#038
錆びついた重い扉を押し開けると、軋むような音が鈍く響いた。
中から吹き出した湿った空気が、レイジの頬をなでる。
鼻を突くカビと鉄の臭い。古い血のような匂いも混ざっている気がした。
レイジは息を浅くし、視線を真っすぐ前へと向けた。
暗闇の奥には、外観からは想像できないほど広い空間が広がっていた。
床は石畳ではなく、割れたコンクリート。
そして何よりも異様なのは、天井の高さだった。
二十、いや三十メートルはあるだろう。
どこか礼拝堂のようでもあり、廃工場のようでもある。
音を吸い込むような静寂の中、誰かが息をしている気配だけが確かにあった。
「この時を待ちわびた——逃げずにここまでたどり着いたことは褒めて進ぜよう。……小僧」
低く響く声が、空洞を震わせた。
その瞬間、上空の闇がわずかに動いた。
レイジが反応するより早く、天井の梁から人影が落下する。
音も立てずに床を踏みしめるその姿——細身の体に、使い込まれた片手剣を二本腰に下げた隻眼の男。
鋭い殺気が、空気を一瞬で張り詰めさせた。
「レイチェルはどこだ。返してもらう」
レイジの声は落ち着いていた。だが、胸の奥で鼓動が一拍早くなる。
隻眼の男は、ゆるやかに笑った。
その笑みには侮蔑と、どこか楽しげな色が混じっている。
「ここにはいない。否、俺にとってあの金髪の少女などどうでもいいのだ。目的は——お前なのだから」
「僕が、目的? レイチェルがいないなら、お前なんかと話している時間はない」
レイジは踵を返そうとする。
しかし、背後から放たれた声がその動きを凍らせた。
「ここから出ることはできない。お互い生きてるうちはな。小僧、俺と戦え。あの時の屈辱——今この場で晴らしてくれよう」
「……あの時?」
「忘れたとは言わせん。廃墟で少女の身売りを警護していた時のことだ。確かに切り裂いたはずの貴様が、背後から不意打ちなど……!」
レイジは一瞬だけ眉をひそめる。
記憶の中から男の顔を引き上げ、あっけらかんと呟いた。
「ああ、あの素人のおじさんか」
「……素人ではない。我が名はバロック——片眼剣士のバロックだ!」
その名を聞いた瞬間、レイジの思考が冷たく研ぎ澄まされる。
《片眼剣士のバロック》。
聞いていた異名とは違うが、あの人攫い集団と繋がっていることは確定——。
面倒な相手ではある。しかし手がかりになることは間違いない。
バロックが一本の剣を抜き、刃先を軽く回すと、いきなり投げつけた。
レイジは身をひねってかわす。
床に突き刺さった剣が、甲高い音を立てた。
「剣を抜け——。ここで会稽の恥を雪ぐ!」
「素直に負けを認めるのはいいんだけど、僕、急いでいるんだよ」
バロックの片眼がぎらりと光る。
「安心しろ。お前が本気になれるように——《用意》をしている」
その言葉とともに、男は背後を顎でしゃくった。
レイジがそちらに視線を向けると、心臓が一拍跳ねた。
暗がりの奥。
一本の柱に、誰かがロープで縛られている。
「カリナさん……!」
駆け寄ろうとするが、バロックが一歩踏み出してそれを遮った。
ロープで片腕を柱に結ばれたカリナは、かすかに身じろぎした。
焦点の合わない瞳がレイジの方を向くが、返事はない。
彼女の唇が微かに震えただけだった。
レイジの奥歯が、音を立てた。
視界が、炎のように赤く染まる。
「俺を倒し、その剣でロープを切ればよい。そうすれば——少女を助けに行けるぞ」
バロックの声音は、まるで余興でも始めるかのように軽かった。
命のやり取りを前にしてなお、愉悦すら感じているようだった。
逃げ道は、なかった。
カリナを見殺しにする選択肢など、レイジの中には存在しない。
床に突き刺さっていた片手剣の柄を、強く握りしめる。
冷たい金属の感触が掌に食い込み、指先に痛みを走らせた。
大丈夫——あのとき、背後からの一撃で倒した。
真正面からでも、勝てない相手じゃないはずだ。
ヘルマンに教わった通り、重心を落とし、足の間隔を整える。
剣を構えた瞬間、背筋に静かな火が灯る。
指先から伝わる重さは”命の重さ”なのだ。
呼吸が浅くなり、鼓動が速くなった。
「覚悟はできたか……? ——参る」
その声と同時に、床を蹴る音が空間を裂いた。
バロックの影が、風よりも速く迫る。
鋭い突き——視認できる。右へ避ければ、間に合う。
レイジは反射的に身を翻した。
死角——バロックの閉じた左眼。
その方向へ踏み込み、一閃。
狙いは完璧だった。
だが、金属が擦れる甲高い音が耳を裂いた。
バロックの左手が、籠手で刃を受け止めていた。
「死角を狙ったか。賢い。しかし——あまりにも単調だ!」
そのまま、籠手越しに力を込め、レイジの剣を強く弾く。
バランスを崩した瞬間、刃の背が閃光のように動いた。
次の瞬間、激痛が左脇腹を貫いた。
「……ッぐ!」
内臓が震え、息が止まる。
レイジの身体は弾き飛ばされ、背中から壁に叩きつけられた。
硬いコンクリートがひび割れ、白い粉塵が舞う。
視界が一瞬かすむ。
「一撃で楽に死ねると思うなよ。なぶり殺してくれる」
バロックの足音がゆっくりと近づく。
その一歩一歩が、まるで処刑の合図のように響く。
レイジは血の味を感じながら、それでも口角をわずかに上げた。
「なんだ……たいしたことないじゃん。動き、全部目で追えるし」
強がりではない。
確かに動きは“見えている”。
だが、身体が追いつかない。脳が理解しても、筋肉が遅れる。
見えているのに、反応できない——それがもどかしい。
「動きを見ればわかる。強者は“見る”より先に身体が動くのだ」
バロックの声が、剣のように鋭く刺さる。
次の瞬間、レイジの剣に青白い光が宿り、放つ。
「——《魔圧撃》!」
斬撃と同時に、空気が爆ぜる。
一瞬の隙をついて剣先から放たれた衝撃波が、バロック向けて一直線に走り床を裂いた。
しかし、彼は斬撃から目を離さず、ひらりと躱してみせた。
まるで動きを——予見しているように。
「その歳で応魔七式を使うか。だが、手に取るようにわかるな」
バロックが薄く笑う。
その笑みには、熟練の剣士の余裕があった。
「お前は猿のように、同じことしかできない。俺が今まで、七式使いとやり合ってこなかったと思ったか? 剣士と名乗る以上、最低限、対処法くらい理解しておくものだ」
レイジは唇を噛んだ。
胸の奥に、焦りと怒りが混じる。
まだ、距離がある。圧倒的に足りない。
だが——それでも退くわけにはいかない。
カリナの命が、この先にあるのだから。




