#045
廃倉庫の中に、重く湿った空気が漂っていた。
打ち捨てられた木箱と錆びた鉄の匂い。
天井の隙間から差す光が、積もった埃を鈍く照らしている。
その中央に、ヘルマンは立っていた。
視線の先には、訓練院時代からの同期であり、今は騎士団監査官を務めている男——ラオ・パイクの姿があった。
観測者は言った。この現場には、もう一人の実行犯がいると。
もしそれがラオであば、これは単なる犯罪ではない。
騎士団の交換を揺るがす、内部崩壊の火種だ。
ヘルマンは深く息を吸い、呼吸を整えた。焦れば見誤る。
だが、迷っても遅い。
言葉を選び、慎重に事実を掘り下げる必要があった。
沈黙を破ったのは、ラオの方だった。
「なんだ、お前かよ。びっくりさせんな。いや、悪いな。あれだ、決してここで仕事をさぼっていたわけじゃあねえんだぜ?」
軽い調子で笑ってみせるものの、声の端が震えている。
ラオの顔には不自然な脂汗が浮かび、目線が泳いでいた。
かつての仲間として、ヘルマンはそのわずかな変化を見逃さなかった。
「ここに——子供がいるんじゃないか」
ヘルマンの低い声が、倉庫内の空気を切り裂いた。
その一言で、ラオ表情が硬直する。
眉がぴくりと動き、息が詰まったような沈黙が落ちる。
「……お前、何でそのことを知ってる?」
声に含まれた微かな怯え。
それだけで、十分だった。答えはもう出ている。
ヘルマンは腹に力を込め、「どこだ」と怒号を放つ。倉庫の壁が震えるほどの響き。
ラオが一瞬肩を跳ねさせたが、次の瞬間には乾いた笑い声をあげた。
「なんだよ、もうバレてんのか⁉ バロックの野郎、偉そうに言っておきながらしくじったのか」
その笑いは、もはや善人のものではなかった。
ヘルマンの胸中で、わずかな悲しみが生まれる。
かつて同じ机を並べ、理想を語り合った男が、いまやこんな有様か——。
だが、感情で判断を誤るわけにはいかない。
彼は騎士なのだから。正義を名乗るなら、過去の情も切り捨てねばならない。
「ラオ……お前が、裏で糸を引いていたのか」
低く押し殺した声。怒りよりも、確認の意図が強かった。
「……ヘルマン、お前ひとりでここに来たのか?」
「そうだ。騎士団の者は誰もいない」
倉庫の外には、ローブの一団が待機している。
一時的な協力関係ではあるが、ヘルマンの中に彼らへの信頼はなかった。
彼は常に孤立無援である覚悟をしていた。
「そうか、それはよかった。ここはな、貿易商の親父の持ち物なんだよ。もう四十年は使っている。物量が多い割に、ほとんど稼働はしてねえんだよ」
ラオは突然、どうでもいい話を始めた。
倉庫の来歴など、この状況で何の意味がある? ヘルマンは眉をひそめ、言葉を切る。
「何が言いたい? 俺の話を聞け、ラオ」
しかしラオはその静止を無視した。唇を歪め、愉快そうに続ける。
「埃も多い。そうだ、こうしよう。降り積もった埃に静電気で引火し、倉庫は全焼。たまたま偶然居合わせた騎士が一名殉職だ」
両手を広げ、ふざけた道化のように踊り出す。
狂気とも、開き直りともつかぬ笑いが、倉庫の奥にこだました。
ヘルマンはその姿を静かに見つめ、抑揚のない声で名を呼んだ。
「ラオ……」
昔のように、互いを信じた名の呼び方。だが、もうその響きに友情はない。
「わかるか? お前一人くらい、ここで消えても誰も知ったこっちゃねえってことだよ!」
その瞬間、ヘルマンの中で何かが静かに切れた。
怒りではない。——それは覚悟の音だった。
彼の胸を支配するのは、劇場ではなく冷徹な決意。もはや言葉は不要だった。
拳が僅かに震える。だが、それは恐怖ではない。
長年信じてきた正義が崩れ落ちる音を、拳で押し殺しているだけだ。
ラオが腰の曲刀を二本、金属音を響かせながら抜き放った。
刃が鈍い光を反射し、男の瞳に宿るのは狂気——もはや理性も誇りも残っていない。
それでもヘルマンは、最後まで信じたかった。
彼が、また「人」であることを。
ゆっくりと、自身の剣に巻かれていた布をほどく。
古びた布が床に落ちる音が、妙に静かに響く。
懐かしい、冷たい感触が掌を伝った。
訓練院の頃、互いに剣を交えた日々——笑いあった記憶が一瞬よぎる。
今、それを断ち切る。
過去も、情も、すべて。
鞘から抜かれた白刃が、倉庫の暗闇を裂くように光を反射した。
「俺はな!」
ラオが叫んだ。声は濁り、恨みと狂気が入り混じる。
「お前のことが、最初っから大嫌いなんだよ!」
縦に身体を回転させ、曲芸のような軌道で斬りかかってくる。
曲刀が空を切り裂く音。
ヘルマンは一歩踏み込み、白い刃を僅かに添わせるようにして受け流す。
衝突の火花が散り、金属音が耳を制した。
「なぜ、子供を攫った?」
問う声は、低く静かだった。怒りを通り越した者の声。
「攫っただあ⁉ 俺は道に落ちてたもんを拾って金にしただけだろうが!」
ラオが歪んだ笑みを浮かべる。
「それを横取りしやがったのは、お前んとこのクソガキなんだよ!」
「バロックとは、どんな関係なんだ」
「冥土の土産に教えてやると、あいつは元は俺が委託した人攫いの用心棒さ。でもな、あいつの失敗のせいで取引は中断。その責任を取らせただけだ」
淡々とした言葉の裏に、何の罪悪感も感じられなかった。
ヘルマンは剣を握る手に力をこめる。
「ラオ、どうしてこんなことに……」
「お前はいつも俺の邪魔をする!」
ラオの叫びが倉庫に木霊する。
「訓練院でも、ずっとムカついてたんだよ! ようやく消えたと思ったら後からのこのこ騎士団に入って来やがって、目障りなんだよ。ロクに何も守れねえくせに正義を語ってんじゃねえよ!」
「お前は騎士団になぜ入ったんだ」
「ああ? んなもん、親のコネを使ってのし上がるためだろうが!」
ラオはわらう。
「こんなゴミ溜めで毎日過ごすつもりはないんだよ!」
「ゴミ溜め……か」
「ゴミなんだよ、イリュドなんてもんは! ゴミ以下だ。一緒になって生活してるお前らも含めてまともな人間じゃねえんだよ! 俺はもう、こんなとこ、うんざりなんだよ!」
怒声と共に、ラオの剣撃が苛烈さを増す。
空気を裂く音が続き、ヘルマンは後退しながらも的確に受け流していく。
互いの刃が打ち合うたびに、床の埃が舞い上がり、息を吸うだけで喉が焼けた。
ヘルマンの瞳が、氷のように冷たく光る。
「そうか。お前がどう思っているか、全部聞けて良かった」
わずかに唇が歪む。
「——凍っちまったら、しばらく聞けないからな」
「ああ⁉」
ヘルマンは静かに息を吐き、低く呟いた。
「元素術——氷結牙」
倉庫の温度が一瞬で下がる。
白い息がヘルマンの口から漏れ、空気がきしむような音を立てた。
白刃の表面から、冷気が脈打つように走り、瞬く間に氷の紋様が広がっていく。
「これは……元素術⁉ お前、そんなの一度も使ったこと……」
「ああ、ないさ」
ヘルマンの声が静かに響く。
「これが二度目になる。以前は——何一つ守れなかったからな」
ラオの動きが止まる。
背筋に走る寒気が、本能の恐怖を呼び覚ました。
「レイチェルはどこだ。答えれば、命は助けてやる」
「馬鹿が、もう引き渡したあとだよ。お前はどんなに努力しても、何も守ることなんてでき——」
その言葉終わるより早く、ヘルマンの剣が青白く光った。
白刃が媒介となって魔力が一気に放たれる。
瞬間、氷の花が咲くように、ラオの身体が凍りついた。
その表情は、歪んだまま閉ざされる。
ヘルマンはゆっくりと剣を下ろし、白い息を吐いた。
——もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
その静かな誓いだけが、倉庫の冷え切った空間に残った。




