#036
レイジの足取りは重かった。
以前この道を通ったときは、金策の妙案を思いついて胸を躍らせていたというのに。
今はその軽率さが、胸の奥で錆びついた刃のように突き刺さっていた。
——浮かれていた。
異世界だというだけで現実を見ようとしなかった自分を、今すぐ殴ってやりたかった。
朝の光がぼんやりと街を照らし始めている。
だが空一面は鈍い曇天で、冷たい空気が頬を刺した。
胸の中の冷えと同じように、世界の温度までも下がっていく気がした。
やがて、あの廃墟が見えてくる。
半壊した壁、崩れ落ちた屋根、黒ずんだ鉄骨。
何ひとつ変わっていない。違うのは——そこに、もうレイチェルがいないということだけだ。
軋む扉を押し開けると、空気がよどんでいた。
鼻を刺すような腐敗臭。
ミカが思わず鼻をつまみ、眉をひそめる。その表情が、ここに残る過去の痛みを物語っていた。
レイジはゆっくりと室内を見渡した。
目立つ位置に、鉄の檻が残されている。
まるで獣を閉じ込めるような、無骨で冷たい檻。
——ここに、あの子は入れられていた。
その事実を思い出した瞬間、今更になって、喉の奥が焼けるように痛んだ。
どれだけの恐怖と屈辱を、この場所で感じていたのか。考えるだけで胸が軋む。
錆びた鉄くずの間を歩きながら、木箱を開け、壁際の影に目を凝らす。
だが、何の痕跡も見つからない。
焦りが静かに広がっていく。
「……片手剣のバロック」
ふと、カリナが口にしていた名が脳裏をよぎる。
人攫い集団の中でも危険とされる男だ。
もしそいつが関わっているなら、カリナもレイチェルも——無事では済まないかもしれない。
唇を噛む。血の味がした。
「ここには、なにもないかもしれませんね」
レイジの声が静寂を割った。
取り繕った冷静な響きの奥に、警戒と苛立ちが混ざっている。
「そうね。奴らは複数のアジトを転々とするのが常套手段。他の場所が分かれば、そこを当たるのが一番早いわ」
ミカの判断に、さすが騎士団員。とレイジは思った。
冷静で、現実的で、心が折れそうな時にも淡々と判断を下せる。
その冷静さに、少しだけ救われる気もした。
「ここの他に、怪しい場所が近くにないか探してみましょう」
レイジは頷きながらも、胸の奥では焦燥が膨らんでいた。
正直、この廃墟しか当てがなかった。
ここに何もなければ、また振り出しだ。
時間だけが過ぎ、二人の命が遠ざかっていく——。
レイジは拳を握りしめた。
冷たい鉄の匂いが、手のひらにこびりつくようだった。
廃墟を出て荒れた地面を踏みしめたとき、空気が一変した。
複数の影が空から降り、あっという間にレイジとミカを取り囲む。
音を吸い込むような静けさの後に、低い声が幾重にも重なる。
「なに、なんなの……あなた達はたしか、魔人の……」
ミカの声が震える。
腰に手をかけると、即座に刃が抜かれた。
彼女の動きは機敏で、危険を直感した身体が反応している。
「どうも、ミカ・アルドゥーネ隊員。またお会いしましたね。いや、僕もまさかこんなに早く再開するとは思っていませんでしたよ」
黒い外套を纏い、怪しい仮面で顔を隠した集団。
薄暗い仮面の下で唇が動くたび、古びた布が擦れる音だけが聞こえた。
彼らの存在自体が、廃墟の腐敗臭と混ざって不快な冷たさを放つ。
面識があるらしい――それだけで、レイジの胃がきゅっと締まった。
「まさか、また魔獣や魔人? 何を企んでいるの」
問いかけに、仮面の男は軽く笑ったような音を立てる。
声質は柔らかいが、どこか滑稽にすら聞こえる。
「“企んでいる”なんて、まるで悪の組織扱いだ。酷いな、僕たちはまだ何もしていないというのに」
「まさか、二人が消えたことにも関係しているというの?」
「関係……ないとも言い切れません。そうだ、ミカさんとはお会いするのは二回目ですが、自己紹介がまだでしたね。前回は急いでいたもので失礼いたしました。僕のことは——《ツヴァイ》と呼んでいただければ」
「どうせ偽名でしょ、いいわ。拘束して尋問班に引き渡します。レイジくんは下がって」
「尋問だなんて、怖いなあ。平和的にいきましょうよ。行き先を知りたいんでしょう? なんて言ったかな。カリナと、レイチェル? ですよね」
その言葉に、レイジの心臓が跳ね上がる。
手がかりのない状況では、どんな情報でも頼りになる。
だが同時に、体が冷たくなるような疑念も芽生えた。
怪しい連中の言うことを鵜呑みにしていいのだろうか。
「ねえ! レイチェルのこと何か知っているの!」
思わず食い下がる。声に込められた焦りは隠せない。ミカが低く制す。
「レイジくん、こいつらの言葉に耳を傾けちゃダメ」
ミカの目は真剣だった。だが、ツヴァイが首を傾げ、さらりと返す。
「いやいや、今日は傾けてもいいと思いますよ。なぜなら、僕たちはそのレイチェルの居場所を知っています」
その一言は、空気を一瞬にして変えた。
希望か、それとも罠か。二つの可能性が、同時に胸に落ちる。
「それって、あんた達が連れ去ったってことでいいかな」
レイジの声は怒りで震えた。
怒りが先に立つのは、恐怖を隠すための防御でもある。
「攫ったのは我々ではありません。攫われたのを確認し、追いかけていました。ようやく、居場所を特定したのですよ。君たちとしては、どこにいるか早く知りたいですよね?」
ツヴァイの言葉は滑らかで、嘘を重ねる余裕すら感じさせた。
だが、口先だけで人の命を弄ぶ者もいる。
ミカは柄の先を相手の首元へ押し当てる。露出した肌の冷たさが伝わってくる。
「何が目的……?」
「僕たちは協力関係を築きたいだけですよ。さあ、案内しましょう」
ミカが横目でレイジをちらりと見る。
目が合う瞬間、そこには縋るような光があった。
情報を欲する気持ち、真偽を確かめたいという切実さ。
レイジは自分の中の責任を再確認する。
ツヴァイは、礼をするようにゆっくりと一歩前に出る。
手にした棒の先を、示すように地面へ突いた。
話すたびに、仮面の隙間から覗く瞳が光る。やがて少し間を置いて口を開いた。
「ただし、一つだけ条件があります。言い忘れていました。これは失敬」
その瞬間、ツヴァイの人差し指が伸び、レイジの額に触れた。
冷たい指先が額に押し当てられる。刺激は鋭く、小さな電流のように脳を走る。
「行くのは君だけだよ。レイジくん」
言葉が終わると同時に、周囲の仮面が薄く笑った。
ミカの呼吸が荒くなる。包囲する影たちの視線が、まるで網の目のように彼を追いつめる。
レイジの胸中で、幾重もの思考がぶつかり合う。
責任感、恐怖、焦燥、そして――どこかで芽生えた覚悟。
指先の冷たさが消えないうちに、彼は答えを出さねばならなかった。
* * *
少年レイジは、衝動のまま飛び出してしまった。
あの小さな背中を見送ると、胸の奥が重くなる。
彼を不安にさせないように、励ます言葉をかけたはずなのに——恐怖と焦燥が、あの子を突き動かしたのだろうか。
ヘルマンはやりきれない感情に押し潰されそうになる。
怒り、悲しみ、無力感――混ざり合った感情を整理できず、目の前の荒れた室内を見つめるしかなかった。
部下たちは手際よく動き、状況を細かく記録している。
荒らされた家具、散乱した書類、血痕の一片まで——すべて正規の手順として記録する。
騎士団として、組織として、今やるべきことなのだと自分に言い聞かせる。
目の前の現実は、少年のように無鉄砲に動けば解決するのかもしれない。
だが、組織と規律はそれを許さない。
同じ轍を二度と踏まない。
あの時の失敗を、再び繰り返さない——胸に固く誓ったばかりだ。
室内の騒音がひと段落すると、ヘルマンはキッチンに向かう。
顔を洗い、頭を覚醒させるためだ。
昨日の朝からほとんど眠れていない。脳内は膨大な情報処理で限界に近い。
蛇口をひねる。
冷たい水が流れ落ち、顔に叩きつけると、瞬間的に頭が冴える気がした。
タオルで拭うと、視界の端に見慣れない封筒が置かれているのに気付く。
《果たし状——》
その文字を目にした瞬間、胸の奥がざわついた。
冷たい緊張が背筋を走る。
何かが、確実に、起こっている——。




