#042
突如現れた宿敵。そして、この事件に関わる観測者。
あまりにも多くの情報が一気に押し寄せ、ヘルマンの思考は熱を帯びていた。
脳が焼けそうなほどの混乱。
それでも、優先すべきことはひとつ——室内の部下を巻き込まないことだ。
ヘルマンは飛び出したままの玄関の扉を足で器用に閉めた。
閉まりきる音を背で確認し、姿勢を崩さぬまま下手から左足を素早く蹴り上げる。
空気を切り裂く鋭い音。
観測者は反応しきれず、もろにその一撃を受け、外壁を突き破って吹き飛んだ。
土煙が上がり、破片が舞う。
しかし、背後のローブの集団は動かない。
まるで無関心のように、ただ成り行きを見ているだけだった。
「いてえな、俺はまだなんもしてねえだろうが」
観測者が、脇腹を押さえながら埃を払って立ち上がる。
「危険組織を事前に把握して潰すのも、騎士団の仕事なんだよ……。三秒以内に答えろ、カリナはどこだ」
ヘルマンは低く構え、拳を握り込んだ。
丸腰であろうと関係ない。
騎士とは、守るために立つ者だ。
「おいおいおい、バチバチ臨戦態勢かよ。やめろって。今日はお前とやり合ってる暇はねえんだよ」
観測者は苦虫を嚙み潰したような顔をした。本気で戦うつもりはないらしい。
「だったら何をしにきた。お前たちがカリナやレイチェルを連れ去り、レイジを巻き込んだんだろう」
ヘルマンの声には鋼のような緊張があった。
怒りも疑念も、すべて押し殺し、ただ確かめようとしている。
目の前の男が敵か味方かを。
「連れ去られたガキと女を助けてえんだろ、不本意だが協力してやるつってんだ」
「……何を、言ってるんだ?」
ヘルマンの拳が僅かに緩む。
混乱が一瞬、怒りに取って代わった。
「やっと話を聞く気になったか」
観測者が、ようやく安堵の表情を見せる。額に汗が滲むのが見えた。
「ったく、いきなり蹴りやがって。覚えとけよ? せっかく女が連れ去られた時、いの一番に騎士団に通報してやったのによ。この扱いはひでえもんだぜ」
その言葉い、ヘルマンの中で一つの違和感が解けた。
——あの時、誰が通報したのか。
彼が現場に到着した時、レイジは室内におり、周囲は静まり返っていた。
事の発端となった、騎士団に通報した人物の正体がわからなかった。
今、ようやく繋がった。
「お前たちはこの件、何をどこまで知っている? すべて見ていたのか?」
「少なくとも俺が直接見てたわけじゃねえから、俺を蹴り飛ばすのは筋違いだっての」
「レイジのことも、お前達は把握しているのか?」
「早速質問攻めかよ。ああ、男のガキは今バロックとやり合ってるな」
その瞬間、心臓を握られたような感覚が走る。
ヘルマンの目が大きく見開かれた。
バロック——あの危険人物と、レイジが。
衝撃が走る。
「どこだ⁉ レイジはどこにいる!」
ヘルマンは観測者の両肩を掴み、揺さぶった。声が震えていた。
観測者は一瞬、言葉を詰まらせた。
逡巡ののち、重い口を開く。
「そっちはもう終わった。その場にお前の女もいたが、俺達の方で安全も確保済みだ。信用してくれていい」
「カリナ……」
その名を口にした途端、ヘルマンの表情がわずかに揺らいだ。
安堵と不安、怒りと焦燥。すべてが胸の奥で絡み合う。
だが、立ち止まる暇などない。
まだ救えるなら、まだ間に合うのなら——。
その一念が、ヘルマンの全身を貫いていた。
「お前には、もう一人の実行犯の元へ行ってもらいたい。俺達は表立って動けないしな」
「……もう一人?」
一語が、熱を帯びた思考の間に落ちる。
情報がさらに上書きされ、既に沸騰寸前だった頭がさらにかき混ぜられる。
「まだわかんねえのか? 馬鹿じゃねえの。いいか、女とガキは同時だが別々に連れ去られている。しかも、拠点でそれぞれの人質が入れ替わってる」
「……なぜ、そんなことになる?」
問いに観測者は肩をすくめるばかりだ。満足のいく答えは期待できない。
「俺に聞かれても知らねえよ。でも、バロックの野郎を押さえただけじゃこの件が終わらねえのは確かだ。一人の方に女のガキがいるはずだ。本当は騎士団のお前に見せたくはねえが……俺らの転移能力でお前をもう一人の実行犯の元に連れて行く」
観測者は一人、顎で合図すると、周囲のローブの人物の中からひとり、両手を掲げる。
空間が歪み、揺らぎが生まれた。
光の屈折のように周囲がぶれる。
「場所がわかってるのか」
「当たり前だろ?」
言葉の間にも、ヘルマンの内部では数々の可能性が暴れた。
だが、今は推理する時間ではない。行動が優先だ。
「お前達の目的はなんなんだ。魔獣や魔人。イリュドで一体……何が起こっている」
「今は関係ないだろうが。今だけ力を貸してやるつってんだ。いいから協力しろ。じゃ、いくぜ」
「待て、まだ話は――」
言葉が途切れる。
観測者がそっとヘルマンを歪んだ空間へ押し込むようにする。
体が引き延ばされるような違和感、視界が回転する。
喉に酸味が上がるが、咄嗟に飲み込み、理性を保とうとする。
一瞬——たった一秒で世界は切り替わった。
鼓動が耳に響く。
水の奔流が耳を打つ。
ここは河川沿い。大きな倉庫が並ぶミレナ地区の岸部だと直感した。
「この中に、もう一人の実行犯がいるはずだ」
観測者の声が背後から聞こえ、ヘルマンは振り返る。
その手には、丁寧に布で包まれた剣があった。
見覚えのある、懐かしい形状。
それは、騎士団の拠点に保管されていたはずの——ヘルマン自身の”魔武器”だった。
足元に伝わる風景の変化を確かめるまもなく、記憶が押し寄せる。
過去の失敗、抜け落ちた判断、守れなかった顔。
胸の奥に刺さる痛みが、ひとつの決意へと変わる。
——もう同じ過ちが繰り返さない。
「これは……」
指先が布ぬ触れ、冷たい感触が掌に伝わる。
長く封をしていた金属のざらつき。
数年ぶりに自分の手に戻ったその重みが、ヘルマンの背筋を伸ばさせた。
恐れではなく覚悟が、全身を満たしていく。
「準備はぬかりねえ。たくさんあってどれがお前のかわからなかったが、一番の良さそうなのを拝借しておいたぜ」
観測者の借る愚痴にも、今は苛立ちに満ちた笑みでしか返せない。
だが言葉よりも、剣を握る感覚が確かなものを与えてくれた。
かつての失敗が一瞬脳裏をよぎる。
その記憶は、今は戒めであり、力でもある。
呪われた剣であろうとも、あるいはそれが何であろうとも——今、振るうべき剣はこれだ。
「いや、これでいい」
護るべきものがそこにいる限り、ヘルマンは剣を取る。
拳を固め、短く息を吸った。
胸の奥にたまった焦燥を、一息で押し殺す。
迷っている暇はない。
あの中に「もう一人の実行犯」がいる。そう信じて、一歩を踏み出した。
目の前の倉庫へ、一歩を踏み出した。
「入口を破壊するから突入しろ。いいな——魔圧蹴」
観測者が淡々と告げ、右足に翡翠色の魔力をまとわせる。
次の瞬間、鋭い音と共に空気が爆ぜた。
蹴りが鉄扉を叩きつけ、金属が悲鳴のような音を上げる。
巡行な扉はまるで紙細工のように歪み、中心からめり込むように避けた。
その一瞬の隙を逃さず、ヘルマンは踏み込む。
魔武器を片手に、肩をすくめるように身を滑り込ませた。
視界に広がるのは、長年放置された倉庫特有の埃と鉄の匂い。
光の届かぬ薄闇の中で、物音ひとつがやけに響く。
「……誰だ!」
暗がりの奥から声が飛ぶ。
低く、しかしどこか動揺を含んだ声だった。
ヘルマンの足が止まる。
胸の奥で嫌な予感が弾けた。
この声を、彼は知っている。
信じたくない。だが、聞き間違えるはずがない。
「お前——ここで何をしている。……ラオ・パイク」
ゆっくりと目が病みになれ、姿が浮かび上がる。
そこにいたのは、騎士団監査部所属の男。
規律を盾に他者を断罪することで知られた同僚。
この状況で会うことなどありえない人物だった。




