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#039

 空気が張り詰めた。


 まるで空間そのものが刃になったかのような圧迫感。


 殺意の視線が、レイジの動きを一寸の狂いもなく追い詰める。


 反応が一瞬遅れた——その刹那、バロックの一撃が叩き込まれた。


 息が詰まり、膝が折れる。


 剣が手から離れ、金属音を立てて床を転がった。


 だが、レイジはすぐにそれを拾い上げ、床に突き刺して支えにした。


 杖のように使って膝を立て、荒い息をつきながら立ち上がる。


 握った手が震えている。鉄の剣は重い。


 そして、魔圧撃も思うように飛ばせない。


 重心も、タイミングも、わずかにズレる。


 ——ならば、力で勝てないなら、動きで崩すしかない。


 レイジは床から剣を抜くと、勢いよく右へと駆け出した。


 靴底が粉塵を散らし、反射する光が視界をちらつかせる。


 狙うは常に死角。


 バロックが左眼を閉じている以上、そこにこそ勝機がある。


 レイジは走りながら、腕の重さに逆らうように片手剣を何度も振るった。


 その度に、刃先から魔力の斬撃が生まれる。


 複数の軌道、乱数のような動き。規則性をなくし、予測を狂わせる。


 型破りな攻撃なら、あるいは——。


 希望は、すぐに打ち砕かれた。


 バロックの動きには、一片の迷いもない。


 飛び交う斬撃を、まるで小さな虫でも払うかのように切り払い、弾いていく。


 彼の剣筋は流れるようで、機械のように正確だった。


 そして、弾かれた斬撃は反射のように軌道を変え、レイジ自身に迫る。


 だが、視認はできた。


 軌道が見える。威力も半減している。


 レイジは身体をひねり、地を滑るようにそれらを避けた。


 空気が頬を裂く。髪を数本、熱風が持っていった。


 息を吐く間もなく、視界が暗転する。


 ——バロックの姿が、目の前にあった。


「……!」


 着地の瞬間には、もう間合いを詰められていた。


 スローモーションのように見える。


 バロックの手元に視線を落とすと剣を鞘に戻していた。


 なぜ、今このタイミングで——。


 前世の記憶が、脳裏に警鐘を鳴らす。


 見覚えがある。この動き——。


 抜刀術だ。居合い切り。


 抜く瞬間、空気が震えた。


 音が消えたかのように、世界が一瞬止まる。


 レイジは咄嗟に両腕を交差させ、剣を持ち直し、防御の姿勢を取った。


 体が勝手に動いた。恐怖よりも、守らなければという本能の方が早かった。


 次の瞬間、鋼鉄の線が閃光のように走った。


 耳が痛くなるほどの金属音。視界が白く弾け、鼻を刺す血の匂いが一気に広がる。


 ——何が起こった?


 遅れて、焼けるような痛みが襲ってきた。


 反射的に視線を落とす。そこには、あるはずのものが、なかった。


 両腕が、ない。


 手首から先が、宙に舞う。


 ゆっくりと回転しながら、赤い軌跡を描いて落ちていく。


 まるで誰かの悪い夢を見ているようだった。


「……あ、あぁ……」


 震えた声が漏れた。自分のものなのかも、もうわからない。


 それでも、立っていなければ。


 倒れたら、すべてが終わる。


 カリナも、レイチェルも。


 膝が崩れそうになるのを必死に堪える。


 握っていたはずの剣が、コンクリートの床に当たって甲高い音を立てた。


 同時に、手首の断面から血が噴き出す。


 視界の端で、バロックの片眼が静かに光った。


 冷たい、感情のない光。まるで死神が、仕事を続けるだけのように。


 ——まだ、終わってない。


 歯を食いしばって前を睨むが、力が入らない。


 熱さと、痛みと、後悔と、怒りがごちゃ混ぜになって、胸の奥がぐちゃぐちゃにかき乱される。


 バロックの口が動く。何かを言っているようだが、もう耳が拒絶していた。


 手首から血が流れ続ける。もう、剣を握ることはできない。


 自分に希望を託してくれたヘルマンの顔。


 未来を信じようとしてくれたレイチェルの瞳。


 回復を喜び、笑ってくれたカリナの声。


 それらが走馬灯のように脳裏を駆け抜けた。


 ——終わりたくない。


 その瞬間だった。


 《エディアナナイシュ》


 脳内に、得体の知れない声が響く。


 どこの言語なのかもわからない。だが、確かに聞いたことがある気がした。


 世界が遠ざかっていく。


 血の匂いも、痛みも、視界も、すべてが音もなく溶けていった。


(カリナさん、レイチェル……絶対に助け出すから……)


 意識が闇に沈み込む中、レイジの唇が微かに動いた。


   * * *


 バロックは片手剣を鞘に納め、床を軽く蹴った。


 動きに迷いはない。静寂の中、足音だけが鈍く響く。


 あまりにも単調な構え。型だけ真似たような、拙い剣筋。


 ——これでよく、人を「素人」と罵ってくれたものだ。


 反吐が出る。


 このような小童に、誰が本気になるものか。


 だが、剣士として築き上げた誇りを踏みにじられたという事実だけが、彼の内側に黒い火を灯していた。


 無意識のうちに、指先に力がこもる。


 それほどに、少年の言葉と無謀が、彼の矜持を傷つけていた。


 鍛錬の延長にすぎない。形だけの居合。


 それで充分だった。


 鞘走りの一閃。


 空気が裂け、時間が凍る。


 少年は反射的に腕を交差させ、防ごうとした。


 だが、刃は抵抗を感じることなく、肉を裂き、骨を断ち切った。


 手首ごと、吹き飛ぶ。


 血が噴き、床に生々しい音を立てて落ちた。


 握っていた剣が、鈍い金属音を響かせて転がる。


「……あぁ、見苦しい」


 喉が裂けそうな悲鳴が響く。


 バロックは眉をひそめ、ほんの一瞬だけ、胸の奥に鈍いものが疼いた。


 それは、情けか、あるいは罪悪感の欠片だったのかもしれない。


 ——楽に死なせない。そう言ったのは自分だ。


 だが、今の少年はあまりにも無力だった。


 何も守れず、抗う術もなく、ただ痛みに震える姿は、滑稽ですらあった。


「俺はまだ人の心があるようだ。小僧……楽に死なせてやろう」


 バロックはゆっくりと剣を抜き、刃先を少年の首筋へあてがう。


 肌が薄く裂け、赤い線が滲む。


 温かな血が刃を伝い、手の甲に滴った。


 ——少し、気が晴れた。


 そのまま一気に振り抜こうと、腕に力を込めた——その時。


 鈍い感触が右手に伝わる。


 刃が止まった。切れていない。


 確かに肌には触れている。だが、斬り裂けない。


 何かが、違う。


 バロックは目を細めた。


 少年の肌が、黒く染まっていく。


 まるで墨を垂らしたように、全身が、じわじわと暗く侵食されていく。


 そして——切断したはずの両腕から、黒いものが蠢いた。


 触手のような、煙のような。


 うねりながら、這い出してくる。


「……なんだ、これは……?」


 一歩、後ずさる。


 床を這う黒が、音もなく形を変え、少年の全身を覆っていく。


 呼吸が白く漏れた。


 異様な気配が、空気を満たす。


 やがてそれは“立ち上がった”。


 人ではない。


 だが、確かに、意思を持つ“何か”だった。


 顔はない。表情もない。


 ただ、首だけが人形のようにぎこちなく回転し、目にあたる部分が、黄色く光を放つ。


 その光が、バロックを見据えていた。


 圧のようなものが、胸の奥を押し潰す。


 ——まるで、地獄の底から見上げてくる“何か”の眼だった。


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