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#049

「……暗い」


 思わず漏れた声が、用水路の壁に反響する。

 レイジは足を下ろし、ぬかるむ地面を確かめた。


 当然ながら、明かりはない。

 あるのは、流れる水の音と、湿った草木の匂い。

 ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。


 入口からわずかに差し込む光が、壁の苔を鈍く照らしていた。

 その薄明りの中で、レイジは視界と記憶を重ね合わせ、周囲の情報を頭の中で組み上げていく。


 焦げたような匂いが、鼻先をかすめた。

 目を落とすと、黒い線が地面を縫うように奥へと伸びている。


(……これ、か)


 脳裏にかつてコーダが魔力の意図を手繰っていた様子が蘇る。

 焼け焦げたその跡が、魔力の残滓のように見えた。

 これがヘルマンの言っていた”目印”なのだと直感し、目を細める。


 明かりはなくとも、道はひとつだ。

 聞こえるのは流水の音だけ。


 だが、それで十分だった。

 ヘルマンが王都は上流の方だと言っていた。

 ならば、彼に迷う理由はない。


 レイジは壁に手を当て、指先でその冷たさを確かめながら、一歩ずつ暗闇を進む。

 足音が小さく水を打ち、呼吸が狭い空間にこだまする。


 やがて、完全な闇が支配した。

 前も後ろも区別がつかない。

 少しでも壁から手を離せば、すぐに方向を見失うだろう。


 だが、不意に指先が違和感を捉えた。

 伝っていたはずの壁が、いつの間にか正面に回り込んでいる。

 流水の音は、その向こう側から聞こえてきた。


(……壁? でも水の音がするってことは、流水と充分な空間があるはず——ならば)


 ヘルマンの言葉を思い出す。


「”拳”に魔力を込めて打ち込め」——レイジの中で答えが出ていた。


 足を肩幅に開く。

 腰を沈め、拳を握る。

 魔圧撃の要領で、体の奥から魔力を引き上げた。


「——ッ!」


 一撃。轟音が狭い空間に響き渡り、粉塵の臭いが漂う。

 壁は土のように崩れ、空気が動いた。

 その瞬間、レイジの頭の中で電光のように閃く。


(……これだ。最短で行くなら、全部ぶち抜けばいい)


 上流に向かって、ただ真っすぐ壁を壊し続ける。

 余計な遠回りなどは要らない。


「よし——決まりだ」


 呟きと同時に、レイジは駆け出した。

 壁が迫る。砕く。また壁。砕く。


 振動と粉塵が次々と舞い上がり、音が水路の奥へと吸い込まれていく。

 暗闇の中、ただ感覚だけを頼りに。


 上流を目指して——レイジは走り続けた。

 いくつもの壁を砕き抜けた頃、レイジの耳がかすかな異音を捉えた。

 ——何かが動いている。


 水音とは違う、金属のこすれるような音。

 確信が、胸の奥に湧き上がる。


 この先にいる。この壁の、向こうに——。

 レイジは息を吸いこみ、拳に魔力を収束させた。

 これまでよりも深く、強く。


「——っらああっ!」


 轟音とともに最後の壁が粉砕され、砂塵が舞う。

 光が差し込み、閉ざされていた闇が一気に払われた。


 そこはわずかに開けた空間だった。

 湿った空気、松明の炎が揺れ、赤い影を壁に踊らせている。


 視線の先に、レイチェルがいた。

 鎖で繋がれ、その鎖を握る男がいる。


 男の目が見開かれた。

 まさか、この方向から人が現れるとは思っていなかったのだろう。

 その一瞬の隙を、レイジは逃がさない。

 低く踏み込み、地を蹴った。


「——っ!」


 風を裂いて接近し、男の懐に滑り込む。

 下から突き上げるように放った蹴りが、顎を正確に捉えた。


 鈍い音とともに男の体が仰け反り、鎖がその手から滑り落ちる。

 レイジは即座に腕を伸ばし、鎖を掴む。


 次の瞬間には、レイチェルの身体を抱き寄せていた。

 その体は冷たく、泥と血の匂いが混じっている。

 だが、生きている。確かに、ここに。


「ごめん、レイチェル。待たせちゃった」


 かすれた声で言うと、レイチェルは微笑んだ。

 涙の痕が光の中で揺れる。


「……信じてたよ。必ず来てくれるって」


 その言葉に、レイジの胸が熱くなる。


 だが——。


 耳の奥で、空気が動いた気配を捉えた。

 反射的に振り向こうとした瞬間。


 ズブリ、と鈍く湿った音が響く。

 視界が僅かに揺れ、呼吸が止まる。

 背中に走る、灼けるような痛み。


(——やられた)


 見下ろすと、胸の奥にまで突き抜けた刃の感触があった。

 暗い水音の中で、血の匂いがじわりと広がっていく。

 声にならない息を吐いた。レイチェルの名を呼ぼうとして——視界が闇に沈んだ。


 * * *


 レイジの身体が闇に消えていくのを見届けると、ヘルマンはようやく息をついた。

 胸の奥に溜まっていた重圧が、わずかに緩む。


(——あとは、騎士団の応援を呼んで、包囲すれば終わりだ)


 冷静にそう結論づけ、通信機に手を伸ばしかけた、その時だった。

 肩口に焼けつくような痛みが走る。


「……ッ!」


 反射的に身を引く。血が噴き出し、暖かい感触が肌を伝った。

 視線を上げれば、月光のような刃が自分の肩をかすめ、背後で止まっている。

 持ち主は——ラオだった。


「お前……どうして」


 思わず声が掠れる。

 ラオは薄笑いを浮かべ、ゆっくりと曲刀を引き抜いた。


「驚いたぜ。まさか脳筋のお前が”元素術”なんて使うとはな。しかも氷結とは、聞いたこともねえ。……だが、あらかじめ”保険”をかけておいて正解だった」

「保険だと?」


 ヘルマンが眉をひそめると、ラオは懐から小さな装飾石を取り出して見せた。

 鈍い緑色の光が、淡く脈打っている。


「知らねえか? ”魔力を喰う魔道具”さ。これを持ってる間は、俺の身体には魔力が通らねえ。だから、魔力を介した攻撃はすべて無効。……まあ、氷が解けるまで時間はかかったがな」


 口の端を歪め、ラオは楽し気に刃を構える。


「騎士団の監査官なんてやってるとよ、闇討ちなんざ日常茶飯だ。弱い奴ほど背中を狙ってくる。だから俺は、こうして”備え”をしてんだよ。さあ——続きといこうぜ、ヘルマンさんよ」


 ヘルマンは、静かに剣を抜いた。

 まだ痛む肩を押さえながらも、その瞳には揺るぎのない意思が宿っている。


「無駄な戦いはやめろ。まもなく俺の部下が駆けつける。……まだ引き返せるうちに、剣を下ろせ」


 しかし、ラオは聞く耳を持たない。

 あざ笑うかのように、唇を歪めて唾を飛ばした。


「”やめろ”だあ? ”やめてください”だろうが、下っ端が。どの口で俺に命令してんだ?」


 声がどす黒く響く。


「俺は監査官なんだぞ。お前も、お前の上司も、俺の報告ひとつで飛ばせる。人事も査定も、全部この手の中だ」


 ヘルマンは、目を伏せたまま静かに首を振る。


「……気づけ、ラオ。お前は間違ってる。どこかで、常識がズレてしまったんだ」


 剣を構えながら、一歩踏み出す。

 その声には怒りではなく、痛みが混じっていた。


「たとえイリュドの民であっても、俺たちと同じ血の通った人間だ。”かつての栄光を再び。イリュドの血を恐怖と沈黙から解き放ち、王国の恩寵と理想を持て新たな光を灯す——”」


 その言葉を口にした瞬間、ラオの顔が歪んだ。


「覚えているか? 王都が掲げた、イリュド復興のスローガンだ。俺達はそれを、自分たちの手で——」

「——知らねえよ!」


 ラオが怒号を上げ、ヘルマンの言葉を断ち切る。

 刃が床を叩き、火花が散った。


「イリュド人なんざ、どうなっても構わねえ! 俺はお前みてえに、あんな連中の女に惚れたりしねえ!」

「……なにを言って——」


 ヘルマンの胸がざわめいた。

 今の言葉に、聞き捨てならない何かが含まれている。


「それは、もう……待て。なぜ……知っている?」


 ラオの口元が、愉快そうに歪む。

 湿った空気の中、その笑みだけが異様に冷たく光っていた。

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