05:『水晶占い今日のラッキーカラーは?』
ヘルマン・クロスが嬉しそうに水晶を掲げると、卓上に小さな座布団を敷き、丁寧に置いた。
その仕草は普段の豪胆な騎士の姿からは想像しづらく、レイジは思わず首をかしげる。
隣で三つ編みの娘ミカも同じように不思議そうにのぞき込んだ。
「隊長、これなんですか? 透き通っていて綺麗。初めて見ます」
「ただの水晶だよ。ただ、面白い使い方がある」
ヘルマンが大きな左手を水晶に当てる。
その瞬間、透明だった水晶の奥に翡翠色の渦がゆっくりと巻いた。
レイジは息をのむ。無機質な塊が、まるで生き物のように反応する光景に、胸が高鳴った。
「すごい! 魔力に反応してるんですかね」
「いい着眼点だ。魔力の”濃度”によって渦に影響が出る。昔はこれで、どんな特性を持っているかを見極め、教育方針を決めたりしたんだ」
淡々と説明するヘルマンの横顔は頼もしく、レイジは言葉以上にその落ち着きに説得力を感じた。
ミカの瞳がきらきらと輝く。
ヘルマンが手を離すと、すぐさま「私もやってみたいです!」と身を乗り出し、両手で水晶を抱えた。
数秒後、水晶は確かに翡翠色を帯びたが、その渦は小さく、どこか物足りない。
「なんか地味かも」
ミカが顔をしかめて口を尖らせる。
その横でレイジは、今の自分ならどう映るのだろうと胸の奥がざわめいた。
期待と、不安と——少しの怖さが入り混じり、水晶の淡い輝きがやけに眩しく見えた。
その時、プレハブの入口からぬっと男が顔を出した。
「やけに楽しそうだな小隊長。ここは学生寮なのか?」
聞き覚えのあるその声に、レイジは反射的に振り向く。
自然と視線は男の割れた顎に引き寄せられた。
数日前、ヘルマンに嫌味な態度をとっていた男——間違いない。
「部下とのコミュニケーションは上司の仕事でもある。現場では信頼関係が連携を生むんだよ、ラオ」
ヘルマンが少し強い口調で返す。
普段は飄々とした彼の声色が硬くなり、室内の空気がひりついた。
ラオと呼ばれた男は長髪を束ね、唇の端に薄い笑みを刻んでいる。
だがその目は冷たく、挑発の意図しか感じられなかった。
「職務怠慢で通告してやろうか? 少なくとも部下は遊んでいるわけだしな」
まただ。相変わらず嫌味ばかりを吐く。
レイジの眉間に自然としわが寄る。
「ミカ、職務中邪魔して悪かったな。俺達はもう引き上げる。職務の継続を頼む」
ヘルマンが静かに言葉を置く。
なぜこんな男に素直に従うのか——レイジの胸に疑問が浮かぶ。
しかしその答えを探す前に、ヘルマンは一歩前へ進み、自然にレイジとラオの間に割って入った。
「それに拠点に無関係のガキを連れてくんな。そいつだな? 噂の最近拾ったイリュド人のガキってのは」
ラオの口から吐き捨てるような言葉。
聞き慣れない響きに、レイジはヘルマンの背後から顔を出した。
「イリュド人ってなんですか?」
その素直な問いに、ラオの眉がぴくりと動く。
「お前みたいなスラム育ちの汚えやつのことだよ」
吐き捨てる声は刃物のように冷たく、レイジの胸にざらりとした違和感を残した。
「やめろ、ラオ」
ヘルマンが低く制する。しかしラオは鼻で笑った。
「ああ? 小隊長が監査官に口答えすんじゃねえよ」
なるほど——と、レイジは妙に納得してしまった。監査官。
現場を見回り、粗を探して咎める役職。嫌われる人間ほど、そういう立場に収まるものだ。
「あのー。町の人も僕も目の色や肌の色、髪の色が違いますよね? 同じ起源をもつ統一の民族とは思えないんですけど」
ただ思ったことを言っただけだった。
だがその無垢な疑問が、逆にラオの神経を逆撫でした。
「イリュド人のガキが分かったようなこと言ってんじゃねえよ。誰のおかげで治安が護られてると思ってんだ?」
荒げた声に、レイジの心臓がどくりと跳ねる。だが止まらなかった。
「なるほど、わかりました。差別ですね。この世界のことはよく知りませんけど、住んでいる場所で差別をしている? あれ、でもおじさんも騎士団ならここに住んでるんですよね? じゃあ定義としては同じイリュド人なんじゃ——」
最後まで言えなかった。
ラオの蹴りが目の前に迫る。
反射的に目を瞑ったが、衝撃は来ない。
おそるおそる目を開くと、ヘルマンが木剣を振るって軌道を受け止めていた。
「やめろ、ラオ。俺を怒らせて何がしたい――」
低く響いた声は、今まで聞いたことのないほど鋭く張り詰めていた。
ヘルマンの背中が、いつもよりもずっと大きく、頼もしく見える。思わずレイジは息をのんだ。
一瞬で場の空気が凍り付く。
ラオの目が細くなり、互いににらみ合う。
数秒の沈黙ののち、ラオは小さく舌打ちをして折れた。
「フン、あまり拠点内をうろつかすなよ」
捨て台詞を残し、不満げに踵を返す。
足音が遠ざかるにつれて、ようやく胸を圧迫していた重さがほどけていった。
「私、あの人キライです。偉そうだし、女の子にはいやらしい目つきだし」
ミカが両肩を抱いて身震いする。
その仕草からは、言葉以上の嫌悪感が伝わってきた。
ヘルマンは木剣を下ろし、わずかに息をつく。
「レイジ、ミカ。騒がせてすまないな」
怒りを抑え込もうとしているのがわかった。
――この人は、自分のために怒ってくれる。
そう思うと、胸の奥に安心感が灯った。レイジはこっそりと拳を握りしめる。
「どこにでも嫌味な人っているもんなんですね。僕も前の職場で……」
口にした瞬間、言葉が喉で途切れた。
前の職場――そう言ったが、自分は記憶を失う前に何をしていたのだろう。
働いていたのか、それとも……。
疑問は残ったまま。
思い出そうとしても、霧の中を手探りするように掴めない。
今は追いかけても答えは出ない――そう自分に言い聞かせ、レイジは小さく息を吐いた。
その時、ヘルマンが声を落とした。
「切り替えて、本題だな。レイジ、この水晶でお前の魔力を見たかったんだ」
促されるまま、レイジはテーブルへ歩み寄り、両手で水晶を包み込む。
ひんやりとした感触。だがその奥から、じわじわとざわめきのような熱が伝わってきた。
翡翠色の光がゆらぎ、水晶の内部で渦を巻きはじめる。早く、深く――。
まるで小さな宇宙がそこに生まれていくみたいで、レイジはただ「きれいだ」と思った。
やがて渦は濃さを増し、緑から黒へと変質していく。
それでもレイジは特に危機感を抱かない。これはきっと、そういうものなのだろうと。
――次の瞬間。
小さな破裂音が鳴り、水晶は粉々に砕け散った。
破片が光を散らして宙を舞い、視界が一瞬白く弾ける。
「っ!」
レイジは反射的に目を閉じた。隣でミカが身をかがめ、椅子がきしむ音が耳に届く。
「割れた!? 二人とも、ケガはないか」
ヘルマンの声が鋭く響く。慌てた気配が隠せていない。
レイジは自分の鼓動が早まっているのを感じながら、水晶の欠片を見下ろした。
「……僕、壊しちゃいました?」
だが返ってきたのは、ヘルマンのきしんだ吐息と、ミカのぎゅっと握りしめた手だけだった。
二人の無言は、レイジの胸に小さな冷たさを残した。
これがただの破片で終わるのか——それとも、何かが動き始めるのか。
答えは誰にも分からなかった。