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#040

 立ち上がった“黒いそれ”は、まるで野に潜む獣のようだった。


 ゆらりと身体を揺らし、様子をうかがうようにバロックを見つめている。


 音を発した。


 鳴き声なのか、吐息なのかもわからない。


 人の喉から出る音ではなかった。


 リズムを刻むように、規則的に——まるで心臓の鼓動のように。


 黒いそれは、猿のように両腕を床につけ、背を丸めた。


 顎が、異様な角度まで開く。


 関節の限界を超えて、口が裂けていく。


 喰らう気配——。


 餌をねだる動物の姿が、一瞬、脳裏をかすめた。


 だが違う。これは“生き物”ではない。


 瞬時に判断を下したのは、剣士としての本能だった。


 バロックは身をひるがえし、左へ跳ぶ。


 わずか一メートル。


 その一瞬の差が、命を分けた。


 直後、彼が先ほどまで立っていた空間を、見えない何かが通過した。


 空気が裂け、轟音が壁を叩く。


 外壁が一瞬で砕け、石片が雨のように降り注いだ。


「……!」


 目を細め、瓦礫の隙間からその軌跡を追う。


 理解が追いつかない。


 あの黒いもの——口から、魔力を放ったのだ。


 魔力とは、生きようとする力そのもの。


 剣士はそれを刃に込め、肉体を強化し、あるいは斬撃に転じる。


 応魔七式《魔圧撃》のような例外を除けば、魔力を“そのまま放つ”などありえない。


 放つとしても、それは剣を媒介にした衝撃波だ。


 ——なのに。


 あれは、生の魔力を、口から直接吐き出した。


 ゴクリ、と喉が鳴る。


 乾いた音が、自分の耳にやけに大きく響いた。


 (人か……いや、違う。魔獣……? それとも……)


 思考が途中で切れた。


 異形はもう次の動きを見せていた。


 わずか一秒の間もなく、再び口が開く。


 純粋な魔力の塊が、弾丸のように連続して放たれた。


 床が爆ぜ、空気が焼ける。


 バロックは反射的に下半身へ魔力を流し、地を蹴る。


 跳ぶように、滑るように、回避する。


 だが、追いつけない。


 飛来する光弾は、目で追える限界を超えていた。


 着弾の瞬間になって初めて、ようやくその弾道を視認できる——そんな速度だった。


 壁を貫通し、地面をえぐり、破片が背を掠める。


 熱気が皮膚を焦がした。


 (俺は今……何を相手にしている……?)


 呼吸が乱れる。


 汗が滲む。


 剣を握る手が、わずかに震えていた。


 眼前の“黒いもの”は、もはや人の形を保っていない。


 だが確かに、殺意と意志を持ってこちらを見ていた。


 ——それは、地上の理から外れた“存在”だった。


 バロックは壁を蹴って軽やかに天井へ跳躍し、そのまま張り付いた。


 獣のように動く黒い影が、下でうねりながら煙を吐き出している。


 視線を左右に巡らせ、音を探るように。まるで目が見えていないかのような動きだった。


 標的を見失ったのか。


 いや、違う——あれは、嗅いでいる。


 鼻の奥を焼くような、焦げた魔力の匂い。


 黒い体、煙のような呼気、そして——明らかに“理”を外れた挙動。


 バロックの中で、ある仮説が形を成した。


 ——《裏魔力》。


 それは、人が生まれながらに内包するもう一つの力。


 生の衝動、精神力そのものを燃料とする、禁忌の魔力。


 扱える者は限られ、そして多くは、自我を代償にしてその力を得る。


 バロックもまた、若き日の修行でその門を叩いたひとりだった。


 だが、裏魔力は魔力とは異質のものだ。


 強大であるがゆえに、人を喰う。


 精神を、人格を、肉体すら侵す。


 ——だからこそ、扱う者は門を制御しなければならない。


 必要なときだけ、わずかに開く。


「仕方ないか……——混合状態コンフルエンス


 低く呟いた瞬間、バロックの全身に微かな震動が走る。


 精神を一点に集中し、心の奥にある“門”をそっと押し開けた。


 裏の力が、ひやりと流れ込む。血管を逆流するような冷たい感覚。


 同時に、左の瞼が開かれる。


 かつて裏魔力に侵され、光を失ったその目は、今や世界の“流れ”だけを映す。


 光ではなく、力の軌跡。


 黒い文様が、心臓を中心にじわりと浮かび上がる。


 皮膚の下を這うように広がっていくそれは、まるで意志を持つかのようだった。


 裏魔力には、裏魔力をぶつける他に道はない。


 そう理解しているからこそ、バロックは恐れずに踏み込む。


 それでも、わずかな狂気が心の端をかすめた。


 ——この戦いを終えたとき、自分はまだ“人”でいられるのか。


 混合状態コンフルエンスは、長く使い続けられる性質のものではない。


 門を開けば、裏の力は歯止めなく押し寄せる。短期決着以外に道はない。


 狙いを定め、バロックは天井を蹴った。


 裏魔力で強化された跳躍は、黒いものの認識よりも速く舞い降りる。


 剣閃が始点から終点へと一直線に振り下ろされ、左腕が根元から断たれた。


 金属音と肉の裂ける音が同時に響く。


 止まらない。バロックは間髪入れず剣に裏魔力を収束させ、追い打ちの一閃を放つ。


 刃は胴を切り裂き、深い裂け目を残した。


 効いている——確信が胸を満たす刹那。


 だが、それは瞬時に裏返された。


 断たれたはずの胴体は黒い何かに揉まれるようにして瞬く間に再生し、同時に右腕が異様に肥大する。

 筋肉ではない――魔力の“塊”が皮膚を押し広げ、肉体を強化していた。


 一撃が、バロックを剥ぎ取った。


 全身を掴まれ、勢いよく振り飛ばされる。


 壁にめり込み、胸の奥から空気が抜けた。


 衝撃で頭が揺れ、世界が揺らぐ。


 気づけば、切り落としたはずの左腕までが黒い触手となってよみがえり、壁際から連続でバロックへ打撃を叩き込んでくる。

 

 岩を叩くような鈍い一撃、骨を砕くような重圧。


 通常の肉体ならば粉砕されているだろう――だがバロックは精神を研ぎ、裏魔力で肉を繋ぎ止めるように耐えた。


 衝撃が通り過ぎた僅かな隙をついて、反撃を決める。


 裏の力を再び剣に共鳴させ、空気を裂く二重の斬撃を放つ。


 音よりも先に存在を切り裂く刃、感じるよりも速く刺さる衝撃。


 自分の全てを込めた技だ。


 しかし、その斬撃を──避けるでも受け止めるでもなく、相手はただこちらへ向かってきた。


 丸めた拳を、まるで斬られた腕の代わりのように振り上げて。


 バロックはそこで気づく。


 恐怖が胸を満たすのではない。


 相手にとって“切る”ことも“斬られる”ことも意味を持たないのだ。


 これに感情はない。


 ただ破壊衝動と意思が直線的にこちらへ向かってくる。


「遅いのは、俺の方か……」


 その事実が、剣士の誇りをひりつかせる。


 理屈が通じない相手に対し、刃を振るう意味はどこにあるのか。


 だが、闘う以外に道はない——矜持がそこにある限り。

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