#046
倉庫内の温度が、一瞬で数度は下がった。
白い息が淡く漂う。
目の前では——かつての友が、氷の彫刻のように動きを止めていた。
ヘルマンは銀色の光を反射する白刃を静かに鞘へと納める。
僅かな金属の擦れる音が、凍り付いた空間に溶けて消えた。
その音を合図に、胸の奥に積もっていた澱のような重みが、ほんの少しだけ和らぐ。
彼は深く息をつき、ゆっくりと辺りを見渡した。
使われていない廃倉庫というのは間違いない。
詰まれた木箱の上には、幾層にも重なった埃が地層のように積み上がり、踏みしめた床には、大小さまざまな足跡が不規則に刻まれている。
——だが、子供の足跡はない。
ラオは言った。「もう引き渡した」と。
あの男の言葉を信じたくはなかったが、状況がそれを裏付けていた。
もし事実なら、もうここにレイチェルはいない。
やつらに報告しておくべきか——そう判断し、ヘルマンは倉庫の入口へと駆け寄った。
乱暴に蹴り破られた鉄扉の隙間から外を覗く。
観測者とローブの集団は、律儀にも外で待機していた。
どうやら、戦いの成り行きを見守っていたらしい。
「おい、中にガキはいたのか?」
観測者が苛立ちを隠さずに声を上げた。
「いない。ラオは引き渡したと言っていた。だが、人の出入りがあった形跡も薄い」
「出入りはないな。俺らもずっと外で見張ってた。動きがあれば、わざわざお前を呼ぶ必要もねえ」
ヘルマンは無言で顎に手を当てる。
別の場所でレイチェルを引き渡し、その足でこの倉庫に戻った?
——いや、それでは辻褄が合わない。
ここに立ち寄る理由があるとすれば、取引はこの倉庫で行われていたということ。
そして、まだ時間はそれほど立っていない。
思考がひとつの線で繋がり始めた。
「中を調べてもいいか? 俺たちも証拠を確認する」
「構わん。ただし——氷漬けのやつには触れるなよ」
「へっ、怖い怖い。俺はお前とやるのはもうごめんだ」
「この件が片付いたら、覚悟しておけ」
観測者が肩をすくめて「はいはい」と適当に返し、ローブの集団がぞろぞろと倉庫へ入っていく。
ヘルマンは外気に頬を冷やされながら、ひとり思考を深めた。
——人攫いの目的は、やはり奴隷売買だ。
年頃の、しかも珍しい金髪の少女。
そうした「希少な商品」を欲しがるのは、変態じみた貴族階級の連中。
だが、イリュドのような辺境に、そんなもの好きがいるだろうか。
この地は今、情勢も不安定。領主でさえ明日の食を案じるほどだ。
——ならば、買い手は別の場所。答えは一つしかない。
安定した収入を持ち、贅沢を享受することに慣れた者たち。
奴隷に手を出す余裕があるのは——やはり、王都。
氷の静寂の中で、パズルの欠片がひとつ、またひとつと嚙み合っていく。
ヘルマンの眼差しが、僅かに鋭く光を帯びた。
ルートの想定が立った。
恐らく、行き先は——王都。
だが、問題はそこからだ。
どうやって、この倉庫から誰にも目撃されずに王都へ向かうというのか。
ヘルマンは再び倉庫の内部を見渡した。
ローブの集団が木箱を持ち上げ、乱雑に積み直している。
現場保存という概念が、彼らには存在しないらしい。
埃が舞い、乾いた木の香りと鉄錆の臭いが鼻をつく。
ヘルマンはふと、視線を床へ落とした。
——物理的な遮断を避ける方法。
もし自分が逃げ道を造るなら、地中を使う。
学生時代に読んだ古い獄中記の一節が、脳裏をよぎる。
地中。
地下水脈。
倉庫。
ラオの言葉を思い出す。
——貿易商の父親。
——倉庫の所有者。
——川沿い。
その瞬間、稲妻のように閃いた。
ヘルマンの目が、自然と天井を見上げ、それから壁へ、そして床へと移動する。
視線の先で、いくつかの木箱が不自然に積まれていた。
他と違い、埃が薄い。最近、動かされた形跡がある。
彼は静かに近づき、箱をそっと動かした。
——そこにあったのは、鉄製の蓋。
誰にも見られずに王都へ行く方法——それが、ここにあった。
「……おい。手がかりがあったぞ」
声を上げると、ローブたちが一斉に振り返る。
同じ仮面をつけた集団がぞろぞろと集まってくる光景は、何度見ても不気味だ。
ヘルマンは軽く眉をひそめながら、床を指した。
「ここだ。マンホールだな。構造的に見て、雨水を川へ流す排水口の一部だと思う」
「それがどうしたってんだ」
観測者が眉をしかめ、面倒くさそうに覗き込む。
「どうして屋内にそれを設ける? しかも見ろ、鍵付きだ。まるで封印でもしてるような造りだ」
観測者は一瞬黙り、やがて鼻を鳴らした。
「隠してますって言ってるようなもんだな」
ヘルマンは短く頷いた。
「知っているか。イリュドに下水道を整備した際、王都は自分たちの都合を優先した。——王都とイリュドの下水は、地下で繋がっている。仮に王都に大雨が振っても、氾濫は全部イリュド側に押し流されるようにな」
「へっ、都合のいい話だな。……ってことは、この下水は王都まで続いているってわけか?」
「正確には、入り組んだ迷路と一緒だ。適当に入れば、迷って二度と戻れん」
「じゃあ、攫った奴らも迷うんじゃねえのか?」
「普通なら、そうだ。だが——ラオは違う」
ヘルマンは静かに視線を落とす。
「彼はこのルートを”使わせていた”んだ。地頭の良い男だった。思いつけば即座に行動に移す。何度も往復し、完全に把握してたのだろう」
「なるほどな。毎回使ってるルートなら、迷わずに通れるんじゃないかってことか」
「そういうことだ。ラオがここに残っていた理由も説明がつく。取引の実行、奴らが確実に王都に向かったことを確認し、最後に倉庫の戸締りをして……それで終わりだ」
淡々と告げながらも、ヘルマンの声には冷たさよりも、微かな悲しみが滲んでいた。
善は急げ。ヘルマンは迷うことなく、手をマンホールにかけ、蓋を持ち上げようと試みた。
だが、鍵付きの鉄蓋はびくともしない。
仕方がない。とヘルマンは右手に魔力を集中させ、力を溜めた。
「魔圧拳——」
轟音とともに空気が振動し、倉庫全体が微かに揺れた。
観測者やローブの集団が、一瞬たじろぐ。
鉄製の蓋が歪み。へしゃげ、ようやく人ひとりが通れる大きさの穴が姿を現す。
悪臭が鼻を突き、雨水の臭いと鉄錆の混じった匂いが鼻腔を刺激した。
中からは、僅かに流水の音が響く。
——直感でわかる。下手に流れ、傍の川へと繋がっている。
しかし、視線を中に寄せた瞬間、ヘルマンは鼻の付け根にしわを寄せた。
そこには、瓦礫が詰まっている。
観測者も顔を覗き込み、眉をひそめる。
「ああ? なんで瓦礫がつまってんだ」
ヘルマンは目を細め、瓦礫の配置を慎重に観察した。
——人攫いも察して、これが最後のつもりでルートを内側から破壊したのかもしれない。
よく目を凝らすと、僅かに隙間があることに気付いた。空気が僅かに通っている。
「流石に細身の俺でも、この小さな隙間は通れねえな……」
観測者が中を覗き込んだが、すぐに諦めたようで顔を上げた。
——子供なら、通れるだろうか。
思考が瞬時に整理される。
瓦礫は完全には塞がれていない。
子供なら、可能性はある。
彼の胸中に、わずかな希望が灯った。
焦りも恐れもない。論理と観察だけが、次の行動を指し示している。




