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#035

 空気が重く、部屋の中はまるで凍りついたように静かだった。


 レイジは床にへたり込み、膝を抱えながら自分を責め続けている。


 声を上げる代わりに、胸の中で同じ言葉が何度も反芻される。


 ――目を離してしまった。油断した。無理にでも連れてくるべきだった。


 今朝の光景が、部屋の乱れと混ざって目に焼き付いている。


 倒れた椅子、散らばった食器、壁に残るひっかき傷。


 どれも強引さの痕跡を物語っていた。


 血の匂いはまだかすかに鼻腔に残り、新しさを告げている。


 可能性がどんどん最悪の方へ膨らんでいく。


 怪我をしているかもしれない。


 無理やり連れて行かれたのかもしれない。


 胸に刺さった重石は、ちっとも動かない。


 何かを掴みそこねた感覚が、骨にまでしみ込んでいた。


 大きな音で玄関が開く。


 反射的に立ち上がり、ドアの方へ駆け寄る。


 ――レイチェルとカリナが戻ってきたのかもしれない。


 だが、飛び込んできたのは息を切らしたヘルマンだった。


「ヘルマン……」


 その声は裏返り、ぎこちない。


 レイジは言葉の続きを探したが、喉が塞がってうまく出ない。


 ヘルマンの目が部屋の中を淡々と掃く。


 驚きと怒りと不安が交差する表情が、ゆがんで見えた。


「なんだ、この荒れ具合は……。カリナが何かに巻き込まれたって聞いて、飛んできたんだ」


 言葉の端から熱がこみ上げるのがわかった。


 レイジの胸の奥に、冷たい後悔と共に熱いものが押し上げてくる。自分を責める涙が。


「カリナさん、いないよ。レイチェルも……」


 言い終えた瞬間、喉の奥が締め付けられるようだった。


 言葉は現実を確定させる。


 ヘルマンが、無言でこちらへ歩み寄り、大きな掌をレイジの頭に置く。


 力強く、しかし慰める手だ。瞬間、少しだけ体温が戻った気がした。


「二人ともいなくなったのか? カリナは、帰ってこなかったのか? レイチェルとどこかに出かけた? ……いや、家の中がこの荒らされ具合だ。玄関に血痕もあったし、誰かに無理やり連れていかれた可能性が高い」


 ヘルマンの声は切迫しているが、どこか冷静だった。


 事実を並べ、次の行動を組み立てる口調だ。


 レイジはその言葉を聞きながら、自分の無力さを噛み締めた。


「どうしよう。僕がレイチェルを人攫いから連れ出したから、カリナさんも」


 駄目だ、と心のどこかが叫ぶ。


 言い訳にも似た言葉が口を突いて出る。


 自分を守るための行為が、他人を危険に晒してしまったのではないかという恐怖が、体を震わせる。


「お前は正しいことをした。俺の目も、届いていなかったんだ」


 ヘルマンの言葉は、叱責でも赦しでもない。


 静かな事実の受け止めだった。


 彼は室内を素早く見回し、目に入るものを脳内で分解していく。


 行動の優先順位が、既に組み立てられている。


 再び玄関の扉が勢いよく開き、息を切らしたミカが乱入してきた。


「隊長、カリナさんは……」


 彼女の顔に浮かぶ焦りを一瞥して、ヘルマンは即座に指示を下す。


「いない、レイチェルもだ。この状況だ。一刻を争う事態かもしれない。すぐに班を招集する」


 命令の響きが身体の奥を震わせる。


 言葉のあとに来るべきは、躊躇ではなく行動だと、レイジの胸が小さく主張する。


 刺さったままの重石の痛みは消えない。


 それでも、今ここで動かなければ、誰かの命はもっと軽く扱われてしまう——そんな恐怖が彼の背中を押した。


 立ち上がる。


 手が震えるのを感じながら、レイジはヘルマンの動線を目で追った。


 自分が動かなければ。


 自分の不注意が招いたかもしれない事態を、自分の力で少しでも償いたいのだ。


 躊躇は一瞬だった。


 次の瞬間には彼はバルコニーの欄干を越え、外へと飛び出した。


 朝の冷気が顔を刺し、足元の石畳が固く響く。


 目標はひとつ。必ず二人を見つけ出し、レイチェルに安心して暮らせる場所を取り戻すこと。


 背後からヘルマンの呼び声が届く。


 低く押し殺された声が「待て」と言っているようだ。


 だが、レイジは振り返らない。振り返れば気持ちが折れそうで、それは許されない。


 この子供の姿だからこそできることがあるはずだ——その思いが彼の足を速める。


 走り出してすぐ、誰かが後を追ってくる気配がした。


 足音、布の擦れる音。振り返る暇はない。


 だが次の瞬間、その人影は彼の進路の正面に立ちはだかった。


 ミカだった。息を切らし、額に汗を浮かべているが、瞳には決意が宿っている。


「レイジくん、早すぎるよ……どこに行くつもりなの? カリナさんとレイチェルのことは、騎士団に任せてほしい」


 ミカの声は叱責でも説得でもなく、仲間を案じる温度を含んでいた。


 レイジは一瞬だけ足を止め、胸の内を吐き出すように答えた。


「ミカ姉ちゃんやヘルマンのこと、信用してないわけじゃないよ。でも、僕が動かないといけないんだ。これが、責任を取るってことだと思うんだ」


 言葉にこもる震えを、彼は必死で押し殺している。


 責任という言葉が、自分のなかで初めて重さを持ったのだ。


「そうかもしれないけど、レイジくんにできることには限界があるでしょ。そもそも、どこを目指すつもりだったの?」


 ミカは眉をひそめる。


 訓練で培った判断力と、現場を預かる者としての慎重さが滲む問いだ。


「情報を集めようと思って……。レイチェルと初めて出会った廃墟に行くつもりなんだ。あそこにいた連中——一人攫いの類が、もしかしたら関係してる。何か手がかりが残ってるかもしれないから」


 答えるとき、レイジの視線は遠くの路地を見据えていた。


 廃墟の影が脳裏に浮かび、そこに潜む痕跡を思い描く。


 ミカは一瞬考え込み、そして肩を落として小さく溜息をついた。


 やがて顔を上げ、彼の目をまっすぐに見る。


「わかったわ。でも、私も行く。本当に人攫い集団が動いているなら、騎士団が黙ってはいられない」


 その言葉に、レイジの胸に微かな救いが差し込む。


 ひとりじゃない。


 頼れる大人が隣にいるという実感が、行動の確度を少しだけ高める。


 二人は歩を進め、始まりの地へと向かった。


 石畳の上を二人分の影が伸びる。


 朝光の下、凍りついた状況が少しずつ動き出す音だけが、静寂を削っていった。

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