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#037

 ツヴァイが指を差した瞬間、空気が一層冷たくなるのをミカは感じた。


「行くのは君だけだよ、レイジくん」


 その声は仮面の下から滲むように聞こえ、微かな笑いが廃墟の影に反射する。


 時間が一瞬止まったように感じられたのは、恐怖と不安が胸を抑えつけたからだ。


 ミカは直感で――いや、職業的な勘で判じた。絶対に罠だ、と。


「絶対罠よ、こいつら怪しい薬品や魔獣と関わってる。すぐに応援を——」と口を開けたところで、空気がぴんと張り詰める。


 周囲の一人、大柄な人物が滑るように動き、ミカの正面に立ちはだかった。


 仮面で顔は見えず表情はわからない。


 だがその立ち居振る舞いと、張り付いた静けさが「選択の余地はない」ことを告げていた。


 ローブの集団の一人、長身の者がゆっくりと前に出る。


 その人物がレイジに跪く所作を見て、ミカの胸に冷ややかな苛立ちが込み上げた。


 慇懃無礼な態度が、まるで劇場の台詞のようにひどく作り物めいて見える。


 この者たちは一体何者なのか。


 あるいは、もしかするとレイジ自身に何かあるのかもしれない——嫌な予感が、ミカの背筋を這い上がった。


 そのとき、レイジの声が小さく、けれどはっきりと届いた。


「……ごめん、ミカ姉ちゃん。僕、行くよ。もし罠だったらレイチェルやカリナさんのことお願い。今の僕にとって、これが唯一の手掛かりなんだ。悩んでる時間はない」


 彼の言葉は短く、しかし歳の割に大人びていた。


 言葉の端に含まれる覚悟は、ヘルマンが使う口調に似ている。


 驚きよりも先に、ミカの胸に深い尊敬がふと差し込むのを感じた。


 彼の小さな背中には、ただの子どもの影はなかった。


 長身の人物が静かに一歩を踏み出すと、レイジはその歩幅に合わせて後を追った。


 動きは決して速くはない。


 だがその一歩一歩が確かで、周囲の時間を引き裂くように進んでいく。


 ミカは刃を握ったまま、冷たい風に哀しさが混じるのを感じた。


 誰もその場を動こうとはしない――いや、動かせないという空気が満ちている。


 レイジの後ろ姿が少しずつ遠ざかる。


 ミカは喉の奥に言葉を詰まらせた。


 叫びたくても、それがどうにもならないことを知っているからだ。


 代わりに、彼女は視線を目の前の大柄な仮面の人物へと戻す。


 仮面の下の瞳が、確かに彼女を見返しているような錯覚が走った。


 胸の奥で、不安と責務が絡み合い、焼けるように渦巻いていた。


 それでもミカは、己に言い聞かせる。


 ——今できることは限られている。感情で剣を振るえば、守るべきものを失うだけだ。


「騎士団としては、あなた達を危険組織として警戒しています。ちょうどよかった……ここで逃がすわけにはいかない」


 声が震えなかったことに、自分でも驚く。


 指先は冷たく、汗ばむ手のひらが柄を滑りそうになる。


 それでも、ミカは両腕に力を込めた。


 刀身が赤熱し、瞬く間に炎を纏う。


 揺らめく火が空気を歪め、影を照らし出す。


「おやおや、元素術エレメントアーツですか、面白い。でもねえ、武器頼みなんて素の実力が伴ってない証拠ですよ。それに早とちりしないでください。人の話は……最後まで聞いた方がいい」


 ツヴァイは一歩踏み出し、炎の光を受けて薄く笑った。


 その口調には余裕があり、まるで戦いを待ち望んでいたかのようだ。


 その“慣れ”が、逆に不気味だった。


 騎士としていくつかの修羅場をくぐってきたミカでも、この空気はただの威嚇ではないと肌で感じる。


「何が言いたいの……?」


 問いかけても、相手は淡々と続けた。


「私はここを通さないなんて、一言も言っていませんよ」


 その一言で、周囲の仮面たちが静かに身構える。


 剣を抜くでもなく、呪を唱えるでもなく——ただ彼女を取り囲んだまま、動かない。


 その沈黙が、逆に恐ろしく思えた。まるで、誰かが「合図」を待っているようだ。


「通してくれる雰囲気には見えないけども」


「なら、方法は一つだけですよね」


 ツヴァイの言葉と同時に、空気が爆ぜた。


 次の瞬間には、ミカの体が勝手に動いていた。


 反射のように、灼火の刃を振り上げる。


「——焔閃!」


 その一閃は、怒りと恐れと覚悟のすべてを乗せた、騎士ミカ・アルドゥーネの渾身の斬撃だった。


 爆ぜる熱波が一帯を包み、赤い光が夜を裂く。


 それでも彼女の瞳は、恐怖ではなく、ただ一つ——守るべき背中を追っていた。


 * * *


 レイジは長身なローブの人物の背を追っていた。


 歩幅は大きいが、速度は妙に一定で、追跡が楽すぎる。


 ――いや、これは合わせられている。


 まるで自分の歩調に“導かれている”ような気がして、胸の奥がざらついた。


「レイチェルは、この先にいるんですか」


 声をかけても、振り返らない。


 返事どころか、歩調ひとつ変わらなかった。沈黙が、逆に肯定のようにも聞こえる。


 路地裏を抜け、屋根を飛び移り、下水道を渡る。


 迷路のような道を進むうちに、どんどん空気が重くなっていく。


 アークレーンから離れたことくらい、地理に疎いレイジでもわかった。


 そこは、まるで街が息を潜めているような、異様に静かな区域だった。


 そして――先導がが不意に足を止めた。


「ここだ……」


 濁った声が、湿った空気の中でぼやけて響く。


 レイジが顔を上げると、目の前に現れたのは、建築物と呼ぶにはあまりに歪な塊だった。


 積み木のように継ぎ足された壁、歪んだ角度でつながる屋根。


 違法に増築を繰り返した結果、原型などとうに失われているのだろう。


 窓はひとつもなく、ただ黒い口を開けてこちらを待っているようだった。


 ――入れば、もう出られない。


 そんな直感が、背筋を冷たく撫でた。


「レイチェルがこの中に?」


 レイジの問いに、ただ無言で首を縦に振る。


「実行犯もいるはず。交戦するも、敗走するも、自由にすればいい」


 その言葉に、責任を放り投げるような軽さがあった。


 あくまで“ここまで連れてくる”のが仕事。


 それ以上は関与しないという態度。


「ここまで連れてきてくれてありがとうございます。もし僕が死んだら……ヘルマンや、みんなに伝えてくれると助かります」


 レイジは努めて穏やかに言った。


 だが、返ってきたのは無言。


 その沈黙が、かえって重く響く。


 ――やっぱり、そうか。


 覚悟を決めたように、レイジは拳を握りしめた。


 その手がかすかに震えるのは、恐怖か、それとも昂揚か。


 自分でももう、わからなかった。


 一歩。


 腐食した鉄の扉を押し開け、レイジは暗闇の中へと踏み入れた。

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