#047
バロックとの死闘から、十数分——。
焦げた匂いと、鉄の臭いがまだ残る建物の一角で、レイジは簡易的に救護班の手当を受けていた。
駆けつけたのは、ミカの手配による《ミレナ地区》担当の騎士団の面々だ。
彼らが現場を押さえ、騒ぎはようやく終息に向かっている。
レイジの怪我は幸いにも、かすり傷と打撲程度で済んでいた。
だが、痛みよりも先に、別の違和感が胸の奥に居座っていた。
——両腕。あの瞬間、確かに自分は切り落とされたはずだった。
焼けるような痛み、血の感触、バロックの視線。すべてがあまりにも生々しかった。
それなのに、今はこうして腕がある。感覚も、力も戻っている。
幻覚か、それとも何かの力か。
狂気に呑まれ、妄想を見たのか。
自分がどこまで正気だったのかさえ、定かではない。
それでも——立ち止まってはいけない。
考えれば考えるほど、底なし沼のように沈んでいく。今は動くしかなかった。
レイジは救護班に軽く礼を述べ、血の滲む包帯を気にも留めずに立ち上がる。
簡易的な救護スペースの外では、ミカが報告を終えたところだった。
「ミカ姉ちゃん。追いかけてきてくれて、ありがとう」
声をかけると、ミカは僅かに肩を揺らした。
その表情は、普段の穏やかなものではない。何かを飲み込むような沈黙があった。
「……もちろんじゃない」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないから……」
言葉の裏に、何かを隠しているのは明らかだった。
けれど、今の彼女を問い詰める余裕はレイジにはなかった。
視線を向けると、血に濡れたバロックが騎士達に拘束され、引きずられるように連行されていく。
その右腕は、応急処置で止血されている。かつて剣を握った腕。
レイジは無意識に拳を握りしめた。
「ごめん、僕、そろそろレイチェルを探しに行かないと。そういえば——ヘルマンは?」
ミカの眉がわずかに動く。
「それが……隊長の行方が分からないの。突然飛び出したっきりで、今アークレーン方面で捜索班は動いてる」
「ヘルマンまで……」
レイジの思考が駆け巡る。
バロックは言っていた——「ここにはいない」と。
その言葉は、嘘ではなかった。あの眼を見れば分かる。
つまり——彼はレイチェルの所在を知っていた。
だが、戦いの最中では、それ以上を聞き出す余裕などなかった。
連行されていく背中に問いを投げるか、一瞬そんな考えも過ったが……現実がすぐにそれを打ち消す。
あの男の口から、これ以上の言葉は出ないだろう。
ならば、自分が動くしかない。
バロックという手札が尽きたのなら、もう一方から攻めるしかない。
レイジは静かに息を整え、表へ出た。
外はどこか苦しいほどの曇天。
昼だというのに光が弱く、濁った雲が空一面を覆っていた。
風が湿っている。雨の匂いがする。まもなく、一降りくるかもしれない。
レイチェルが、この寒空の下で震えている姿を一瞬想像する。
胸の奥にひやりと冷たい痛みが走ったが、すぐに頭を振って打ち消した。弱さは、今は不要だ。
「見てるんでしょ?」
誰に向けるともなく、空へ声を放った。
灰色の雲が、無言でその言葉を飲み込む。
「レイチェルはここにいなかった。……どこにいるか、知ってる?」
沈黙。しかし、次の瞬間——背後に気配が立った。
レイジは反射的に振り向く。
そこにいたのは、彼をここまで導いた長身のローブの男。
音もなく、影のように立っていた。
まるで、最初からそこにいたのに、視界がそれを認識できていなったかのように。
「事態が変わったのだ」
低く、くぐもった声。
男の言葉は淡々としていたが、その奥に確信めいたものがあった。
「バロックを打ち取ったことは見事だ。しかし、ここ少女はいない……。我々は”ある”一つの可能性を掴んでいる。だが、その先に少女がいる確証はない」
レイジは眉を寄せる。
考えている時間などなかった。焦りが理性を削っていく。
「どこでも行くよ。今は手がかりがほしい」
その声は、震えていなかった。自信ではなく、覚悟の響き。
ローブの男はしばし沈黙し、やがて仮面の下で微かに笑ったように見えた。
「ならば——行くぞ」
男が両腕を広げた瞬間、空気が歪む。
視界の端が揺らぎ、地面の輪郭が蜃気楼のように波打った。
空間が、裂けていく。空気が反転し、風が巻き上がり、周囲の音が遠ざかる。
レイジは反射的に息を呑む。
(……空間転移?)
考えるより早く、歪んだ空間が彼を飲み込んだ。
思考が渦に巻かれるように引きずられ、視界がぐるりと反転する。
音も、光も、重力さえも消えて——
そして、レイジとローブの男は、世界から掻き消えた。
* * *
上下も左右も、わからない。
足元の感覚すら曖昧なまま、レイジは空間の中を漂っていた。
耳鳴りがする。風もないのに、鼓膜の中で何かが鳴っている。
まるで沈没しかけた船の中で、自分だけが浮かんでいるような——そんな不安と不快が、じわりと全身を這いあがった。
目の前に、色のない景色が広がっている。
やがて、白が滲み、灰が混じり、曇天の光が差し込む。
重力が戻る感覚に気付いた瞬間、身体が急激に引きずり落される。
自由落下。咄嗟に目を閉じ、衝撃に備える——
だが、地面に叩きつけられることはなかった。
代わりに、温かな腕がその身を受け止めていた。
柔らかな衝撃。そこには、聞きなれた声。
「ヘルマン——⁉」
驚きに目を見開くと師の顔があった。
「なんでここに……?」
「それは、こっちの台詞だ」
ヘルマンは肩をすくめる。
「空から落ちてくるなんてな。その登場の仕方はお前、まるでファンタジーのヒロインだ」
レイジは苦笑いを浮かべた。
自分は主人公でもないし、ましてやヒロインでもない。
ただ誰かを救いたいだけの少年だ。
地面に降ろされ、足に力を入れて立ち上がる。
辺りを見回すと、転移前と似た風景が広がっていた。
曇った空、湿った空気、川の匂い。
距離的には、あの現場の近く——そう直感する。
だが、ローブの男の姿はどこにもなかった。
まるで役目を終え、風に溶けたかのように。
(……あの人は、導くだけが目的だったのか)
レイジは一度息を整え、ヘルマンの背中へ視線を向ける。
「ねえ、ヘルマン。僕、レイチェルを追ってここまで来たんだ。何か、手がかりがあるんじゃないの?」
ヘルマンの瞳が、一瞬だけ揺れる。
その表情に、ほんのわずかな逡巡が走った。
「お前……どうしてそれを」
言いかけたが、すぐに思考を切り替えたように顎を引き、真っすぐにレイジを見据えた。
「レイチェルを、助けたいか?」
「もちろん」
レイジは即答した。迷いのない声だった。
「僕が連れ戻す。……謝らなきゃいけないんだ」
「謝る?」
ヘルマンが眉をひそめる。
「気づいたんだ」
レイジの声は、穏やかだったが芯が通っていた。
「あの子をかくまうだけじゃ、責任を取ったことにならない。本当の自由じゃない。だから今度は、彼女と一緒に——自由な世界を生きてみたいんだ」
その言葉に、ヘルマンの表情が緩む。
大きな掌がレイジの頭にのせられ、軽く髪をかき乱した。
「……流石だな、俺の弟子」
短く、それでも確かな誇りのこもった声。
「お前にしかできないことがある」
「わかってる。だから、来たんだ」
レイジは、迷いのない足取りで歩き出した。
ヘルマンも無言でそれに続く。
二人の影が、倉庫の奥へと消えていく。
その先に待つものがどんな結末であろうとも——
レイジの胸に宿った決意だけは、もう揺らがなかった。




