 その瞬間、レイチェルは理屈もなく、彼の胸に飛び込んでいた。

 血と汗のにおいを感じる、懐かしい安心する匂い。

 この腕の中にいるだけで、世界のざわめきが遠のいていく。


 ——やっぱり、この人は特別だ。

 神様みたいに、奇跡を当たり前のように起こす。


 張り付けていた糸が、ぷつりと切れた。

 レイチェルの喉から、嗚咽がこぼれる。

 レイジは何も言わず、その小さな頭を優しく撫でた。


 その掌の暖かさだけが、現実の証のようだった。


 * * *


 レイジが破壊した壁を、二人は逆戻りするように辿って行った。

 冷えた石壁を抜け、再び倉庫の方へと戻る。


 入口付近は瓦礫が崩れ、レイジが無理に通った衝撃で半ば塞がっていた。

 彼は拳を二義直し、魔力を流し込む。

 拳が淡く光り、次の瞬間、瓦礫は粉々に砕け散った。


 ひんやりとした空気が吹き込み、焦げた匂いとととに倉庫の空気が入れ替わる。

 外に出た瞬間、鈍く湿った音が耳を打った。


 反射的に視線を向ける。


 ——ヘルマンが、ラオの上に馬乗りになっていた。


 血の飛び散るたび、拳が何度も何度も振り下ろされる。

 その形相は、もはや騎士のそれではなかった。


 ラオはぐったりとしていて、もはや抵抗の気配すらない。

 異常を感じ取ったレイジは咄嗟にヘルマンの元へ駆け寄り、彼の腕を掴んだ。


「ヘルマン、やめて——! 殺しちゃうよ!」


 レイジの声に、振り上げられた拳がようやく止まる。

 荒い呼吸。

 ヘルマンの瞳は焦点を失い、まるで壊れた人形のようだった。

 その肩を押さえ、レイジはゆっくりと呼びかけ続ける。


「……大丈夫。もう終わったんだ」


 しばらくして、ヘルマンの瞳に光が戻った。

 唇が震え、肩で激しく呼吸を繰り返す。

 その頬を伝う涙を、レイジは見逃さなかった。


 怒りの奥にあったのは、悲しみだった。

 ——彼もまた、何かを背負っているのだ。


 * * *


 怒涛の事件から一日が経った。

 夕暮れにはミカが手配していた騎士団が倉庫へ駆けつけ、ヘルマンとラオは事情聴取のため本部へ連行された。

 窓から射す朝日を見ながら、レイジは静かに息を吐く。


 普段あれほど冷静なヘルマンが、あそこまで取り乱すなんて——


 あの涙の理由を、今の彼にはまだ測りかねていた。


 レイジとレイチェルは、見覚えのある”病院”にいた。

 あのとき目覚めた病室と同じ場所。

 けれど今は、同じ風景でもまったく違って見える。


 もう”知らない街”ではない。

 レイチェルがいて、ヘルマンがいて、カリナがいる——

 自分が帰る場所だと、そう思えた。


「こんなところにいたのか、探したんだぞ」


 声に振り返ると、窓の向こうから整った騎士団の制服に身を包んだ女性がこちらを覗いていた。

 陽光を背に、淡い銀髪が揺れる。


「コーダさん……ちょっと無茶しちゃって」


 レイジは苦笑いした。


「……つい、ね」

「キミらしいな」


 コーダは肩をすくめ、すぐに真顔へ戻る。


「早速なんだが、キミにひとつ仕事を頼みたい。金が必要なんだろう?」

「命の危険がないなら、行きますよ」


 迷いのない声だった。


 レイジは自分を”主人公”だと思ったことはない。

 誰かの物語に偶然、登場しているだけの存在だと。

 けれど今は、少しだけ違う違う気がした。


 ——誰にだって、自分の人生という舞台がある。

 生き返った少年の物語は、まだ序章に過ぎない。

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